降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

「家がない生活」10のメリット・・の私的な感想

『「家がない生活」を通じて獲得した10のメリットと、すべての出来事には必ず終わりの瞬間が訪れるということ。』の記事をみて、部分的、断片的に反応したい。元記事の意図とあるいは違う部分もあるかもしれないが、ごく私的な感想ということでお許しいただきたい。

 


「家がない生活」を通じて獲得した10のメリットと、すべての出来事には必ず終わりの瞬間が訪れるということ。 - いばや通信

 

8番目の「過去も未来もなく『今』を生きることが出来る。」と10番目の「死ぬことについて考える瞬間が増える」について。

 

8「過去も未来もなく『今』を生きることが出来る」において

「私には何もない。理想の夢や実現したい目標も、到達したいと願う目的地なども何もない。あるのは目の前にある一瞬一瞬の瞬間だけで、この瞬間をいかに充実させたものにしていくのかという、ただそれだけに対する熱情のようなもの以外には何ひとつ持ち合わせていない。家のない生活をはじめてから、過去に対する怒りや後悔の感情や、未来に対する不安や恐怖の感情は驚くほどに消え去っていった。」

とある。これは裏を返せば、日常生活の意識しない営みのなかで積み重なり、構成される文化的な、リアリティがあるということだろうと思う。それが過去の怒り、公開、未来への不安、恐怖に位置づけを与え活性化させる。リアリティは構成されるものだと思う。

 

アマゾンの少数民族ピダハンは、周りの民族に比べ明らかに笑顔が多いという。ピダハン族は、儀式や宗教をもたず、収集に使うかごはいつもその場で作られ用が済めば自然に還す。禅的な世界にいるようだと思った。彼らはそのようにして、世界の感じ方をコントロールしているのだ。全てのものは一時的であり、とどまらない。そのリアリティを維持する一貫性をもった文化なのだと思った。それは彼らを刹那的に、自暴自棄にするのではなく、むしろ張りを与え、生命力や喜びを充実させている。

 

日々の生活、文化的に構成された空間で蓄積されていくリアリティがあり、人はそのリアリティに影響される。元日は、自然が何か変わっているわけではないが、みんなが一斉に一定の振る舞いを揃えるので、何か本当に新しいものがきたようなリアリティが生まれると思う。元日はしばらくだけしかなく、前後の変化もわかりやすいが、日々の暮らしで蓄積されていくリアリティは意識しにくい。

 

体のもともとのリアリティと、文化的に構成されたリアリティがあって、日々、頭は後者のなかで生きている。けれど体のリアリティは、そこと乖離している。この二つのリアリティはある程度調整や歩み寄りができるのだが、相反しすぎると問題をおこす。往々にして、体のリアリティが優先となり、現実の多層的な文脈を無視して、頭がやろうとしていること強権的に停止したり、再現できないように破綻させようとする。

 

10.「死ぬことについて考えることがふえる」

 

人は必ず死ぬ。生きていれば様々な不安に囚われて行動が鈍ることがある。しかし、いつか私たちには成功も失敗することも出来なくなる日が必ず訪れる。死ぬことがわかっているからこそ、自分に与えられた命を大切にしようという気持ちが静かに強く湧き出してくる。今までやりたいと思っていたけれど、今までやれずにいたことをやってみる、会いたい人に会いに行く、自分の思いを行動に移す、表現する

 

これは、明日に生きることへの弊害がニュートラルに戻った状態だと思う。こちらが適度な危機感。体にとって、明日という虚構はないけれど、言葉によって現れる何もない明日の空白に気づいた思考、頭のリアリティが保証を求め、映像を投げかけて安心しようとする。しかし、そのねつ造されたイメージは、体には過剰な弛みを引き起こし、感覚を鈍くする。体には今しかない。今あるもの、体に残っているものが処理すべきものであるのだと思う。


明日も生きているというリアリティを発明したことは同時に明日のほうが大事であって、そちらのために今日は使われなければいけないという強迫も生んだ。だが、明日はつまるところ頭でつくったバーチャルなものであって、体のほうは別の次元の感性をもっている。

 

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体がもつリアリティと文化的に構成されるリアリティのどちらかだけが本当だとするのではなく、どちらとも程よい距離を調整する。これが本当だとするのは、思考であり、文化的に構成されるリアリティに属していて、それを強化してしまう。嘘でもあり、本当でもあるというぐらいの距離感で居着かないのがいいのだろう。

 

ほっとけば文化的に構成されるリアリティが強くなる傾向があり、そのことに問題の端緒があるだろうから、そちらのほうにアプローチし、調整していくことが多くなると思う。伸びやかさとか健康な幸福感とかは体のほうのリアリティに属するだろう。しかし、何であれ価値感をおきすぎるとそのこと自体が不自由さとつまりをもたらすので、程よく、何と無しに、結果的にそうなるという設定を工夫する。

 


既成概念を遥かに超越。謎の言語を操るアマゾンの少数民族『ピダハン』 - NAVER まとめ

 

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