大人の演劇部に参加。友人も大人3人こども1人一緒に来てくれる。
公演のためではなく、純粋に稽古だけを楽しむというコンセプトで前半はウォーミングアップ、後半はドラマや映画などのワンシーンをやってみる。「じゃりんこチエ」「牡丹と薔薇」「アウトレイジ」「マルサの女」「フラガール」「パッチギ!」など様々。
僕は「犬神家の一族」のワンシーンをやらせてもらった。今回も楽しかったけれど、自分の体は動かないものだなというのもよくわかった。自分をほぐしていくのを日常でやれたらいいなと思っている。とりあえずスポーリンのワークを一緒にやってくれる人を何となく探している。
帰りに中津川で行われた高齢者との演劇ワークショップのお話しをきいた。役者さんのほうが、いつも子どもや大人と一緒にやっているより元気をもらえたような感じがあるという。興味深い。あまり大規模でない施設であることもよかったかもと。高齢者にやってもらう演目として「フラガール」を用意していたけれど、設定を覚えてくれず、「鶴の恩返し」にするといい感じだったとか。高齢者、かなりノリノリだったそう。その瞬間を生きている感じというのが鮮やかだったとのことで、岡山の菅原さんの言葉とも通じるなあと思った。
この瞬間を生きるというのは、子どもたちとやっているときの、発達障害の子のノリノリぶりでも感じられたそう。日常という演劇のほうが難しいのかもしれないなとも思う。むしろいつもは縛られている設定からは解放されるのでは。
「ある空間を設定し、その前に観客の眼を想定し、その空間においてどのように身を構えるかと考えた時、我々の「演劇」ははじまっているのである」別役実
自分というのをどう設定するかだなと思う。生まれてから今までをずっと含めて自分と考えるのも一つの設定だ。その設定を前提とした演劇が自分だ。それは記憶の一貫性を前提としているわけだが、記憶の一貫性がなくなればもう自分ではないのだろうか。僕はむしろ、記憶の一貫性があることは一時的な特殊な状態と考える。その記憶の一貫性がなく現れ出てきているのもののほうが自然であって、本来的でさえあるのではないかと内心思っている。
未来というのは、実際には過去や記憶を投影することによって想像可能なものになっている。人間という種であっても、言葉を与えられずに人のいないところに放り出されて生きていたら、いわゆる未来はないはずだ。思考も過去を転用するかたちで、ある意味無理矢理つくっているから、そもそも過去に引きずられたり、のみ込まれがちな性質を内在していると考えている。
大人の演劇部
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