降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

コミュニティとの距離

それぞれ色んな考え方があると思うけれど、先日の合宿のときに、のむらさんにコミュニティというものについてどう思われるかときいてみたときに、「コミュニティはつくるものじゃないとおもう」といわれた。全くそうだなと思う。
 
 
友達がなぜ友達なのかは、幾らでも理由づけができたとしても、実際のところは意識ではわからない。お互いに友達になりましょうと宣言しあったり、約束しあったりしてなるものではないし。たとえそういうことをやって友達になったとしても、それはきっかけであって実質の関係性として成り立つ時には別のメカニズムが働いていると思う。
 
 
だから「コミュニティはどうつくれますか?」ときくよりは、「コミュニティが成り立ったり生まれたりする背景は何だと思いますか?」ときくほうがいいかなと思う。
 
 
そのとき、「コミュニティ」とは構成員が誰々と決まっていたりするものではなくて、そこにある関係性の質をもってそう呼ばれるものだと思う。
 
 

 

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結果としてある種の関係性の質を自分の周りに成り立たせるにはどうしたらいいのか。今のところの僕のイメージは人工漁礁だ。沈船でもそうだけれど、人口のものにも関わらず勝手にそこに生態系ができる。直接個体としての魚にアプローチするのではなく、それ自体としてはあまり意味のないもの、来た人が勝手に利用できるもの、転用可能性を様々なかたちで含んでいるものを置く。できるだけ中身のない外枠を置く。すると勝手にそこを利用する生態系ができていく。
 
 
一方で、複数人による育児なり看取りなりのある決まった目的を遂げるためには自然にほっとくだけでは足りず、ある程度意識的なメンバーがいるだろう。
 
 
しかし、そこであまりに永続的な関係性を想定するのは間違いだと思う。それ自体が負担になるし。目的のための一時的な関係というとドライすぎるようにとらえられるかもしれないけれど、それが成員間の適正な距離を担保すると思う。
 
 
 
今日読んでいたブログで、同棲は部活の合宿だと思うというくだりがあって、とてもいいなと思ったけれど、これもそうだと思う。看取りをやりあう関係性になるにしても、これは部活の合宿なんだと距離をとればいいんだろうなと思う。
 
 
人はどこかに定住していたとしても、旅人なのであって、全ては一時的なものなのだから。