降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

失われたものと出会う 探偵ナイトスクープ・ルー大柴・スモーク

少し前に京大の佐藤泰子さんの発表「バカボンパパに学ぶ苦悩の人間学ー聞くこと、語ることの意味ー」をききにいった。

 

一見軽そうなタイトルにしているのは、大学の講義という、参加者に必ずしも学びたい動機がない場で聞いてもらうための工夫だという。語るスピード、いかに参加者をまきこむか、とても工夫されていて、もはや芸風といえそうだった。

 

軽妙に発表は進んでいくのだが、取り扱う内容は、終末期の人たちの苦しみ、それまで持っていた生の意味から放り出された人たちに向き合い、あらゆる角度からそこへの答えを真摯に探ってこられたもの。3時間の発表でまだ時間が足りなかった。

 

終末期の実存的な苦しみに対して有効な援助者の手立ては、多くの場合、傾聴というかたちになるそうだ。数ヶ月の命、自分で出来ていたことが何も出来なくなる。ホスピスなら家族には自分が生きれば生きるだけ経済的な負担がかかるという思い。

 

他人が解答を与えることができない問いのなかに放り込まれている当事者。援助者は、当事者が自分自身で答えにたどり着くための試行が十全になされるために、場を整え、寄り添う。

 

傾聴のなかで何が起こっているのか。

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 [http://www.pakutaso.com

 

安心、安全、信頼、尊厳を当事者に対して提供する。そして話しをきく。それは当事者に対して「舞台」を提供することだと僕は思う。人は閉じられた自分のなかではどこにいくこともできない。そして、自己の意味を変化させることができない。

 

自己の意味、それは他者との関わりのなかで決定される。他者に否定されることが恐ろしくて表現できない、ということがある。表現しないことによって、自己の尊厳を守ろうとする。表現してしまい、否定されると、自己の意味がそこでまた奪われるからだ。意味は他者との関わりのなか、生身の心の遭遇によってつくられる。

 

一方で、自分のなかに刻印されてしまった自己イメージを更新するためにも、他者との関わりが必要だ。危険をはらみながらも、自分の意味を他者に、世界に投げかけ、問う。それは自分の意味を一旦捨てる行為でもある。

 

傾聴とは、その人に自分の意味を問うための舞台を用意することであり、その舞台は、それまでの「私」を捨てることを可能にするものだと思う。新たな鏡に映る「私」の姿はわからない。しかし、もはやそれは捨てなければやっていけないところまで当事者の心は追いつめられている。


安心、安全、信頼、尊厳が用意されるとき、「私」という自意識には、死を受け入れる準備が整う。生体としての死ではなく、自意識自体としての死を受け入れられる準備が整うのだ。一旦この「私」の意味を投げ捨て、新たな鏡に「私」をうつそうとする。これは自意識による行為ではなく、生きものの身体がもつ自律的な働きだ。

 

寄り添う者は、「答え」を与えるなどという傲慢な行為をもって、当事者の尊厳を侵してはならない。当事者が自身で救いを得るという試行を妨げてはならない。

 

そのとき、寄り添うものは完成された人格を持たなければいけないのか。そうではないと思う。苦しむもの、その人が寄り添う者の意味を実は決めている。苦しむものは自分に必要なもの、必要な他者を相手に観ることができるのだ。表現されたもの、そのものではなく、表現されたもの、表現しているものの間に、自分に必要なものを観ることができるのだ。

 

寄り添う者ができることは、その「間」を提供すること。その「間」のなかに、苦しむものは自分に必要なものをみる。答えを出す、指示するという傲慢な行為は、その「間」のなかに必要であった奥行きを喪失させる。

 

ある人がどのような人であるか。その人の全ての言動を記録しても、それはただの一個一個の表現である以外なんでもない。その人が何であるかは、その表現されたものの「間」にある。言動の一個一個がその「間」の奥行き、つまり意味を決めるのだ。

 

寄り添うものの自意識がしゃしゃりでないことは、その「間」の奥行きを深める。寄り添うもの自体ではなく、寄り添うものが余計なことを「しない」ことによって深まる奥行きが、苦しむものに必要な意味を提供する。「遭遇」の舞台を提供する。

 

探偵ナイトスクープ、若くして亡くなった祖父がルー大柴ににていた。孫は中学生になっても祖父が忘れられなかった。ルー大柴が訪れ、最初彼はいつものキャラを演じた。しかし、その感じじゃないと指摘され、彼が変わった。

 

家族の誰もが、それが祖父でないことはわかっている。ただ、必要なものはそのルー大柴そのものではなく、彼がただ淡々と「孫」と寄り添う、その奥行きのなかに観ることができるのだ。

 

映画「スモーク」のラストシーンで、ハーヴェイ・カイテルが老女とダンスするシーンがある。老女は、カイテルを息子だと勘違いしている。あるいは違う可能性をどこかで知りながら、カイテルを息子として踊る。カイテルは戸惑いながらその役割を全うする。そしてカイテルもまたその奇妙な空間のなかで何かをみたのだ。

 

奥行きのなかに、人は自分の必要なものを観ることができる。そして失われたものとの関わりを取り戻すことができると思う。それは本当は失われることもなく、常に待っているのだ。


探偵ナイトスクープ おじいちゃんはルー大柴 - YouTube

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