この前参加した竹内レッスンの講師の瀬戸嶋充さんから紹介された『屍鬼』をかりようと図書館に予約。5巻あるうちの3巻だけが先に届いた。もう少し待つ。『屍鬼』は吸血鬼が出てくる話しなので死にきれなさについてどんな表現がされているのか興味がある。
ファンタジーから心のリアリティがどのようにおこり、それはどのような構造をしているのかを考えてみるようになった。作品や作者の違いをこえてどのようなパターンが繰り返し現れるのか。パターンとはテーマ性ともいえると思うが、このテーマ性をみていく。繰り返されるには理屈がある。その理屈を探る。
吸血鬼やゾンビとか幽霊とかも含めて英語はアンデッドといわれる。「死んでいないもの」ではなく、「死にきれないもの」というのが正しいと書かれているものを子どもの時読んで、変に心に残ったことを覚えている。
物語において、このようなアンデッドたちは何を語っているのか。大昔から現代になってもなおアンデッドは繰り返し物語として生まれ表現されている。
先日出版された『STAGE』への投稿ではシルヴァスタインの『ぼくを探しに』を題材に「とむらい」という関わり方が生を動かす動機であり、同時に閉じた生、滞った生を展開させるものともなると考えていることを書いた。
- 作者: シェル・シルヴァスタイン,Shel Silverstein,倉橋由美子
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1979/04/12
- メディア: 単行本
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再読してみると、「とむらい」という言葉は使ったが、「死にきれなさ」という言葉は使ってなかった。同じ意味のようなことはいっていたけれど。
「死にきれなさ」はネガティブ極まりなさそうに受け取られるかもしれないが、生きているということは「死にきれない」ということだという見方をしたときに、自分や世界でおこっていることの理解に筋が通ってくると思う。
「私が生きる」という言い方は、普通であってとくにどこにも間違いがないようで、深刻な本末転倒がある。
エネルギーが少ないとき、この「私」が「生きる」ということに負担を感じる。「私」がこのうえ何かをさらに「やって」生き「なければ」いけないのか。
このときは、生の主体があたかも「私」であるかのようだ。だが、生の主体は動かざるを得ないエネルギーであり、「私」はそこに否応なく動かされているに過ぎない。そのエネルギーの求めに妥当なかたちで応答しないと生の循環が行き詰まっていく。
実際のところ、主体は「死にきれなさ」だ。だから「私」がコントロールできなくて困っているのだ。その対応として「私」をさらに巨大にして、あるいは性能をよくして停滞する状況をこえようと考えるのだがうまくいかない。
状況や症状がなぜ停滞しているのか。その理由は「死にきれなさ」以外の何ものでもない。「私が生きる」と生きることを既知のものしか知らない「私」の背中にのせようとするのではなく、「死にきれなさ」がどのように働いているのかをみる。
その停滞状況自体が、「死にきれなさ」が何が何でも生きようとしている状態なのだ。この「死にきれなさ」は何をしようとしているのか、何にしがみついているのか。その圧倒的な力が状況を固定している。この「死にきれなさ」という主体の動機を探っていく。これは自意識の降伏ともいえるだろう。
すると、「死にきれなさ」の求めや願いが実は自分の求めや願いであることがわかってくる。問題だったのは、意識的ではないにせよ、「死にきれなさ」を主体として受け入れることに抵抗していたことにある。「死にきれなさ」が私なのだとなったときに、自意識としての「私」が「生きる」は終わる。主体は自意識とは関係なく存在し、むしろ自意識が抵抗すればするほど意固地に強固に力をかけてくる。自意識が主体だという幻想を終わらせにかかってくる。
「生きようとしている」はずなのに、症状として「死にきれなさ」が力を発動すれば生きられる可能性がむしろ減る。「死にきれなさ」の特徴は盲目性だ。
複合的現実とそぐう目的をあらかじめ持たない自律的で盲目的なエネルギーの流れ。それは他者であるだろう。よって他者が「私」の主体であるということになる。自意識としての「私」がどのようなものであれ、合理的世界がどのようなものであれ、そこから独立している主体がある。矮小な自意識で生きることを背負うのは本末転倒だ。「死にきれなさ」というエネルギーとの関わり方で生の展開がおこってくる。