降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

ブックレビュー 名越康文『自分を支える心の技法』

■この本を読んだ理由
 Twitter上で武術家の甲野善紀さん、身体教育研究所の野口裕之さん、内田樹さんたちと名越さんがやりとりしているのを知り、時代や思想をリードする人たちが一緒にいるものだなと思っていました。そのなかで甲野さんが名越さんに「甲野さんは自分を憎んでいますね」と指摘されたとつぶやいているのをみて、どんな人なのか関心を持ちました。本書は医学書院のホームページで連載していた対人援助職に対する講演の記録を加筆・修正したものですが、怒りをテーマに、仏教での分析も取り入れながら著者がどのように提示するのか、その考え方にも触れてみたいと思いました。

■本書の構成
自分の心に対してどのように向き合うかという視点から9つのレッスンを提示しています。
レッスン1 心をみつめる
エクササイズ 呼吸を整え、目をつぶって三分間自分の心の動きを観察する。
椅子に座って背筋を伸ばし、目をつぶる。静かに呼吸をしながら、三分間、自分の心を観察する。→「これが本書の最重要課題」
心は一瞬で変わる。→研修医時代、ニコニコしていた患者に意外にもいきなりぶたれた時の衝撃。「日常的な人間関係の基本前提みたいなものが崩れたように感じました。」
「一見連続性があるようにみえる僕やあなたの心も一皮向けばあの女の子の心と同じように今、この瞬間にころころ変わっている。人の心は一瞬で変わる。いま何かを考えていても、次の瞬間には、まったく連続性なく、ほかのことを考えている。」

「ころころ変わる心をそのまま表出していてはまともに社会生活を営むことができないから、心を一定の状態に保つためにかなりのエネルギーを割き続けているということなのでは」p24

「「心は一瞬にして変わる」という性質を無視することによって、はじめて心理学は「学」として成立し、公に認められるようになった、という側面があるんだと僕は思います」p25
→一方、仏教は心は一瞬で変わると認識していた。著者は足掛け五年、仏教の研究をした。
「心は一瞬で変わる。ということは、心に生じた感情が「本物」でない可能性もまた高い、ということになります。」p27 →同時に怒りにとらわれた心を一瞬のうちに切り替える可能性も。
→エクササイズをしてみると、自分の心は自分では制御しきれないくらいの暴れ馬であるということが認識できる。「僕らは普段、自分の心が一瞬ごとに変化し続けていることを意識していないし、それがどんな悪さをしていても、なかなか気づくことができないのです。」p29
→「暴れ馬である心をいかに制御するか、ということが、対人関係を変えていくうえでの一大課題であるということ」p30

レッスン2 「怒りの起源」を知る
コミュニケーションの困難さの起源→著者の仮説「僕たち人間は生まれた直後から数年間の間に大きな誤謬を犯す宿命にあり、その誤謬が、僕らのコミュニケーションの困難さを形づくっている。」p33
最初のコミュニケーション「おぎゃー」という泣き声⇒「相手をコントロールする道具としての泣き声」、母親は「ごめんね」と謝りながら赤ちゃんの世話をする。→泣き声は怒り→怒りを媒介としたコミュニケーションがコミュニケーションの最下層にある。「僕たちは人生の最初に、怒り、泣きわめくことによって、自分の不快を除去することを学ぶ」→「怒ることによって相手を動かす」、「怒ることによって自分の不快を解消する」
誤謬その2→「生まれてから2、3年の間に、「自分にとってもっとも大切な相手に対して、もっとも激しい怒りをぶつけ、それによって不快を除去してもらう」ことを刷り込まれる。自分のことを気遣ってくれる人に、もっとも感情的な怒りをぶつけてしまう。→この不幸な生い立ちを受け入れた地点からコミュニケーションの問題に取り組むためのスタートラインにたつ。怒りの起源は同時に愛情欲求の起源。愛情欲求は承認欲求のかたちにもなるが、これらの欲求も怒りにつながりやすい。

レッスン3 なぜ「怒っている人」に弱いのか
日本人は、文脈に関係なく表現されている怒りを好む傾向がある。怪獣、祟り神など。日本人はそのような怒りを好んできたし、また許容している。それはつまり自分の心の中に同じような怒りを抱えていてその怒りに同調してしまうため。怒りが自分の心をすさませているかという危機意識が弱い。

