降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

自分に力を取り戻していく 應典院イベントでつかったプロフィール

エネルギーがないならそれを蓄えていく必要がある。生き残るために使えるエネルギーが減少する環境から、減少しない環境へ。そしてそれができたなら、減少しない環境からどちらかといえばたまっていく環境へ。

正社員として、企業で雇われて働けるような能力もやる気もなかった。全ての行動が遅いし、気も利かない。緊張も強い。それでも生きていける方法はあるか。将来の保証など全くないけれど、わずかに持っているものを使い、世界と関わり、可能性を展開させていく。いけるところまでいく。

 

嫌なこと、すり減らされることをしない。またそれをやっていたらやめる。いきなり変われないが徐々にエネルギーがたまるほうに近づいていく。まずは人を知りに行った。関心のある人、関心のある場に行き、関わりをもった。人と直接つながることはうまくないが、何かのテーマを介してなら関わることができた。テーマは、農だったり、自給だったり、生きづらさだったりするが、とにかく自分が生きていくために必要で、関心をもてるテーマ。

 

どう生きたらいいのか、どう生きれるのかは、中学校でフラッシュバックが始まってからずっと考えてきた。考えて何か結論にたどりついたと思っても、すぐにそれに向かって自分が回復していけるかと言ってもそうはならない。回復していくための工夫、環境づくりを成り立たせないとエネルギーはたまらないし、変化はおきにくい。

 

少しずつ、ましにできるところをましにしていくだけだ。色んなところに顔を出していくと知り合いはできてくる。ちょっとした情報も知り合いから来るようになる。しかし、一旦関わりをもっても、しばらく関わりをもたなければその関わりは冷え、薄まっていく。だからその関わりの熱が維持されるための工夫がいる。

 

それが自分の活動となる。何か催しを企画する。企画することは、幾つも意味がある。知ったばかりの新しい人と関係性を築くこと、昔から知っている人をよんで関わりを回復すること、テーマに関心をもった全く新しい人が訪れること、そして共にそのテーマを深められることなどだ。一回だけの単発の企画はその効果はすぐに消えてしまう。だからよく考えてだんだんと継続的に成り立つかたちの活動にしていくといい。活動で自分にエネルギーがたまっていき、人との関わりが深まり、新しい人と出会っていける。

 

だが実際はなかなか全てがそんなにうまくいかない。自分の出来ること、元気のでること、場の成り立たせ方をよく考えなかったから、自分が疲れてしまうことのほうが多かった。催しすれば何かがおこり、それが自然と自分を導いてくれるというような漠然とした期待で、現実を吟味することをしなかった。

 

疲れてやる気がなくなって、どうしてそうなってしまうのかと考えた。必ず得るものは得るというコンセプトが弱かった。ある催しをするとき、必ず得れるものは何かを考える必要がある。そして必ず得るべきものは次に運用されるものとして使えるかどうかが少なくとも自分のなかで決まっている必要がある。それがなければエネルギーは得る量より消費される量が上回ってしまう。無駄が大きいのだ。やったことによって、得るものが大きく、前より元気になるようにするために妥協なく考える。

 

無駄をつくらない。それは投げやりにならないということだ。結果的にエネルギーを浪費してしまったのなら、それは投げやりだったということ。投げやりになってはいけないという断固とした態度のもとでは、適度な危機感、緊張感、やりがいが出てくる。

 

その適度な緊張感、やりがいを弛緩させるようなことを避ける。自らハードルを下げて、緊張感が失われるなら、体験から学べない。失敗してもいいが、はじめから緊張感を放棄して関わるのならば、関わること自体が無駄になるでやらないほうがいい。「失敗してもいい」が、「どうでもいい」になってはいけない。適度な緊張感のほうがむしろ大事だ。できるなら適度な緊張感、張りの維持を大事にする。

自分の「張り」の維持は自分にしか調整できない。その調整をするためには、自分がその環境をコントロールする必要がある。僕が畑をやって、自給自足的な生活に近づくのも、暮らしのなかで自分でコントロールできること、調整できることを増やすためだ。

自分で自由に使える媒体をもてれば、それを使って様々なあり方で人との関われるようになる。特に自分の不得意なところを補うことができる。あることができなくてもいい。それを補う方法があればいい。僕の場合は、催しに使えるシェアハウスであり、畑であり、一緒に催しができる人との関わりがその媒体にあたる。

 

活動をしていくとき、活動の準備や連絡などでも人とのやりとりが派生してくる。その過程自体を、適度な張り、適度な挑戦ととらえ、設定すると無駄がない。そのように、自分で設定していくと、準備もふくめて無駄がなくなっていく。自分にエネルギーがたまっていって、何かがリハビリされ、どこか次へつながる可能性が生まれていく。

 

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(3年前の應典院イベントよりプロフィール転載)

■農に関わった経緯
 中学の時に不登校に。他人と違う自分がどうやって生きていけばいいのかを模索していくことに。大学で心理学を学んでいたが、四国88巡りの体験と旅人へのインタビューから、その人にあった適切な環境と媒体が人を変え、回復させていくことを知る。自然に触れ、人と人が交流する場所をつくる事に関心をもち、京都府宇治市で無農薬栽培をしている農家さんの協力のもとで、非農家の人が1時間の作業に対して米2合がもらえる取り組みを3年間企画・運営。そのとき自給の田んぼと畑で採れたものを自分のカフェで出している人に出会う。自分の必要なものを自分でつくれるようになること、自分の生きられる環境を自分で工夫し、つくっていこうとする意思と実践が自分をエンパワメントしていくことに気づき、田んぼと畑を学びはじめる。

■ライフスタイルとしての自給農

自給自足 → 食べ物の自給は自給の一部。少ないお金で生きていきたいというだけでなく、自分と離れたシステムや誰かにあわせて依存しなければ生きていきにくい状態から、自分たちにあわせた環境を自分たちの工夫でつくっていくこと、自律的になっていくことをめざす。自分たちの多様性を自分たちで守る。
例:お米が秋に一年分できれば一年は生きていける。無理やり自分にあわない場所で働く必要がない。自閉症の子どもをもつ家族が自分たちの農園をひらくなど。

自給と農業の違い

農業 → 金銭収入を得るため。経済効率優先(売れない野菜を廃棄するなど)。作物は商品。市場の規則にあわせる必要→例:カリフラワーの白さが足りなければ栄養が変わらなくても、等級が落ち、安く買われるなど。大きすぎたり、小さすぎる野菜も商品にならず、廃棄されたり、無駄になる作物も多い。野菜の見栄えをきれいにするためにより農薬が必要になりやすい。

自給 → 自分が生きるため、自然や世界との関わりをひらいていくため。作物は自分の食べ物。自分のために植える野菜や時期、野菜の使い方を工夫。一年中食べられるように。商品にならない状態の作物にも価値がある。例:小さいへちま、ピーマンの葉等、商品としては存在しないがおいしく食べられるものが畑になる。


 一人一人が創造したものをつぎはぎすることで、自分たちが生きていく世界をつくっていく。全ての人が田んぼと畑をもつというのではなく、農に限らず、一人一人がその場所で自分たちで自分たちの必要なものや環境を一つ一つつくっていくこと、表現していくこと自体が、その人のもっている強さや元気、創造性をひきだしていく。それらがつぎはぎされることで、個々人がこの世界でできることがより広がっていく。

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