つい1ヶ月前までは、フェイスブックのほうによく書いていた。人に言ってる感じがあるほうが僕は書く気がおこる。文章を書くのは即興であって、受けた刺激があって、書いたものを見る人がいるという状況におかれると出てくるものがある。
自分の動機としては、思うこと言いたいというのもあるし、感じているものを掘り起こしたり、言葉にできていなかったもののかたちをなぞりたいということがある。後者は割と強いので、自分なりに新しいところにいければ大分満足する。
最近は、フェイスブックより、ブログのほうに気持ちが移っている気がする。
表現は、場の状況、そこにある暗黙の規範、前提を反映する。フェイスブックは、いわば小学校とかの終わりの会で今日こんなことがありました、とクラスメートと先生に発表するところだろうと思っている。発表者もクラスメートも学校の教室という場のモードで出てくるものが大体決まる。反応の仕方も個々の自由であるようで、型はあらかじめ用意されているので、そういう感じを求めてないのにやってみるとそうなってしまう。同じ教室にいることが相手にとっても自分にとっても前提だから、ある表現をほっとく差し支えが出るような感じにもなる。
ブログのほうは、まだやっている期間が短いのでもっと適当なのがあるかもしれないけれど、街角ぐらいかなと思う。ある程度ほっといてももらえるので、その部分で表現できることが増える。生の体験、実感の深みの表現が違う。読むほうもフェイスブックよりは、距離感を調整できる。
いいブログを探すのが楽しくなった。こうなるとは思ってなかったけれど、いいのは本当にいいと思う。フェイスブックと比べて、それぞれの空間が確立できるというのがそのいい感じの理由の一つかなと思う。
と、しかしフェイスブックとブログの違いは相対的なもので、眺めていると付き合い疲れが上回り、ブログやめていく人もいるようなので、この投稿を書いてても危ない感じがしてきた。どんな媒体も人を飲み込む力がある。『陰陽師』で安倍晴明が異界のものを利用しているときの態度のように、毅然として扱い、勢いを減らすものと増やすものを吟味して対峙する態度が必要だ。
生きていくやりくり 媒体の支配を排して - 降りていくブログ
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