レッスン4 怒りは百害あって一利なし
怒りは人の知性やパフォーマンスを下げる。
リアリスト→怒りにかられると極端な合理主義者、唯物主義者になる場合がある。目に見えるものだけを判断材料にすることは、自分の想像力がおよばない場所には何も存在しない、存在しても自分と関係ないという考えにつながる。怒りにかられ妄想的な視野狭窄になるのと極端なリアリストは表裏一体。
リアリストは、中長期的にはひきこもりやすくなる。→原因と結果を単純に単線的なモデルでとらえるため、世界を全て偶然ととらえることで世界は信用できなくなり、自分の世界を縮小しようとしはじめる。するとより世界は偶然に満ちた世界になり、さらに閉じこもるという悪循環。一方全てを何かのせいだ、ととらえる「陰謀」的な妄想にも簡単に陥りやすい。
「網の目的世界観」
→「何十、何百という多要素が、網の目のように絡み合って、いまがつくられている」p71
「ありとあらゆる要素がからみあってこの世界が立ち上がっている」と実感して初めて、僕たちは「必然性」を信じられるようになり、必然性を信じられた分だけ、怒りが減っていく。
網の目的世界が立ち上がってきた人は、視野が開けて先を予測しやすくなる。また一方でどんな不幸も自分の蒔いた種として受け入れることができるようになってくる。p73
 怒りの反対の方向にあるようにみえる共感能力は、看護師さんなどのスキルとしてうけとられることも多いが、「実は怒りを静めさえすれば、自然と相手の気持ちはこちらに入ってくる」。「大切なことの多くは「心が落ち着いていないとわからない」」p77
レッスン5 怒りに気づく
スッタニパータという教典→「怒ってはいけない」と終始書かれている。
欲望をもつことが、怒りにつながる。時には「希望を持つ」も間違えれば欲につながり、怒りにつながる。
無常→世の中のものは全て変化しており、自分の把握をこえている。それに対して無知であることは、怒りを生むもとになる。
小さな怒りをとりのぞく→急いでいるのに人が道をふさいで何かしているといった時に感じるような小さな怒りの蓄積が心を疲労させている。小さな怒りを取り除いていくことが心を疲労から守り、対人関係を改善する効果的で実践的な方法になる。
不安→その奥には「怒り」がある。

☆エクササイズ
三分間目をつぶって、自分の抱いている「不安」の背景に何があるのか、心の中で分析してみよう。

「もしこんなことが起こったら大変だ、嫌だなあ」⇒「嫌だなあ」の奥には怒りがある。不安の強い人がその奥にある怒りに気づくことができたらものすごい進歩。不安な気持ちがわいてきたときにはそれを形作る怒りの感情に目を向けて。p89
「見下し」「傲慢」「自己卑下」→人の話しを聞いていて「ああ、それはこういう考えでしょ」と勝手に相手の考えをまとめて、後は上の空、という感情も怒りであり、心を疲れさせている。見下しには、「自分が一番正しい」という傲慢な気持ちがあり、それは怒りに近い感情。しかし他人に全て従う人は病人。ベテランの看護婦は患者がわがままを言い出すと元気になったなと評価する。
自己卑下→ 傲慢さの変種。「こんな自分の言ってることがわからないの?」というような迂回したかたちの「見下し」であり、怒りに通じる。
朝の自動思考から距離をとる → うつ病の人でなくても、朝十分に覚醒していない状態で暗い考えが浮かんでくる。脳は意識の制御が離れると止まるより、むしろ暴走してしまう。
レッスン6 「明るさ」は自分でつくる
怒りを観察する→一日100回怒っていても、その一回を減らせばそれだけ違い、明るくなれる。怒りに気づく、認識するだけで、怒らずにすむケースがあり、認識するだけで人は変われることがある。

エクササイズ 心の基準点をつくる
目をつむって一分間、「自分らしい自分」を思い浮かべる。心が軽くて、明るくて、気分よく呼吸できている状態が思い浮かばなければ、基準を変えて本来のところにもどす。基準点をリセットする。
お茶やお花 →日常に「節目」をつくって、気分を切り替える儀礼。「いまこの瞬間」に生きることで、過去や未来の憂いを消す思想であり、実践的技法。お茶をいただくこの瞬間に過去と未来の節目をつくる。「自分が生きている時間の中にたくさんの節目をつくっておくのが、明るく生きるコツ。」「だらーっと、地続きの時間がずっと続いていくと、人間というのは必ず怒りをためてしまいます」p103

