降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

回復の方法論と言葉のエクソシズム

それぞれの生きづらさがあって、生きづらさにも社会的要因もあれば、身体的要因もある。様々な生きづらさがあっても、基本的には生きていくように体が要求してくる。

 

それでサバイバルしていくわけだけれど、サバイバルというのが生きている状態をかろうじて守るという水準でしかないのなら辛い。生きものの体は、生きてさえいればいいのでまずそれが優先されるのだが、その水準にずっといるのは苦痛だ。

 

多重人格のビリー・ミリガンのケースがあったけれど、ビリーは収容当時、意識が戻ったら自殺を試みるぐらいな状態だったと思う。死なないほうが優先されるので、子どものとき虐待を受けてそれでも生きるために人格が解離し、24人になって統合されてない状態になった。でもビリーにとっては別人格のときは記憶もなくなるし、混乱の極みであるし、犯罪を自分でとめられない。それは苦しい状況だ。

 

人間には蓄積してきた文化と環境を直接操作する能力があるので、自然状態にはあまりない、特殊な環境が用意できる。そしてその特殊な環境を使って現在の状態を変化させることができる。医療もそうだろうと思う。

 

それで、まず肯定的な変化、回復をおこしていくためには、体からおこっている変化への希求や、身体的・精神的なエネルギーの蓄えなど、ある程度の準備を整える必要がある。身体は生きることが優先だが、適切な環境と媒体が用意されていれば、過去の恐怖を乗り越え、自律的に回復に向かおうとする衝動が生まれてくる。

 

ともあれ、生きづらさに対して、それでもなお生きようとする力は、反動のように強く生まれるものだと思う。個体がある程度の元気を確保しながら、生きづらさを乗り越えていこうとする力をうまく引き出せるならば、状況は変わっていく。

 

なのだが、人間の場合は幼少期からの学習、条件付け、(ネガティブな意味でも)文化の身体化があって、それが強力だ。他の生きものは基本自殺しないのだけれど、人間は文化の身体化によって、自殺してしまうほど文化に支配されている。その身体化、過去の支配を脱したり、取り除く工夫も必要となってくる。

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価値観の身体化、ネガティブなものの内在化が強固なときは、たとえ自由で支持的な環境にその人をぽんと置いても、すぐに変化するような状態にはなりにくい。そのような場合、積極的にその身体化を脱していく媒体をさらに提供する必要がでてくる。それが心理療法であったり演劇的手法であったりするのだろうと思う。

 

僕が個人的に今まで意識を向けてきたことは、人はどのように回復するのかということと、もう一つは思考や言葉の弊害を取り除くことだった。それらを取り除くことで状態を本来の回復しやすい状態に近づけたり、そこにつかなくてもせめて否定的なものから距離をとり消耗しないように。

 

生きることの意味というようなことを考えてみるのも、弊害をとるためだ。先日も投稿したけれど、たとえば「成長」という言葉の隠れた否定に気づかず自分の思考に取り入れてしまうと状態が否定的なままで停滞したりする。違和感を再確認し、色んな角度からみて吟味することで、既に取り入れてしまった言葉、概念、思考を破綻させていく。

 

「私は〜しなければ価値がない」「私は〜でなければ価値がない」という考えから完全に距離をとり対応できる人は少ないと思う。誰もが言葉の呪いにやられていると思う。僕がやっていることは、その「〜でなければ価値がない」を一つ一つ取り除いていくことだ。

 

「成長」に生きる価値があるのではない。長い時間を前提にした言葉「人生」に価値があるのでもない。社会の役に立たなければ価値がないのでもない。一つ一つを一貫した文脈で取り除いていく。この「〜でなければ価値がない」こそが人から回復力を奪い、状況を停滞させているのだ。だから僕は、過剰に肯定的価値をもたされ、相対化されていない言葉や考え方を成り立たなくさせ、ニュートラルにしていく。

 

思考はとても限定的な分野なのでそれが変えられるところは限られている。身体化された詰まりを効果的に取り除くには、もっとダイナミックに、スポーリンの言うように、知性、身体、直観の3つの水準が統合された状態での体験が必要なようだ。僕がやっているのは、露払いぐらいなものだ。だけれど、言葉の呪いは本当に大きく、言葉の水準で苦しんでいる人は多い。今までやってきたのでもう癖になっているし、せっかくなのでライフワーク的にやっていく。 

 

 

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