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降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

トンカツと弔い 「トークバック 沈黙を破る女たち」によせて

坂上香さんの映画「トークバック 沈黙を破る女たち」が各地で上映されている。演劇を通して、HIVに感染した女性たちが自らの尊厳を回復させていく姿を描いた作品。

 


映画『トークバック 沈黙を破る女たち』予告編 - YouTube

 

右上がりな世界観はそれに一体化できている間はいいけれど、ちょっとどうしようもない事情で外れてしまうと、人間を責める。自分を受け止める考え方がないのだ。そればっかりが価値じゃないよ、というぐらいができる程度ではないだろうか。そして責めることは、自分の回復を遅らせる。

 

もうそんな世界観や物語に一体化できなくなってしまった人たち、その考え方では割にあわなくなった人たちは、自分たちで世界観、生きるあり方をつくりだしていく必要に迫られる。

 

ジョージ・オーウェルの『1984』では、歴史は現在の政権の都合いいように書き換えられ、都合の悪い証拠は廃棄されていく。主人公もその作業をする部署にいる。彼らはその歴史修正作業を「間違いを正すこと(correcting mistakes)」とよぶ。

 

過剰に価値観を与えられている言葉や概念を言い換えていく。1人でそんなことをやったところで、世間は変わらないかもしれないが、おかしな考え方がまかり通っているのにやられっぱなしでも癪なのでcorrecting mistakesをしている。

 

前にこのブログでも言及したけれど、「自己実現」という言葉とか、普通に受け入れてしまいそうで、受け入れると何かおかしなことになっていくものがある。その言葉には暗黙に含まれる前提があって、その前提に気づかないと否定的影響を受けるのだ。

 

自己実現」では、そこに過剰な期待と自分の自然な「やりたいこと」が自分を導いてくれるような感覚があったり、アメリカンドリームではないけれど、実現後の結果の麻薬的効果を前提に人を駆り立てるような距離感を知らないうちに設定されてしまう。

自己実現」と考えると能力不足や結果の悪さにより多く苦しむ。「自己実現」といわれるものをよく見ると、それが裏を返せば代償欲求だというがわかるだろう。失ったものや大きな傷つきを補おうとしている。惨めさから抜け出ようとしている。あるいは惨めさを感じないように麻痺させようとしている。

 

自己実現」や「成長」とかいう言葉は人を高揚させる。観察していて気づくだろうか。この言葉が多くの場合、実際には将来ではなくこの言葉を使っている今、イメージしている今この時の辛さや意味のなさをやり過ごしたり、麻痺させるために使われていることを。

 

そのイメージで高揚してもいいのだが、その後思っている通りにいかなかったり、自分ができなかったりすると余計否定的に感じる。転がり落ちるための王座を設定しているようなものなのだ。それに人間は意図的、意識的に気持ちをコントロールして上げると後で反動がきて落ちる。結果的に停滞する。

 

でも、高揚させるようなイメージがないと、「やってられない」「割にあわない」というように感じる。それが実は苦しみなのだ。既に苦しんでいるからこそ「やってられない」。

 

トンカツを例にする。

 

ある作家が戦後直後の自分の子どもだった時代のことを書いていて、その頃には「トラウマ」などなかったと述べる。別に精神医学や心理の人じゃないので比喩なのだが、彼が言うに極度に貧しくひもじかった日常の辛苦は、トンカツで一掃されるようなものだった。

 

トンカツさえあれば、どんな苦しさも忘れられたという。戦後の食糧難で多くの人が生存のレベルが脅かされている背景があるうえの話しだが。そして彼は続けて書いていた。自分は高度成長期が終わっても、「トンカツ」が欲しい。当時のトンカツに相当するような仕事が自分はしたいと。

 

僕はそれは苦しみだなと思う。強烈な刺激をもって、全ての苦しみをチャラにするように動機づけられること、そのように求めてしまう心性になること、それが自体が苦しみだと思った。それは、実は麻痺を求めている。今が苦しい。今までの「トンカツ」で清算が先延ばしにされたきただけなのだ。

 

ある時期を生き残るために「トンカツ」を使うことはありだろうと思う。それはツケになるが。

 

現代の「トンカツ」はなんだろうか。そしてそれがあったとしても、それは苦しむ人が得られるものだろうか。そうは思えない。

 

現実の不条理に遭遇し、「トンカツ」となる幻想をもう共有できなくなった人たちは、もう苦しみを麻痺させることができない。 浮き上がってくる苦しみ、容易にふり払えない苦しみ、取り返しのつかない現実とどのように向き合えばいいのか。

 

僕はその向き合い方は、「自己実現」ではなく、弔いとして現れると思う。掃除がされるように、淡々と、粛々と行われる。今の惨めさを帳消しにする強い快を求めることから、今の惨めさ自体を認め、対処していく。弔いという距離感のときに、状況を停滞させるいらない前提やイメージが取り除かれる。

 

「トンカツ」と決別して、回復へむかう人たちは自身を弔っていく。弔いのかたちは、演劇にもなり、社会的な活動にもなるだろう。そしてその弔いは自閉的にはおさまらない。周りに影響を与えていく。人は関係性のなかにあり、回復は閉じた個のなかで完結しない。人はそこに関わるものと共に回復していく。

 

苦しみに耐える力が生まれ、自分と同じように人の苦しみの重さを感じ、同じ深さから共感する身体の現れてくる。弔いを形骸化した儀式としてではなく、自分のものとして取り戻したとき、持たざるものも生きていくための力を得ていくことができると思う。

 

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