降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

看取り看取られ部続き1 生態系をつくる

先のエントリーで、看取り看取られ計画の話しをした。

 

 

しかし介護のこと制度のことなど全然知らないので、とりあえず知り合いで、ケアマネやっている方や、ケアマネ資格の勉強されている方に話しをききにいく予定。メールしてアポ取り中。

 


先日、浄土寺の甘夏ハウスで育児についての話しをきいていた。僕自身は、自分の子どもをもつということにあまり関心がないけれど、部分的に人の育児に関わるのはありかと思っている。

 

ところで、子どもがいないと老後が不安という話しを時々耳にする。人の状況はそれぞれなので、子どもがいても老後に面倒をみてもらえるかどうかわからない一方、ケアをしてもらえる可能性も出てくるだろう。

 

 

そこで仮に、誰かが部分的に人の育児に関わったと考える。しかし、将来的に子どもは肉親のケアをしても部分的に育児をしてくれた人のケアまでする余裕や必然性は一般にあまりないのではと思う。

 

部分的に育児に関われる人、関わりたい人が潜在的に多くても、そもそもそういう人たちは今も将来的にも不安定さを抱えているので、善意と関わる間だけの充実感では、そこに時間とエネルギーを投資することは難しいのではと思った。やったことが循環して自分に戻ってくるという暮らしをデザインするのが、エネルギーをためるのにも、生きていくにも重要なのだと思う。

 

 

さてここで、看取り看取られの話しと、育児ということはセットで考えていいのかと思いだす。老いと育児が同時にある空間。大家族的な規模で、お互いのケアをする。この大家族は架空の関係性において成り立つ演劇空間でもあるわけなのだけれど、一応この空間にいる間は、老いも若きも互いの面倒をみるという設定を維持した上で、いざ自分が老いたら看取ってもらうというかたちがいいのかなと。老老介護の指摘もあったけれど、実際に関係者が高齢者だけというのは無理が大きいだろう。

 

子どもは老人を元気にする効果もあり、相性がいい。そういうことを無視する道理はない。年齢や性別、障害の有無にかかわらず同じ屋根の下で一緒に受けるデイサービスを富山型というらしいが、それは自然なあり方だろうと思うので、看取り看取られ部は、多世代が存在するなかで成り立たせるように考えたい。

 

あと作っていくときに、一つ、社会的なスタンスを提示する必要があるなと思った。誤解を招くように思ったので。これは、自分ごととしての生き残りの模索なのであって、直接的な社会変革を目指すものでも、万人に対して施行される福祉政策をつくるわけでもない。僕のスタンスは、自分ごととして自分の直接的な周りをつくりだし、生き残りを成り立たせること。でも、もしそれが成り立てば、副次的に社会的な意義は生まれるだろう。でも順番は逆にしない。


マザーテレサにある日本人が会いにいって、「私は何をすればいいですか?」とたずねると、隣人を大切にしてくださいと言われたとか。マザーの言うことは全て正しいとは思ってないけれども、「社会をよくする」というなら、隣人はまたその隣人を大切にするというのが基本だと思う。少なくとも8割方ぐらいは。それがひろがっていった結果、その周りもよくなると思う。

 

国を救うとか、全体を救うとか、生きものとしての人間が直接五感で知覚できることを超えたものは、フィクションだと思う。五感の知覚に対してはフィクションだから、適切に対応するのには限界がありすぎると思っている。お金と力を限られたところに集中させる手段として無理やりつくっている仕組みに対しては、それも一つの演劇空間の層として距離をとり、もう一つ自分たちの現実的な層をつくって重ねて複層で生きるのが自分たちのできることだと思う。

 

隣人の話しにもどって、現実的に考えるなら、循環の力ということを踏まえる必要があると思う。隣人というのは、向こう三軒両隣ぐらいで考えていいかもしれない。必ずしも固定的な近所付き合いを前提にしていないけれど。引っ越しもできる。

 

ともあれ隣人たちに対して行ったことは、循環になって実感として帰ってくるだろう。けれども、遠方に送った援助が実感できるだろうか。見に行けばいいけれど、見にいくにもエネルギーがいる。そのエネルギーはどこから得るのだろうか。電気にしても、効率がいいのは地産地消。大きなエネルギーを使って、電気を沢山つくって遠方に送るのはロスが大きい。循環ということを頭にいれれば、エネルギーはロス少なく、ためていける。ためていければ、遠方に送れる力もたまるだろう。自給的な思想にもどって、太陽の光とか、空気とか、水とか、もともとあって、自然に半永久的に使えるエネルギーを利用すると疲弊しない。循環の力は、物理的には見えないけれど確かにある力で、生きていくために利用できる力だ。

 

自分の周りに環境をつくりだす。

 

 

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多分、日本であってもおおっぴらに出ないだけで、ユニークな関係性で成り立つ「拡大家族」が存在していると思う。アサダワタルさんの住み開きも「拡大家族」のありようと思うけれど、住み開きは、それを中心的にやっている人の自助であるときに持続的に成り立つと思う。

 

この自分が生きていくためのエコシステム、生態系をそれぞれの場所でつくるということだと思う。実際、人は住み開きしていなくても、大抵家族以外のところに関わって、自分を維持しているわけなので、「家族」をどうするかより、生態系をどうするか、つくるかと考えたほうが自然かとも思う。

 

人はただ物理的な栄養を与えられて体がもてばいいのではなく、自分が自分をエンパワメントし、世界に働きかけていくこと基盤を持つ必要があると思う。そうでなければ、特殊性を持つ個として生きるときに、変わりゆく世界に対しての程よい環境が調整できないから。

 

「健康で文化的な最低限度」の「文化的」というところは、人がお互いに世界に働きかける主体としての人であることを保証しようということであるべきではと思っている。そうでないと結局弱っていってしまうと思うので。

 

ひのでやエコライフ研究所の大関はるかさんからデンマークエコビレッジの話しを聞いていて、あちらでは育児は3組ぐらいの家族が関わってやっていて、1家族だけで育児するなんて信じられないという感覚だとか。看取りもまたそう考えてもいいんじゃないかなと思う。またここでは、ご飯作るのは交代制なので、ある1人がつくるのは1週間に1度でいいとか。

 

エコビレッジになるのに時間がかかるとして、アパートの1棟貸しぐらいでそれに準ずることをやって、力をためながら自分たちの生態系をつくっていくことはできるのではと思う。とか、こんな話しをFBでしていたら、自分が住んでいるあるアパートの空き室を大体同じ方向性をもつ友人で満たしていく計画をたてている人がいて、お声がかかった。

 
次の展開は。