降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

【11月の催しもの】 DIY読書会・「リードイン」実験会・水曜ゼロ円飯(吉田寮炊き出し)ほか

【11月の催しもの】

 

→9月より熾(おき)をかこむ会は第二火曜日の14時〜17時になっています。西川勝さんは、お仕事の都合で熾(おき)をかこむ会には来られなくなりましたが、同日18時半からの星の王子さま読書会には来られます。

 

11月5日(火)19時半 DIY読書会 

11月6日(水)19時 吉田食堂炊き出し 水曜ゼロ円飯(300円)

11月10日(日)13時半 ことばを味わう会 「リードイン」実験会

11月12日(火)14時 熾(おき)をかこむ会 

11月13日(水)18時半 ことばを味わう会 「リードイン」実験会

11月17日(日)10時 大地の再生と玉ねぎ植えワークショップ

11月20日(水)19時 吉田食堂炊き出し 水曜ゼロ円飯(300円)

11月22日(金)19時 私の探究・研究相談室 

 

【11/5(火)DIY読書会】

時間:19時半〜22時半ごろ

場所:ちいさな学校鞍馬口

内容:本を読んできて発表したい人が発表し、発表から触発されたことなど、自由に話す場です。今回は、酒井隆史『暴力の哲学』の続き、ウィラースレフ『ソウル・ハンターズ』の続き、リードイン(鶴見俊輔氏がやっていたことばを味わう会)なども実験的に少しやってみます。

 

 

【11月6日(水)・月20日(水)ともに19時 吉田寮炊き出し 水曜ゼロ円飯】

場所:京都大学吉田寮食堂

内容:

吉田寮生はゼロ円で、寮外の人は300円のカンパでご飯が食べられます。吉田寮食堂に入ったことがない方はこの機会にいらしてみませんか。カンパは吉田寮支援にまわされます。吉田寮はこちら→Google マップ

 

【11月10日(日)・18日(水)ことばを味わう会 「リードイン」実験会】

時間:11月10(日)18時半〜21時、12日(水)13時半〜16時ごろ

場所:ちいさな学校鞍馬口

内容:リードインは哲学者の故鶴見俊輔氏がやっていたとされる集まりです。参加者各人が自分が気になったり、印象に残った他人のことば(文章)を持ち寄って、その言葉を紹介するとともに、そのことばがなぜ気になったかとか、思うことや考えたこと、触発されたことなど、そこに自分のことばをそえるものです。一人一人が他人のことばと自分のことばを場にシェアし、みんなで味わいます。今回は、実験的にやってみます。お申し込みはyoneda422@gmail.comへ。

 

【11/12(火)熾をかこむ会】

時間:14:00〜17:00

場所:茶山KPハザ(京都市左京区田中北春菜町34−4 白い四階建のマンション「洛北館」の西向い奥)

内容:

焚き火の灰のなかに眠る熾(おき)に空気をあてるような話しの場という趣旨の熾(おき)をかこむ会は、9月より第二火曜日の14時から17時に日程が変わりました。

僕は、成長や回復という言葉を積極的には使いません。人間の生というものが、積み重なっていくこと、「発展」していくことを本質にしているようには思えないからです。

体全身に血管が張り巡らされ血が流れているように、僕は精神を通路のように想像しています。そしてそこに気が流れているようだと思っています。その通路の一部分が狭くなっていて「気詰まり」があったりします。色々抱え込んでいると、通路はその分狭まっていきます。

生きていくなかで、色々なものを抱え込み、気が流れるその通路がだんだんと狭くなっていくときがあります。また、ものごころついたときからすでに、何かすっきりとしないもの、自分の精神を詰まらせるものもあるようです。

燃え残りである熾(おき)に空気をあてるように、自分のなかに眠っていたくすぶりを少し話しの場に出すと、それはとむらいが済んだように灰になって終わっていくことがあると思います。

精神の通路のなかにある詰まりを取り除いていくとき、血行がよくなるように、生きている感覚もめぐりのいいものになると思います。何かを付け加えるのではなく、すでにあるものを取り除いていく。精神にとって、何を獲得しなくても、気の通りがよくなればそれだけでいいのではないかとも思うのです。

初めての方もどうぞ気兼ねなくお越しください。

 

【11月17日(日)大地の再生と玉ねぎ植えワークショップ】

時間:10時〜17時

場所:京都精華大学近くの畑(お申し込みの方には地図URLをお送りします。)

内容:

今回は、様々な場所の環境改善で実績をもち、土の下の空気や水の流れの重要性という、これまでの土木にほとんどなかった考えを取り入れて活動を展開されている大地の再生講座からさがひろかさんを招いて、土地の見立てと改善の具体的なやり方を学びます。あわせて保存がきき、災害時には貴重な食料となる玉ねぎの苗の定植のやり方をおぼえます。お申し込みはyoneda422@gmail.comへ。