リセットのためのエクササイズ
①木に抱きつく→お気に入りの太い木をみつけ、毎朝一分間程度、両手を幹にふれ、深呼吸をする。木と一体となり、心の中の淀んだ部分を流してもらうことをイメージする。→人に頼らず自分の力で自分の心をコントロールできた実感がもちやすい。
②深呼吸→背筋を伸ばして座り、15秒かけて、ふーっと息を吐ききる。吐ききったところで、すうっと息を吸い込む。10回繰り返すと視界が開けてくる。→コツは、背筋を伸ばして、あごをひいておくこと。自分のなかの真っ黒な怒りの固まりを煙にしてふーっと吐き出すイメージなどをつくってみるのもよい。
③念仏を唱える→心の中が怒りにとらわれそうになったら念仏を唱える。念仏の種類は問わない。念仏が嫌なら「私は怒っている。私は怒っている。」と5回ほど心の中でゆっくり唱えるとリセットできる。←スリランカ上座仏教の長老スマナサーラ(著書に『怒らないこと』など)さんの教え。
朝の過ごし方が一日を決める→心の基準点が決まりやすいのは朝。自動思考を避けるために、早いうちに冷たい水で顔を洗う。辛ければ目だけ冷たい水につける。夜に飲み食いしない。夜九時以降はなるべく食べないなど。
エクササイズ シャワーを使う
風邪っぽかったり、調子が悪いときに、熱いシャワーを背骨にかける。目をつぶって身体の状態を観察しながら、頸椎から胸椎、腰椎、尾骨まで順にかける。熱さをあまり感じないところがあれば、重点的にあたためる。
心には毎日が聞く →一週間に一時間より毎日5分が効く。
心を変えるのは一瞬でいい。→長く持続しなくても、明るい気持ちを一瞬回復するだけでも変わってくる。
自分で明るさをつくる→自分の怒りは他人のせいという考えから徹底的に抜け出しておく必要がある。怒りというのはあくまで自分の心のなかの問題。日々の生活のなかで怒りを消すことを地道に実践していくことが対人関係の問題を解決する。
レッスン7 対人関係をストレスにしない。
怒らせる人は苦しんでいる。→自分を怒らせる人たちがどういう人たちなのかを考えると、実はその人たちも怒っていて、怒りにまみれた不幸の渦中にいる。人を怒らせる人は、孤独で、人を信じられなくて、ほんとに情けない気持ちで生きている。そこまで洞察が及ぶと、カリカリすることも減りやすい。
「便利さの追求」としての他者からの撤退 →対人関係から撤退する傾向は誰もがもつもの。社会は利便性を追求するために、他者との軋轢をさけ、それを発展と位置づけてきた。「便利さ」の本質は、他者から遠ざかることと言ってもいいほど。
他者から撤退せずに現場に踏みとどまるには→「俯瞰でみる」どのようなグループに所属したとしても、個としての自分とグループの間にある温度差やギャップをできるだけ引いた目線で認識しておく。現場にいる自分を少し遠くに浮かんでいる気球から見下ろしているような感じ。職場のカラーから頭一つ出しておく。
無理しておつきあいしない。→おつきあいしないといけないことへの不安がある。不安は怒りから生じている。

エクササイズ 嫌いな人のために祈る 
目をつぶって十秒間、自分にとっていやな、あるいは苦手な人のポートレートを思い浮かべる。怒りを消していくと、イメージ上のその人が笑顔になっていく。「僕たちは「怒ること」を
やめることでしか、その人に対する怒りを消すことはできない」p136

エクササイズ
一日の終わりに、背筋を伸ばして座り、手を合わせる。ゆったりと息を吐きながら、自分の大切な人へのお祈りと合わせて、自分の苦手な、嫌いな人についても、幸せを祈る。

他者の触媒作用 →他人と関わるところで、救われたり、成長したりする。それは大きな恵みだが、しかしそれに依存せず、あくまで自分が変わるという気持ちがあることが大切。
他人に相談するときはあっさりと淡々と放す →深刻な悩みでもあっさりと話して、それに相手も相づちをうつというようなやりとりで解決してしまうこともある。「会話に「軽快さ」がないと、人に話すことの効果は薄くなってしまう」p140

レッスン8 日常のための瞑想
瞑想によって、怒りの妄想性に納得すると、怒りを消していくことがすすむ。
瞑想→ 室内を静かにして、証明を暗めにする。座って背筋を伸ばし、手を前でくむ。目を静かに閉じ、深呼吸する。
様々な瞑想 →呼吸を見る、念仏を唱える、光をみる、身体感覚に注目する、仏像をイメージするなど。
瞑想の落とし穴 →特別な人であるような錯覚をもちやすいので十分注意する。特別な体験にとらわれず、現実の世界のほうに足をつけておく。良い師匠から指導を受けるのが望ましい。

