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降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

山田太一さんの講演会レポート

山田太一さんの講演会のレポートをされている記事があって、そこで「ニュアンス」、「マイナス」という言葉で表現されているものがあった。

 

何十年も前、片親の家族って“欠陥家族”って言われてました。お役所がそう言ってて、ひどいなと思って、それでそういう家族を書いてみようと『3人家族』というタイトルで(ドラマを)書いたんです。欠陥じゃないだろってすごく思いました。基準のようなものが、見方を遮る。揃っている人にもマイナスはあるし、苦労があったほうが、人間はいろんなことが考えられる。“欠陥家族”は就職しにくいとか、表には出てないけど、いまもそういうものはある。テレビ局だと優秀な人が採用されちゃう。でもそういう人は細かなニュアンスで苦労してない。ドラマをつくる人は、“欠陥家族”とか貧乏な人とかを採用したほうが、ニュアンスのあるものができるんじゃないでしょうか。
 自分のことを思っても、幸福な想い出って刻まれてない。マイナスって人生において大事だと思うんだけど、社会がマイナスを使いこなしてない。

 


山田太一講演会 “時は立ちどまらない” レポート(1) - 私の中の見えない炎(別館)

 

生を引き受けることと、将来的に社会的成功や物質的豊かさを手に入れることは必ずしも一致しない。しかし苦しみを引き受けることは、他者に対するシェアになる。残酷な世界の成り立ちだ。他人の不幸は蜜の味なんていうけれど、そのような場合でなくても、人の苦しみを食べて人は幸せになる。より手間がかかり、犠牲があって、苦労して創られたものが美味しい。

 

ネイティブ・アメリカンは、サンダンスという儀式において、真夏の太陽のもと踊り続け、そして自分の血と肉を大地に捧げるときく。彼らは、自分が幸せになることは他者の幸せをもらっていることであり、自ら苦しみを背負うことが幸せを世界に贈ることであると考えるという。それは間違いではないと思う。現実には幾つもの層があって、ある層の現実をそれは語っている。苦しむものはそれだけで世界に対してシェアをしている。

 

しかし、苦しみを経てなお生き残ろうとするときに、生きるために必要な水を得るための根が深く土のなかに入っていく。作物が根の深さによって強い生命力を得るように、人もまたそのようになるのではと思う。それは周りとあまり競合せず、奪わずにすむ栄養摂取のあり方にもなると思う。誰もが生き残れるわけではないけれど、それでも生き残ったものは、世界に対して、救われない者たちに対して贈り物のような存在になる。

 

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少し前に演劇ユニットこのしたやみの広田ゆうみさんのお話しを聞く機会があった。

 

広田さんは、役者でない人とともに朗読劇をつくる活動もされている。演劇をやっている方のなかで、役者ではない素人に関わることを積極的に面白いと感じられている人たちがいると思う。何をもって面白いと思うのか、機会があればそのたびに聞いてみることにしている。

 

素人であっても、はまり役というか、あの人にあの役をさせたとき、その佇まいはどんな役者も敵わないのではないかということがおこるらしい。役者ということでは、様々な役をやる能力が必要なわけだけれども、ある特定の役や状況設定において、素人であってもある雰囲気や訴えかける力が役者を超えるものがあるということだろう。

 

それは、その人のそれまで生が立ち上がっているのではないかなと思う。状況設定のもとにそれが引き立てられ、より見えるようになる。それは紛れもない固有のものであって、本人すらどうすることもできないものでないかと思う。

 

普通の生活をしているとき、日常の規範はある人のその人らしさというものをあまり見えなくする。日常の規範のなかで見えやすいことや関わりのあり方は非常に限定されてしまう。

 

だが、それに対していつもの規範とは違う場や状況を設定することによって、その人の歩んできた生によってできた深みや重みが他者に伝わるものになるのではないかと思う。その苦しむ姿は同じ苦しみを持つ人にとっては共感であり、人を回復させるやさしさとなると思う。

 

演劇、状況の設定によって人が潜在的にもっている他者に対する力を引き出し、その力を世界に循環させていくことができるのではないかと思う。

 


このしたやみ|山口浩章 広田ゆうみ 二口大学 による演劇ユニット

 

長谷正人著 脚本家山田太一論 敗者たちの想像力

 

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