詳細はこちらへ↓

【催しもの】11月17日(日)大地の再生と自給農法玉ねぎ定植のワークショップ - 降りていくブログ

 

【11/22(金)私の探究・研究相談室】

時間:19時

場所:本町エスコーラ(東山区

内容:

 毎月第四金曜日の夜19時から本町エスコーラで探究の相談お話し会を行なっています。今月は22日(金)です。学校が終わっても、自分の探究や自分の研究をもってみませんか。自由に、自分が一番関心をひかれること、既にある分野や学問に必ずしもこだわらず、自分の探究・研究したいことに取り組んでみると、思わぬ世界が開いていきます。連続して参加する人、初めて参加する人、どちらも大丈夫です。前の回から自分の研究テーマをもって研究が進んだ人、あるいは行き詰まった人はそれをぜひシェアしてください。

 

「適応」ではなく主体化へ

小沢牧子さんは『「心の専門家」はいらない』において、臨床心理学、心理カウンセリングが問題を個人の心のなかのこととして矮小化してしまうこと、閉じ込めてしまうことに無自覚なことに警鐘を鳴らしている。

 

blog.goo.ne.jp

 

これがどういうことなのかわかるだろうか。これは電通の高橋まつりさん過労死事件のように、異常な社会や環境のほうが根本的な問題であっても、不適応や何がしかの症状を呈することは、本人の心の問題(その状況でも症状を呈さない人はいる。)であって、つまるところその心が状況適応できるようになればいいという見えない前提への批判だ。

 

問題は個人の心のなかにあり、それが解決されればその人は治療され、適応ができるという考え方のおかしさは、たとえば『はだしのゲン』のなかでみることができる。

戦時下においては、むしろ理性を保っている人のほうが生きづらく、抑圧され、国家と一体化し、どんどんと一体化していない人を見つけだし、通報するような抑圧を「普通の人」がしはじめる。

 

問題を個人の心のなかのこととすることのおかしさは、今ある社会や環境を前提視して、そこへ順応することに無批判であることだ。戦時下で国家と一体化して適応し、心理的に「健康」な人ならば心理カウンセリングの必要はないのだから。

 

問題が自分の心のなかにあると思わされた人は社会や環境の本来的にあるべき姿を自分なりに想像してみることも、変化させようと働きかけることもなくなり、「心の専門家」やその知見が自分の問題を解決してくれると思うようになり、より生きやすくなるために「自己肯定感をあげるワークショップ」みたいなものに行けばいいのだとなるだろう。

 

僕は心理カウンセリングに行くなと言っているのではない。切実な苦しみを抱える人はその緩和のためにありとあらゆることを試行し探せばいいのであり、心理カウセリングを選択肢から除外する必要はないだろう。

 

しかし、こうしたら苦しみが緩和しますよという提示をする前に、まず言われなければいけないことがあると思う。

 

一人一人には、自分に必要な体験が何かを自分で確かめていくプロセスが生きている間ずっと必要であること。その確かめがすすむための環境を自分で調整する存在になること。そして自分に必要な体験を感じはじめれば、また環境に働きかけ、その体験を自分に与えること。

 

この試行錯誤の繰り返しによって、はじめてその人がその人になっていくこと。この終わりないプロセスにあることが個人を主体化させること。そのプロセスにはいることができなかったり、自分から拒否するならば、主体化から疎外されること。移行状態にあるとき、その人は主体であるといえるだろう。

 

主体化が疎外されたとき、その人は何かしがみつけるものに依存し、環境から自分に内在化された価値観を変えることができず、不満足に生きなければならなくなる。

 

必要な体験を自分に与える主体になっていくことが生きることに充実感や希望をもたらすこと。それが世界への信頼となっていくこと。

 

この終わりのないプロセスに入っていくことは、自分自身に応答することであり、そのことによって内在化した価値観が変容していく。精神はより寛容でより自由になっていく。

 

このことは、生きづらさを感じ、自分がどう生きていけばいいのかという問いに切実に直面している人に伝えたいと思う。

 

心のなかだけをなんとかしようとしても、どこにも行かない。今の自分の価値観や感受性が更新されるとき、また新しいものが見えてくる。今正しいと思うこと、今見えるゴール(それが自分を苦しめているのが多いと思うけれど。)は、自分が変わったとき別のものになっている。

 

自分の感受性から遠く離れていても、少しずつ近づいていくことでそれはより感じやすくなっていく。諦めず、少しでも自分が底から思っていること、感じていることに試行錯誤の応答をしていく。応答できたかどうかは、如実に自分の充実感や変化に反映される。応答していくことで、自分に内在化された縛りや抑圧、価値観が更新され精神は解放されていく。

このことを踏まえて社会を見てみよう。資本主義社会においては、自分で試行錯誤して自分で発見したり、自分で何かができるようになることは特に必要がない。どの分野にも専門家やプロがいて、お金さえあれば、その人たちにお任せできる。しかし、そのせいで、一人一人が世界と直接やりとりしながら自分の思考や感受性を更新していく主体化のプロセスが奪われている。

