降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

使い捨てと循環

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台風後、蒔いたタマネギの芽が大分伸びていた。毎年この芽をチョキチョキ切る虫がでているのだが、今年はそれほど被害にあっていない。

 

一方、アブラナ科の芽にたかる虫も毎年いて、ハクサイはネットでかろうじて防げているが、1週間位前に蒔いたミズナ、コウサイタイなどは全滅に近かった。捕まえようとすると地面や葉っぱの間に落ちて駆除が難しく、たちが悪い。

 

家ででた生ゴミは畑に持っていっている。畝と畝の間の通路で土に戻し、その土を畝にあげて土寄せをする。

 

生ゴミを持っていくと燃やすゴミに水気がなく、臭くもならないので気持ちもいい。

 

生ゴミが畑に戻り、肥料になるという感覚が、エネルギーをくれる。畑にしばらくいけず、生ゴミがたまっていったりすると面倒な気分にはなるのだが、それでもこれが役に立つことは手応えがあり、気持ちを上げる。

 

シェアハウスの住人も、自分の生ゴミが捨てられず活用されるのは嬉しいようだ。と、そこで思ったことは、意味があることがエネルギーをもたらし、意味がないことはエネルギーを減らすということだった。

 

意味のないことをするのは、わずかでも嫌だ。ゴミを捨てて、それが収集車が持っていってくれるというのは、楽なように見えて、積極的な意味がない。どんなに作業が簡単に楽になっていったとしても、意味のないことには意味がない。だから結局、これはエネルギーを減らすのだ。楽なことは、それだけではエネルギーをくれない。

 

エネルギーをくれるのは、積極的な意味だ。意味とは、自分のやったことが何かを展開させる。どこかにつながるということだと思う。

 

おそらく使い捨ては、それ自体で人のほうのエネルギーも減らす。使い捨ては別の言葉でいえば消費。消し費やす。

 

使い捨てという言葉は保持すること、時間と関係するのだと思った。

 

使い捨ては、あるものの可能性を限定的に取り出しあとは意味のないものとしてすぐに関わりを断つ。

 

一方、あるものが持っている様々な可能性は時間をかけて展開する。可能性が十全に世界や人との循環をおこしていくとき、エネルギーが世界を充填し、またエネルギーや可能性が展開する新しい通路もつくられるように思う。