降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

回復について

ブログを書きはじめましたが、このブログで主に考えていきたいことの説明がなかったので今回はそれを書きたいと思います。

 

僕は1975年生まれのフリーターです。週2日バイトし、あとは畑で自給用の作物をつくり、自分たちが住んでいるシェアハウスのフリースペースほかで読書会や話し会などの催しをしています。

 

雇われて週5日働くようなかたちは自分には難しいので、このような暮らしをしています。当たり前ですが、こういう暮らしには保証も何もないです。ちょっとした環境の変化、バイトの不都合等で行き詰まります。なので、生き残っていくには、自分が自分のために環境をつくっていくことが必要になります。現金収入もバイトではなく、自分が直接世界とやりとりできるナリワイをつくっていくことが望ましいです。

 

色々能力があれば、とっくにそういうものをつくっているでしょうが、そこまで行っていません。ともあれ生き残っていくしかない。しかしかろうじて生き残るだけでは、年もとっていくし、疲弊していきます。それは辛いし、十分ではない。なので生き残ると意思することは、自分が得るエネルギーを運用し増やしながら、世界を開拓していくことだと思っています。

 

f:id:kurahate22:20141014205858j:plain

http://www.pakutaso.com

 

不登校だったり、中学校時代の体験のフラッシュバックにその後何年も悩まされていたり、集団の中の関係が苦痛であったりしたなかで、この自分がどのように生きられるのか、また生きていくために自身の環境への関わり方をどのように変化させることができるのか、などをずっと探ってきました。

 

中学で臨床心理学者の河合隼雄の本を読んだこともあって、臨床心理学科に入りました。臨床心理学はざっくり言ってカウンセリングの学問で、患者はカウンセラーとの対話のなかで変化していきます。元気になり、相談にきたときとは世界との関わり方に変化がおこるというものです。

 

しかし、そこで疑問が出てきました。そもそも社会のほうに歪みがあって、患者が生まれているのではないかということです。自分が感じた範囲では、ここではいかにカウンセリングで治療するかには焦点がいっていましたが、社会自体に対する問題意識があまりないように感じました。

 

またカウンセリングとは、たいてい問題がおこり、こじれてから行われるものです。対症療法です。しかし、それまでに個人は自分のために何かができるのではないか。病をどう治すかという問いはあるけれど、個人がどう生きたらいいのかという積極的な問いがないように感じました。

 

あるとき、四国八十八カ所めぐりという約1200キロの旅がもつ可能性を知り、自分も歩き、またそこを自分の論文のテーマにしました。そこで気づいたことは、人は適切な環境と媒体(この場合は旅)があれば、たとえ治療者がいなくても肯定的な変化をおこし、生きる力を発揮していくということでした。

 

また自分もある程度元気になり感じるようになったことがありました。それまでは普通の人がいかに自然に人と関わったり、自分を暮らしを楽しんでいるのと自分のギャップを感じて、普通の人はすごいとばかり思っていましたが、その人たちが割と不自由で自分として必要な身動きがとれず困っていることがわかるようになったのです。

 

むしろ、自分のほうが失うものが少なくて必要な動きができたりするところもある。普通の人にも課題がある。そう思ったとき、人は生涯にわたって世界と自分との関係性を変え続けていくものではないかと思いました。不適応だったり、弱いものが普通の水準に近づくことばかりが回復という言葉の関わるところだと思っていましたが、この変わりゆく世界のなかでは、全ての人が回復の過程にいる。そう思うようになりました。

 

生きづらいものは、それゆえに生き残らなければいけない圧をより多く受けています。生きづらさに対して、小手先のごまかしではなく、根本的な乗り越えが求められています。既にあるもので乗り越えられなかったからこそ、生きづらさはあります。それを乗り越える生き残るためには、何か今までなかったものを工夫しつくりだすことが求められるのです。

 

それは困難ですが、生き残ることができ、何かがつくりだされたとき、それはなぜか当人だけではなく、周囲の人、あるいはその周りの社会も回復させるような創造となることにあるとき気づきました。生きづらさは、明らかに受難ですが、その負荷によってこそつくりだされるものがあり、むしろそれゆえに他の人が乗り越えることができなかったものを乗り越えられることがあるのです。

 

生きづらいものが生きていくにはどうしたらいいのか、そればかり考えてきました。生きづらいものも、そうでないものも、生き残って回復していくためには、環境に働きかけ、自分が生きられ、エネルギーが得られる環境をつくり維持することが求められます。

 

といっても、まずそのような働きかけができる状態にないから生きづらいのです。まず自分で環境であれどこでもアプローチできるところはアプローチし、整えていくことによって、暮らしで疲弊しきってしまわず、得たエネルギーを運用してまたエネルギーを得ていくことができます。

 

このブログの最初の投稿で『「成長」しない』という記事を書きましたが、成長という大げさな概念を使う必要はありません。暮らしていくなかで、常に人はどこかに詰まりがあります。その詰まりをとっていくことが生き残っていくことであり、それができることであり、それで実際十分なのです。

 

 

 

環境のほうにも詰まりがあり、心や体のほうにも詰まりがあります。「成長」しなくてもそこにある詰まりをとっていけば回復力、適応力、学習力、柔軟性はその分増していきます。「成長しなければ」と強固に考えることが一つ余計に詰まりをつくると思います。「成長」するのではない。むしろニュートラルに戻っていくことが向かう方向です。僕は色々な能力をもっていなかったので、せめてできることとして、言葉がもたらす詰まりをとることやってきました。「成長」という概念の詰まりもその一つです。

 

回復とは生き残りながら、世界との関係性のなかに開かれていくことです。回復のなかに生き残ることも含まれています。僕は自分や環境の詰まりをとるアプローチを考え、実験しながら、環境に働きかけ、自分がいい状態で生きていける環境をつくろうとしています。うまくいくか、生き残れないかわかりませんが、このブログではそのプロセスをシェアできたらと思っています。

Thank you for your click!↓

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ にほんブログ