降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

ムカエ火を観に行った ふたつの生き残りについて

下鴨の人間座で行われている「ムカエ火」へ。

内容を書くけれど、公演はまだ2日あるので各自の判断でお読みください。

 

放火魔が逃げ入った「空き家」には、人がいた。ごみ屋敷のなかで兄と妹がそこに住んでいた。兄は来訪者を放火魔と知らずに喜び、お茶をいれるからと引き留める。妹はどこかに怒りを含んだように冷ややかでぶっきらぼうだが「兄が喜ぶから」と放火魔が家に留まるよううながす。

 

放火魔は自分の正体を隠したまま去ろうとするが失敗。しかし、兄は態度を変えず彼にお客として家でゆっくりするように引き留めるばかりか、彼を全面的に守ろうとする。その場面に更に2人が入ってくる。もう一人の(長兄からみた)妹と弟だ。彼らは4人家族だった。何の躊躇もなくその2人に放火魔の正体を告げる兄。しかし、入ってきた2人も放火魔を大歓迎する。

 

放火魔の来訪を祝う宴会がはじまり、放火魔は住人から家族にならないかと誘われる。祝いがひとしきり続いた後、兄が辻褄のあわないことを口走ったところから、家族関係が架空のものだということが露わになる。実の妹は最初の妹だけだった。妹から「また増やすの?」と訊かれる兄。放火魔が無理やり出て行こうとすると、最初の妹を除く3人がこの場所を燃やしてくれと懇願する。そのなかで最初の妹がナイフを自らに突き立てる。暗転し、セピア色の明かりのなか、最初の妹がいた位置に放火魔がいる。兄が本をみて台詞をつぶやいている。そして終わり。

 

家族を演じることに4人が疲れきったときに、放火魔が現れたのだろう。最初の妹は、3人の演ずる姿を黙認していたが一貫して「現実」の世界にいた。彼女は長い長い編み物をしていた。放火魔がそれは何かと訊くと何かわからないと答える。編んだらまた全てほどき、それをずっと繰り返すのだという。囚人にある場所に石を積ませ、次の日その石を別の場所に移動させ、また次の日最初の位置に積ませるという精神的な拷問を連想する。

 

どこにもいかない破綻した現実。タイトルはムカエ火。死んだ人たちを歓迎するサインだ。放火は失われた何かを呼ぼうとしていたのだろうか。

 

コミュニティとは何か。何かの感覚が自分のなかで動いているのに気づいた。どこかが似ていたんだ。僕は大学のころ2年だけ演劇部に入っていた。そこに相似するものがあった。小さな大学の2期生。3、4年生はいなかった。誘われて何となく入った4人の演劇部。なぜかいつも一緒にいることが多かった。ご飯も作って一緒に食べたり。不思議な関係だった。どうしてああいうふうに一緒にいるのが成り立ったんだろう。話しを聞いてくれて、一緒にいることを喜んでくれる人たちだった。

 

彼らと劇をした。悪魔のいるクリスマスという脚本。見捨てられた売れない作家が公園にいる。そこに若いカップルが現れる。カップルは男を受け入れ家族のようにふるまう。しかし、カップルも実はもうこの現実の世界では生きていけないところにいた。カップルは寒い公園で死ぬ。迎えにきた意地悪な天使は、カップルに地獄行きを告げる。男は悪魔に戻って天使を追い払う。僕は作家の役だった。

 

演劇部の4人の関係性。ムカエ火の家族も4人。演劇部において感じたコミュニティに受け入れられる感覚。そして上演した劇の役もその時のあり方をなぞるようだった。演劇部の4人のうちの2人もカップルだったし。本当にそのままだった。

 

帰りに出演していた友人と話す。もっと劇のことを話せばよかったのに自分の話しばかりした。高齢者と演劇の話しとか。生き残りとか。生き残りという言葉には少し反応してくれていたようだったかな。

 

生き残り。生き残ろうとしていること。

別に何も目新しい言葉でも考えでもないが、これが今のところ僕がたどり着いたところで、生きることへの距離の取り方だ。「成長」でもなく「社会の役に立つ」でもない。生き残りだ。

 

生き残りは、考えに考えたというか、可能性のないものを取り除いていった結果、なんとなくそこにあって見つけた。生き残りという言葉はぴたっときた。そこに収束する感じがした。なぜ生き残りなのか。その構造の理解は後でくる。

 

ユングのタイプ論でいえば、僕は思考型ではなく直観型だ。言葉は直観を誘発するための環境設定であり、また言葉以前の直観を意味として理解するためのものだ。直観型は、感覚が弱いが少ない情報で隠れているものを知ることは得手とする。

 

公演からの帰り、自分は二つの次元で生き残りをとらえていることがわかった。一つは体の物理的な生き残り。もう一つは自分が自分であることの生き残り。「わたし」の生き残りだ。後者の生き残りをずっとしてきた。

 

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説明が難しいが、それは固定的な自分ではない。間違いをしない自分でもない。言うならば、自分の奥につながっているような線のようなものだ。奥につながるその線を切らさないのが生き残りだった。ここが自分としての力の根源。内側からのインスピレーションが来るために必要なもの。ここがつながっていれば、どのように侵されてもいずれもとに戻っていけるような線。

 

この生き残りをしていく。このブログを始めるときに「生き残りながら回復していくために」と副題をつけた。副題での「生き残り」とは、物理的な体の生き残りであり、「回復」とはこの線を確かなものにしていくことだったと今わかった。物理的な体の生き残りのために必要な方略と、この線を確かなものにしていくために必要な方略は違う。

 

僕が「生き残り」というとき、それはこの2つの次元の生き残りを指していた。物理的な体が生き残らなければ何もない。しかし、自分の奥につながる線の生き残りがなければ生きることに自分にとっての意味が生まれない。

 

また出たフィリップ・マーローの台詞だ。

If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive. ハードでなければ生きていけない。ジェントルになれないならば生きていても見合わない。

ーーーー「タフでなければ生きて行けない。優しくなれなければ生きている資格がない」原文は「If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.」作中のヒロインから、「あなたの様に強い(hard)人が、どうしてそんなに優しく(gentle)なれるの?」と問われて。清水俊二訳は「しっかりしていなかったら、生きていられない。やさしくなれなかったら、生きている資格がない」(『プレイバック』(早川書房、1959年10月)第25章)。生島治郎訳は「タフじゃなくては生きていけない。やさしくなくては、生きている資格はない」(『傷痕の街』(講談社、1964年3月)あとがき)。矢作俊彦『複雑な彼女と単純な場所』(新潮文庫、1990年12月)では、「ハードでなければ生きていけない、ジェントルでなければ生きていく気にもなれない」が正しいとしている。 ーーーーwikipediaフィリップ・マーロウ

 

矢作訳にならって、ハードとジェントルを日本語にしない。ジェントルであることは、人に対して親切であるとかいうことを主に指しているのではなく、自分が自分があることを維持した結果としてジェントルという状態が生まれていることを指していると僕はとらえる。そのジェントルさとは、自分が自分であることによって、他人にもその人自身を取り戻させるようなものだ。

 

自分の奥につながる線が断たれてしまうと、人は亡霊のそのものに近くなる。自ら回復していく手がかりを遠くに失う。それを遠くへやってはならない。生き残っていく。

 

 

 

参考

心理学者C.G.ユングは人の性格タイプを思考、感情、感覚、直観の4つに分け、さらに意識が内界に向かっているか外界に向かっているかの2通りがあるとし、計8つに分けた。ネットでタイプチェックしているところもあるよう

ユング心理学、性格タイプ

 

 

 

 

 

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