レッスン9 プラスアルファの学びとしての性格分類
同じ感受性を共有しているという思い込みを手放す →個々人は全く感受性が違う。人への対応も一律にはできない。
デメリットを超えメリット →「自分を知る」という動機で性格分類を学んでいくなら、固定観念を強化する以上にメリットがある。性格分類を学ばないかぎり、、その性格がよってたつ固定観念に気づくことが非常に難しい。p171

類人猿分類 →タイプをゴリラ、ボノボオランウータン、チンパンジーの4タイプで分類するもの。
名越式性格分類 →体癖論をもとにつくられた十タイプ。頭脳、感情、行動、闘争、集中の五タイプがあり、それがまた陰と陽の二種類にわかれる。

■思ったこと

心理学が学として成り立つには、一瞬で変化してしまう心の性質という側面を無視することが必要だった。一方仏教では、その一瞬で変化するその性質のほうに軸を置いて分析した、と著者はいいます。

赤子と母親の関係で赤子は不快に対して怒ることで、自分の置かれている状況を改善する。それがコミュニケーションの始まりであり、それは成長後も人間にずっと残り続ける。その誤謬が人間関係の困難さをかたちづくっていると。

そういうふうな考え方にある種の信頼を感じる。生物の性質や能力、構造などは、既にあるもの、自律的なもの、もともとそれを目的としてでできているものではないものの転用としてできていると思います。

人間は言葉を使っても、遺伝子に言葉の使用が前提されているわけではなくて、あくまで舌とか、脳とか、そもそもは別の求めに応じて出来たものを転用して成り立たせている。

その舌とか脳とかも、その構成を細かくみていけば、それを構成するものは、別に舌とか脳とかになるために出来たものでなくて、自律的に既にあったものを転用してそれを成り立たせている。

当たり前のことと思われるかもしれないけれど、つまるところでは生きものがもともとはバラバラな方向性をもつものの一時的な組み合わせであり、それが一つの方向だけを向かず、あっちやこっちやの方向性を内在しているからこそ、障害もあるし、言葉というものも生まれたのであり、また完璧な三角形が物理的なこの世界には存在できないように、生きものにもともとの完全な調和性とか目的とかはない。

海から陸へあがり、空にも飛べるようになったとしても、そこには目的はない。それはそのように圧がかかっていたということだけ。

こし器で丁寧に時間をかけてこされたものを見たら、こされたものはあたかもはじめからその目的に沿おうとしていたかのように見えるけれど、それは違う。川の下流の石は丸くて小さい。しかし、個々の石は川で流れるために丸く小さくなったのではない。

人間が自然を逸脱したとかいうときの「自然」は人間が勝手に定義した自然であって、あるものがあるようにある、なるようになるという何でもない結果的なものがあるだけなのだと思う。生きものは実は圧倒的にほっとかれて置いてけぼりにされた存在。

自然をもし完全な調和性として崇拝したときには、謙虚さは逆に失われてしまう。
自然はそれ自体で人間が生きられる範囲をこえて変化するときはする。一時的なとどまりを固定的なものとしてそれが自然だとは言えない。たとえ望ましい環境でしか生きていけなくても、あるものがあるように、なるものがなるように、内在された可能性がただその条件に従って発現するだけ。それを否定することはできないはずだ。

自然を守ることはそもそもできない。環境を守ることはまだできる。その環境のなかでしか生きていけないのだから、仕方なく、しかし勝手にそうさせてもらう。

子どものころ、そもそも肉を食べることとか、動物を狩ることを謝ったり、感謝する風習とか儀式があるのをみて、そんなことするならそもそも採らなかったらいいのに(死ぬけど。)と思ったけれど、もし食べることが当然の権利だからそうしても謝る必要はないとしたら、ただ嬉しくなることも嬉しくなくなってしまうだけで、そして果てしない搾取を進めていくだけなんだなと思った。

「当たり前」のこと、前提されていることが遂行されないことに対してはただ怒りが生まれるだけだ。人間性とか、理性とか、そういうものもあると前提することによって、むしろ破壊的なことが押し進められると思う。

人間に人間性はなく人、理性はなく、責任もそもそもとることなどできない。つまるところでは、お互いみんなどうしようもなくて、圧倒的にほっとかれて置いてかれた存在だよね、というところで、お互いへの優しさや共感や行うべき現実的な工夫が生まれるのではと思う。

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