降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

悲しみよこんにちは

めぞん一刻の物語の筋を最後まで知ったのは、アニメがパソコンのソフトとなって移植されたものの、そのまた攻略本からだった。管理人さんの父が「おれはもう響子の泣き顔を見るのがいやなんだ」というシーン、管理人さんが惣一郎の墓前で別れを告げるシーンに当時やたらと感銘を受けていた。

 

ゲームをやっていないのに、攻略本(めぞん一刻だけでなく幾つものゲームの攻略がのったもの)だけみて、ゲームはとうとうやらなかった。Wikipediaで確認すると、昔らしい無理やり感が満載だった。

 

めぞん一刻 〜想いでのフォトグラフ〜
1986年12月10日、マイクロキャビンより発売。PC-9801シリーズ、PCエンジンMSX2<ロムカセット><FD>、他。アドベンチャーゲーム
原作の序盤を元にしたゲームオリジナルストーリー。響子がひた隠しているという、ある秘密を探る、というのが最終目的である。しかし、何も知らずに始めると、その目的が全く分からない。しかも四谷の機嫌が悪いと五代が死ぬという展開もある。原作の五代同様、アパートや街をうろうろしたり、金欠に困ったりといった行動をプレイヤーは繰り返す。セーブはトイレで行なう。トイレでは下着姿の響子を見られるという裏技もあった。
響子のハートをつかむことに成功したエンディング後、収支報告が表示される。しかし普通にプレイするとまずマイナス(借金)になる厳しい展開で、この金運のなさは原作どおりである。さらに郁子のケーキや祖母のお小遣いをたかりまくり一切借金しないようにプレイすることも可能だが、報告書に表示される収支は「-1円」である。

 

しかし、原作と映画に忠実なものも後に発売されたようだ。さらにプレミア限定版のものまで発売されたらしい。

 

めぞん一刻 〜想いでのフォトグラフ〜/めぞん一刻完結篇 〜さよなら、そして……〜
1997年、マイクロキャビンより発売。Windows 95アドベンチャーゲーム、上記2作の移植作、定価30000円で3000個限定販売。パソコン版の「想いで〜」と「完結篇」の2作を、Windows用にリメイクしたもの。ディスクは通常のCD-ROM用ケースに入れられ、木製・オルゴール付の特製ケースに収められている、限定生産の為、入手困難であり未開封の物は数万円の値段がつくこともある。

 

どうでもいい話しだったが、ともあれ、めぞん一刻のストーリーを攻略本で見て、その後マンガをみると、あの時感動した父のシーンがあんまり印象的ではなかった。ゲームでは紙芝居みたいに、一画面だけ表示されて後は文字が出るだけ。それをさらに断片的にしたのが攻略本の記述だったわけだが、それが逆に行間に奥行きをもたせている効果があったようで、原作マンガのほうはむしろ絵と絵がだらだらとメリハリなく連続しているように感じ、攻略本を読んだときほどの感動がなかった。

 

個人的に一番好きなエピソードは、主人公の2人のものではなくて、大金持ちの三鷹と明日菜さんが結婚を決めたときの話し。2人とも犬を飼っているのだが、三鷹の犬が明日菜さんの犬を妊娠させた。その時の夜、三鷹は酔っぱらっていて明日菜に介抱してもらった後の記憶がない。

 

明日菜がしているのを犬の話しだとは露も思わず、明日菜を自分が妊娠させたのだと勘違いして、その責任をとるためにプロポーズする。その後、犬の妊娠だったことがわかり、がっくりくる。自分の勘違いとはいえ、やりきれない不本意な結婚。

 

だが、ある日明日菜が三鷹の子どもの頃の写真をみて言った言葉が三鷹の意識を変える。その写真は、三鷹がテニス大会準優勝したときのものだった。三鷹は内心全く納得していなかったが、周囲の手前無理やり笑顔をつくっていた。明日菜は、その時の顔が今の三鷹の表情とよく似ていると指摘する。

 

当初は管理人さんをめぐる駆け引きの材料として考えていた明日菜との見合い。表面上の取り繕いはあれど、利用対象であり、また邪魔者として明日菜を認識してきた。明日菜の言葉は、自分の残酷さ、ひとでなしぶりが他人に見えている現実に直面させられるものだった。またそれは同時に、今までそうできるが故に完璧を演じ続けなければいけなかったことに疲れていた三鷹への共感でもあった。

 

役割の呪いに三鷹は縛られていた。そうでなければ後で何を言われようとも断ればよかったのだから。三鷹にはそれができなかった。言わば管理人さんより自分のイメージをとったのだ。どれだけ格好をつけようとも、自分は所詮そこまでの人間。彼のなかでの五代との勝負は、不運ではなく自分の決断による退却で終わっていた。その弱さ。小ささ。自分が理由で負けた。

 

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彼がなぜ、自分の家柄や地位と見合った女性、たとえば明日菜のような女性を始めから選ばなかったのか。そのような女性に魅力を感じず、なぜ家柄もなく、影や傷をもつ女性、管理人さんのような女性を求めたのか。それは彼自身の自分が演じていた役割、一体化してしまった役割の桎梏から脱しようと無意識でもがいていたからではなかっただろうか。そこから脱すること、それが意識下の彼の悲願だったのではないかと思う。彼の熱意の源は、囚人としての自分自身から脱することだったのではないかと思う。

 

彼が超えることができなかったその呪いを明日菜は解いた。報われぬものへの弔いは終わった。

 

アニメのオープニングソング「悲しみよこんにちは」は同名のサガンの小説とは関係ない、ということらしい。死者との対話。心の喪が終わろうとするフェイズにはいったときの歌なんだろう。

 

てのひらのそよかぜが光のなかきらきらおどりだす

おろしたての笑顔で知らない人にもおはようって言えたの

降り注ぐ花びらが 髪に肩にひらひらささやくの

出逢いと同じ数の別れがあるのね あなたのせいじゃない

 


悲しみよ こんにちは (歌詞付き) 相聚一刻 - YouTube

 

逆縁の出会いという言葉があるのを最近知った。加害者と被害者の関係のような「不幸な」出会いだ。だが歌詞をみていると、そこにも「別れ」があるのだろうなと思った。それはむしろ和解と呼ばれるのかもしれないが。