降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

遊び 揺り動かし、意味から解き放つものとして

遊び。

先の投稿で哲学カフェについて書いたけれど、僕は哲学書の一つも読んでいない(それがいいとも思ってないが。)。既にある体系ももちろん重要なのだけど、さらに重要なことがある。それは何かの権威よりも自分のなかにある自律性を優先させるということだ。この自律性の優先がまずあって、そこから聞く耳をもつのが大事なのであって、はじめから権威に従うのは本末転倒だ。それは自分を駄目にして力を奪っていくことに等しい。軸が失われ、身体に一致してない行動によっては学ぶことはできず、更新はやってこない。


自律性というのは、遊びというかたちをとって出てくる。あるいは遊びという場のなかに出てくると思う。哲学カフェで「哲学」を銘打っているのは、既にある価値観とか、しがらみを持ち込ませない「真剣な遊び」にするためだ。「哲学」と銘打つことによって、日常の価値基準がキャンセルされた場、ゼロになった場をつくる。そうしないと、自律性は遊び出さない。

 

邪魔しているのは、日常の価値基準。何が上で何が下なのか、何が正しく何が間違っているのかなど、決まった価値観の檻のようになったところで遊びはおこってこない。日常の価値基準の支配を無力化することが必要だ。

 

真剣な遊びにならないなら、やる意味がない。発想されて価値あるものは、動きだした自律性からのインスピレーションであると思う。それは真剣に遊ぶときに出てくる。

 

遊ぶことは揺り動かすこと。固まった認識や関係性、内在化した規範を揺り動かす。ここには状況に変化を起こそうとする動機がある。固まったものが邪魔なのだ。それがエネルギーの流れや展開するプロセスを阻害する。その状況を変えるために遊びの動機が生まれてくると思う。そこには純粋な主体性がある。「わたし」が主体性を持つ/持たないのではなく、主体性は自律的に存在しており、それに「わたし」が向き合えるかどうかというのが実際問題だと思う。

 

遊びは異空間をつくっていく。日常とは違う価値基準や関係性で織りなされた空間をつくり、そのことによってまた潜在していたものが呼び覚まされていく。

 

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