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降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

エニックスのジーザス 余韻としての生きもの 他者としての古い脳との付き合い

🔳ゲーム 日記 →ゲームミュージック

今日は晴れた。

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韓氏意拳という中国武術の会員登録をずっと出してなくて、先方からメールが来たのでそれを郵便で出して、図書館へいく。韓氏意拳は、甲野義紀さんの本で知って興味をもった。しかし、ボディワークなり武術なり、体使うことで続いたことがない。勢いで会員になったもののその後3ヶ月行ってなかった。細かい用事が済んだら畑へ行く予定。



昨日もなんとなく昔のゲームミュージックを聞いていたが、ゲームミュージックというものは、あるゲームのそのまた特定の場面のためにわざわざつくられて、ほとんどは消えていくわけだなあと実感する。儚い。

 

僕はやってないゲームでも好きなものがあるけれど、普通はやったゲームの音楽を聞くものだろう。聞いている人口も少ない。曲が単体で聞くものとして成り立ちにくい。それで著作権もあるのなら盛り上げようとしても限界があるだろうなあ、とか色々思う。youtubeに残るぐらいしかないのか。

 

ところで、スクウェアエニックスになる前のエニックスが出していたゲームにジーザスという作品がある。彗星とともにやってきたエイリアンが船員の遺伝子を吸い取って全ての記憶を同化させ進化していく。音楽はドラゴンクエストすぎやまこういちさん。

 

マクロスやマザーとちょっとかぶるところがあるようだが、モンスターが特定のメロディに弱い。エンディングでは、画面に鍵盤が現れて、鍵盤と対応したキーで、プレーヤーが自分で弾くという趣向(動画では3:05から)。

 


PC88版ジーザスALLPLAY 4/4 - YouTube

 

最初たどたどしいメロディがだんだんとはっきりとした輪郭をもち、ランダムに重なるだけだったメロディが曲になっていく。するとモンスターが統合していた死んだ船員たちの人格がモンスターのコントロールを奪い、自律していく。人間の体はもうないが、声だけがよみがえって、主人公達に語りかける。話しぶりで誰が誰なのかわかる。

 

自律した死者たちの力によって、モンスターは船から宇宙空間に排出される。それはもちろん、船員たちとの永遠の別れでもある。不遇の死を遂げた死者たちは残された主人公たちの生へ応援と祈りを捧げ消えていく。

生きものの体は記憶であると言えるだろう。人間が「新しい」状況に対応していくとはなばなしく言われるわけだが、実はその新しさはとても限定されている。自閉症の人たちの世界の経験は、世界のほとんどが新しく体験されるようなものであるという。それは恐怖の体験でしかない。自閉症でない人は、過去を固定化し、それを現在に投げかけているからこそ新しさに耐えられる。体験のほとんどを過去にするからこそ、安定できる。人が許容できる新しさは僅かなのだ。

 

「新しさ」に向かうこととは何であるのか。それは、生きものとは詰まるところ、繰り返しであり、過去の残響であり、余韻でしかないということを理解するために必要な作業なんだろう。余韻として繰り返されるもの。それが生きものなのだ。宇宙に出て行ったり、体を改造したりしたところでどこにもいかない。記憶が操作できるようになれば、もう「自分」もない。

 

生きものとは、響きなのだ。響きとして残っている。だからジーザスで音楽とともに死んだ船員たちが立ち現れるのは理にかなっている。響きが共鳴として立ち上がってきたのだ。

 

物語は、多層的構造である「現実」のなかのある層のリアリティをなぞるもの。死者が本当に実在するかどうかという議論は、現実の層は一つだという前提なのだけれども、人間の脳はそのように実際認知していないだろう。人間は現在を生きているがその現在は過去を投影したものとして成り立っている。死者というのは、脳内の現実として現在に生きているともいえる。

 

水子を供養する人たちの、水子イメージは当初は否定的なものだといわれる。生きたかったのに、生きれなかった。悔しさ。恨み。そんな水子が供養を重ねるにつれ、母親を応援するものになっていく。自分ではない他者として水子はいない。水子とは、自分自身の報われず打ち捨てられたうめき声なのだ。自分であるが、しかし他者として扱わないとそのうめきを終わらせることはできない。

 

小学校のころ、給食を全部食べようというメッセージをもたせた演劇があった。食べものたちは、全部食べられると嬉しいという設定。食べものになったものは別に人間に食べられたくて生まれて来たんじゃないだろうと思っていたが、それは人間の脳にとって納得するあり方なのだ。世界を自分として体験する古い部分の脳は、複雑なメッセージは受け取れない。複雑なメッセージは、古い脳までたどり着かない。何かを粗末にすることは、自分をそのように扱っていることと同じ。それが古い脳の理解であり、感覚なのだ。

 

「本当」の現実があるかどうか知らない。しかし、生きものには生きものの認知があり、そのようにしか現実を体験できない。どこか違うところに本当の現実があったとしてもそれを生きることはできない。

 

「進化」「新しさ」「発展」を高らかに提示して人を鼓舞している人たちをよく見てみると、抑圧者であることに気づかないだろうか。昔の錬金術を本気にした人たちを笑うけれど、それが技術とか科学に置き換わっているだけで、人がそこに投影しているリアリティは変わっていない。人はいつも魔法が好きなのだ。けれど、魔法によってしか奮い立たせられないほど心は苦しみ、麻痺し、疲れてないだろうか。その疲れのほうを弔ってあげるほうがいいと僕は思うけれど。

 

意味、思い出は時間のなかで消えていく。映画「ブレードランナー」の人造人間ロイ が言ったように全ては消えていく。雨のなかの涙のように。人はそれを魔法で否定したい。乗り越えたい。しかし、それが生の震えへの共感を奪う。

 

ある人がこう言っている。「心は臍の緒がとれたときの空虚感に由来する。」どこにもいかないことを受け入れることは、空虚感を埋めることを求め続ける亡霊としての自意識には困難なことだ。だからどちらかというとそれは意図して向かうのではなく、破綻したときに出会うものであるのかもしれない。

 

人として生まれてくることは、弔いをしにきたようなものだと思う。臍の緒をとられた空虚感をもって生きる人間には、感情に影響を与えている古い脳を幸せにするため、その認知形式の現実にあわせたアプローチをしていくしかないからだ。弔いは、あるいは祭りとも言えるかもしれない。

 

全ての記憶が消えていくこの寂しい宇宙で、ささやかな祝祭を。

 


BLADE RUNNER - I've seen things - YouTube

 

ロイの台詞、こちらで訳されているかたがいました⇩ 

名セリフといえば ブレードランナー: こんなことしてません?

英語:I've seen things you people wouldn't believe. Attack ships on fire off the shoulder of Orion. I've watched c-beams glitter in the dark near the Tannhäuser Gate. All those ... moments will be lost in time, like tears...in rain. Time to die…

 

お前たち人間には信じられない光景を俺は見てきた
オリオン座の肩の近くで炎を上げる戦闘艦・・・
暗黒に沈むタンホイザーゲートのそばで瞬くCビーム…
そんな記憶もみな、時とともに消えてしまう
雨の中の涙のように・・・
俺も死ぬときがきた(原文に即せば「死ぬときがきた」)。

 

◇補足

死者との関わりについては、以前のエントリー「失われたものと出会う」で

古い脳の認知については「世界を自分として体験する」でも紹介しています。

 

失われたものと出会う 探偵ナイトスクープ・ルー大柴・スモーク - 降りていくブログ

 

 

世界を自分として体験する 連想 - 降りていくブログ

 

 

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