降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

世界を自分として体験する 連想

時々FBのタイムラインになどにもでるけれど、人の悪口を言っていると脳としては、自分が悪口を言われているように反応しているという記事があった。新しい脳はそれが誰に対して言われているのかわかっているのだが、古い脳は、主語を認識できず、悪口をそのまま自分のこととして受け取ってしまうと。

 


人の悪口を言うと、自分自身が傷つく理由。【脳科学】 - NAVER まとめ

 

その考えを何となくおしひろげてみると、脳は世界に対して自分を投げかけ、同一化させて理解し、体験しているのではと思う。多分その認知はぼんやりした基底層のようなもので、人に影響を与えている。日々の意識的な暮らしのなかの意味の層とは独立して併存しているのではと思う。

 

だから世界に対してやったことというのが、ある層では、自分自身に対してやったことにもなっている。今日は畑でハクサイの虫を、とれるものは捕殺し、葉の間の狭いとこに入ったものに対しては細い木の枝で突いて殺していたが、虫としての自分を殺しているのかと思いつつやっていた。

 

一方で、野菜は食べるまではケアしている。野菜をケアすると自分がケアされた気になる。ケアをすると、野菜がまるで喜んでいるかのように感じるのは、投げかけた自分をケアしているからではと。

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亡くなった人が生きている人の行為によって喜ぶということも、自分を投げかけているからであって、実際脳のなかで変化が起きているのだろう。

 

火の鳥で我王が人は殺すが、蜘蛛の巣にかかっていた蛍を助けた。蜘蛛の巣と蛍は、どうしようもなく障害をもつ者として育たなければならなかった彼に、なお情け容赦のない奪いをかけてくる残酷な世界と自分自身との関係を象徴するものだったと思う。

 

宮沢賢治は、ベジタリアン大祭か何かで、肉を食べることと野菜を食べることは、本質的に違いがないが、獣のほうがより人間に近いのでよりリアリティがあるから食べれないと書いていたと思う。世界が自分であっても、それぞれ強度が違って、自分により近いと認知するものに対して行うことは影響が大きいのかと思う。

 

また自分を殺し、自分を食べるというのは、いわば狂気の世界を体験しているわけだけれども、それはぼんやりとした下の層であって、意識の層では苦しまないといったことがおこっているではないか。

 

しかし、そうであっても、下の層と意識的な層の乖離や矛盾があまりに膨らむと、影響が出てくる。何かがおかしくなってくるのだろう。以前、TEDで辛い感情を押し殺していると幸せを感じなくなるといった回があったのではないかと思ったけれど、そういうことが起こってくるのではないか。


「決して自らを変えようとしないこと」 他人と心からつながり合うための、たったひとつの真理 | ログミー[o_O]

 

だから謝肉祭であったり、針供養であったりがされて、たまっていた感情のこごまりを弔うということが必要になってくるのではないか。針や人形、札など、日常の使用で特に思い入れを持ってしまったものには、特にそういう作業が必要なのだろう。

 

逆に、死にゆく人に対して看取りをするようなことで、自身のうちでこごまっていたリアリティを弔うことができ、救われるのではないかと思う。べてるの家では、葬式が残された人にもっともパワーを与えるという。死者にむち打たないということや、大事にするということもここに起因するのではと思う。

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