降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

ニュートラルへ 失敗してもいいとは何なのか

トムソーヤの冒険のテーマソング「誰よりも遠くへ」は2番のほうが好きだ。

 

俺たちの胸にはトム 流れてるミシシッピー のんびりと陽気に力強く俺たちも歩こうよ

重たい靴など脱いで走ろうぜ     ーーー誰よりも遠くへ

 


世界名作劇場 トムソーヤーの冒険OP/誰よりも遠くへ/Tom Sawyer OP - YouTube

 

ハックがトムに呼びかけている設定でイメージしている。子どものときから胸に大河が流れているのをわかっているんだなあと思う。大河はちいさな自意識とは関係なく、悠久の昔から存在している。芥子粒のような自分よりもはるかに大きいものが自分とともにある。人間の社会から偏見や差別を受けていたとしても、大河が大河であることは侵されない。そんなものと共にいるんだなと思う。

 

自然は人間を全く顧みず、ただ自分の行きたいように行き、あるようにあるだけの他者だ。「さとうきび畑」では父親が殺されても何が時間が過ぎても変わらない自然の姿がえがかかれる。風が通り抜けるだけ。人として生きることの意味は、自然のなかではさしたる意味をもたない。

 


さとうきび畑 - YouTube

 

人が自分にとって生きることの重要な意味を失ったとき、自然がただ自然であることが強く認識される。人はこの大きな世界のなかで見捨てられた存在であることを知る。

 

 

繰り返す過ちのそのたび 人はただ青い空の青さを知る

ーーいつも何度でも

 


いつも何度も - 千と千尋の神隠し (Official Soundtrack with high-quality ...

 

青い空は人の世とは関係がない。


ザ・ブルーハーツ 青空 - YouTube

 

 

意味の無さに人は耐えることができない、だろうか。

そのようには思わない。意味の無さのなかにいるからこそ、人は互いの存在の儚さを知る。自然と対峙するとき、人は意識せずとも、その意味のなさのなかにいる。トムとハックが寝転んで青い空を見ながらふと言葉がなくなり、空を見入るときそこには人としての意味が関係ない世界にいることが意識下で感じられている。

 

意味の無さ。しかし、だからこそ人は自由になれるのだと思う。意味だけの世界は奴隷の世界でしかない。失敗してもいいと思えることは、そこに担保されている。生のまるごとを「失敗」したとしても、一方の世界では大したことではない。意味に満ちあふれた世界では、口で何といおうと失敗に救いなどない。

 

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人は2つの世界に生きている。人は意味をもてない世界にいて、そのなかに入れ子のようににささやかに意味の世界をつくる。意味のもてない世界は、ただむき出しのそのままであって、豊かで自由で残酷で不条理だ。そこに耐えられない人がもう一つの入れ子の世界をつくる。

 

だが人が入れ子の世界だけに包み込まれてしまった時、人は意味への奴隷となる。入れ子の世界がその優しさをもてるのは、あくまでそれを包みこむ世界、他者としての自然との不均衡な関係にあることが認識されているときのみなのだ。

 

意味のない世界に着地し、その大きさを取り戻すとき、そのことが人に自由と優しさをもたらしてくれる。失敗してもいいとは、意味の無さの世界を踏まえることによって成り立つ。意味だけの世界でのその言葉が語られるのならそれは嘘だと思う。

 

 

降り注ぐ花びらが 髪に肩にひらひらささやくの

出逢いと同じ数の別れがあるのね あなたのせいじゃない

ーーー「悲しみよこんにちは

 


悲しみよ こんにちは (歌詞付き) 相聚一刻 - YouTube

 

出会いの数だけ別れがある。喜びの数だけ悲しみがある。これもネガティブではなく、ニュートラル。より強い光、より強い喜びを得れるだけ得ようと強迫する社会は、それらがいずれ自分か誰かのより深い闇、より深い悲しみで帳尻を合わされるという現実を無視している。当たり前の基準がいっぱいいっぱいに上げられている。

意味の無い世界と意味のある世界がある。そして意味のある世界より、意味の無い世界が大きい。その比率のままに、この2つの世界を自分のものとして取り戻す。そして加えてこの意味のある世界において、過剰に強迫的になったものをもとの水準に戻す。

 

社会は変わらないかもしれない。しかし、個としてニュートラルになっていくことはできるだろう。肯定的なものは肯定的であるがゆえに否定性をもつ。当たり前を認めてそこにもどっていく。