降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

黒子のバスケ脅迫事件と松岡宮さんの「謝れ職業人」

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 謝れ職業人  松岡宮

「ああ、今日も会社に泊まりこみで仕事だよ」

疲れた声で言う

職業人は

謝れ

全ての「だめなヤツ」に

細い声で

謝れ

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           謝れ職業人http://d.hatena.ne.jp/pentaxx/

 


前に、精神科医の斉藤環氏が引用していた松岡宮さんの詩、「謝れ職業人」。もう一回みた。 この詩をみたら、暴力は暴力に対して反応しているのだと思うようになった。

全ての働きかけに、暴力性がある。正しければ正しいことによって。自分がどのような意図かにかかわらず。善意でも意図的でも無自覚でも。 「正しいこと」の抑圧性や疎外性。 間違ったことをしても、正しいことをしても暴力性を排除できない。 どこにもあぐらをかけるところはないということか。 強いものが弱いものへ働きかけるのも、弱いものが強いものに働きかけるのも、暴力性という地平からは同じなんだな。

暴力というのは、過剰になるときにそう言われる。しかし過剰にならないときにも暴力は影響を与えている。 薬というのは、ある目的に対して適切な分量の毒。 全ての働きかけに意図しない暴力性があるなら、それを過剰にさせないことが重要になるだろう。そこに意識的でなければ、過剰さをとめること自体できないから。「私は決して暴力的になりません」と本気でいっていれば、それがそのまま逆の証明になる。 「悪いもの」が蔓延していることと、「正しさ」が大きな顔をして周りのものを抑圧しながら蔓延していることとは、どれほど違うものだろう。

黒子のバスケ脅迫事件の犯人の最終意見陳述を読んでいる。A4レポート用紙で44枚の文量だという。残酷な光と影の差。親、教員、塾講師の虐待や学童期のいじめのもとで、主体的な選択をすることにそもそもたどり着けないという現実を被告は提示していた。社会や人からの絆から離れた存在を被告が「浮遊霊」「生霊」と呼んでいたことも印象に残っている。

ネイティブアメリカンの考え方で、幸せの総量は決まっていて、幸せを得ていることは誰かからその分の幸せをもらっているのだととらえるという話しを聞いた。逆もまたしかりで、自ら苦しみを背負うことで幸せを世界へ提供する儀式がサンダンスだということだった。

渡邊被告には、黒子のバスケの作者がただ「普通に」成功の道を歩いたことがどうしようない暴力性をもっていた。作者にすれば悪意もなく避けるすべもない。しかし、この荒野に望むべくも無いが社会がもし松岡さんの詩にあるように、自身の成功を同時に申し訳なく思う気持ちをもわきまえる感性をもっていたら、被告もどこかで回復のきっかけを得ていたのではないか。

日陰者にとって、自分より日の当たるところにいる人たちは別世界にいる。上には上があり、誰かに日の当るところにいるとみなされた人も上と比べれば日陰者になるけれど。

太陽の光を目一杯あびている向日葵があって、自分もそのようになりたいと思わない人はいない。だが誰しもが日に当たる場所に生まれるわけではない。限られた世界のなかで、向日葵は有機物が朽ちた栄養で大きく誇らしく生きているだろう。その輝きは犠牲者の骸の数を反映する。輝きはその分に相応する分をきちんと世界から奪っている。

 

昼に星は見えず、明るい都会では夜でも星は見えにくい。星が輝いて見えるには闇の深さが必要だ。誰もがこの世界では奪うものであるけれど、弔いを失った場所では救われないものは復讐を始めるしかない。

 

「黒子のバスケ」脅迫事件 被告人の最終意見陳述全文公開(篠田博之) - 個人 - Yahoo!ニュース