社会もまた一人一人に無力な消費者になってもらったほうが自分たちの権益を増すにあたって都合がいい。『ナリワイをつくる』の著者の伊藤洋志さんは、家の床を自分たちではり直しできるようになるワークショップをされているけれど、床はりにおいて、多くの人にとって床をはる経験がなくなるほど、目(リテラシー)がなくなってしまい、業者は自分たちの儲け優先で適当な床はりを横行させるということだった。

社会はお金儲けが優先なので、個々人にはより弱く無力になってもらい、より多くのニーズを出してもらい、お金を出してもらう構造が固定化されればいい。そうすると弱くなった個々人は、より自分たちの言うことを聞かざるを得ない。

資本主義社会においては、多くの人がその人たる充実や生に向かっていかないように、より強いものに従属を強める傾向を加速させるように社会が構造化されていく。この社会の歪みの傾向を自覚している専門家もいれば、無自覚な専門家もいる。

いずれにせよ、自分の経済、自分たちの経済圏の維持拡大がどこの集団にとっても重要なのだから、こと心の問題を扱っている人たちだけが公正中立なことはないだろう。個々人においては、自覚的で良心的でも、システムとしては経済圏やシェアの維持拡大が求められるのだから、全体としては、個々人の無力化、主体化の疎外に加担せざるを得ない。

世界への信頼は、自分の底で感じていること、体験したいと思っていることを、自分に提供することで回復していく。人が言っていること、評価されることではなく、自分とともにある感覚、プロセスに応答していく。

応答は大抵の場合、今まで自分が知っていることや安全確実(しかし退屈で苦痛)な領域に退避することではない、世界への直接の接触や踏み出しを求めている。しかし必ずしもいきなり大きなことをする必要はなく、ちいさな応答も確実にそれに応じたちいさな変化をもたらす。

学部の臨床心理学科に所属していたころから20年弱たった今はこう見える。問題とは、古い社会や環境が更新されるべく現れるものなのだと。社会や環境は、それが成り立たなくなるような亀裂や停滞がおこされなければ、誰かに過度の負担をかけながらもずっとそのままの体制でとどまろうとする傾向がある。

そしてその体制の偏りは、誰かに集中する。その誰かは環境全体の歪さを一身に、自分ごととして引き受ける存在になる。その人のそれまでの生は、もはや同じようには続かず、新しい生きかたを手繰り寄せなければいけなくなる。その人(あるいはその人を生かそうとする人)は生きていこうとして、周りの環境に働きかけていく。その時、周りにも応答の態度があれば、その環境は更新されていく。

問題を個人の内にとどめてしまうと、環境は更新の機会を失ってしまう。環境は更新されずまた別の人が犠牲になり、同じことが繰り返されるだろう。

環境の体制を自然に更新されるものとみるのは楽観的に過ぎる。それは非常に変わりにくい。誰かの既得権益と直結しているからだ。変えようとすると、大きな抵抗や抑圧が返ってくるだろう。だから多くの人はそこを手がけることを躊躇する。しかし、もはやそこがそのままではやっていけなくなった人は向き合うしかない。自分の生がそこにかかっており、もはや後に下がることはできなくなっているから。

問題を一身に引き受けた人は、その人がそういうつもりでなくても、環境の体制がいびつさを自分ごととしない他の人の代わりに、自分ごととして引き受けている。「迷惑」をかけているのではなく、自分が犠牲になって、体制のいびつさの「罪」を代わりに引き受けている。

今の自分が生きていくためには、環境は更新されなければならない。自分が生きていくためには、否応のない「仕事」が課せられる。受難以外の何者でもないが、もしその人が生きていくためにその「仕事」を続けるのならば、その人は人として深く回復していく。そしてその人の回復は環境の回復とも連動する。回復は個人内で完結することではないし、個人内に閉じさせることは環境の自殺行為でもある。

個人と環境は一体のものとして存在している。それをどちらかだけの問題に帰することは、真の問題の放置であり、状況をさらに深刻化させる。受難した人は、その人がそのつもりでなくても、環境が変わるために犠牲となって問題を顕在化させているのであり、公共的存在といえる。

受難した人は、目先の幸せではなく、自分が深く救われることを求めざるを得ない。目先の幸せを求めても、この競争社会で受難した自分に残されているものはないからだ。目先のものをより多く自分のものにしようとするなら、人を蹴落とすこと抜きにはできない。しかし、人が本当に救われるとはどういうことかを考え、自分ごととして求めている人は自分と周りを共に救っていくことをはじめる。

受難にあった人、生きづらい人は、強制的に公共的な存在になる。自分を救っていくためには、すでに用意されたような道ではなく、それまでなかった道をわずかであっても自分で開拓していくしかなくなる。その試練には、誰もが応答し切れるわけでもない。しかし、応答していくことで自分を乖離させた生ではないあり方に近づいていくことはできる。

 

生きづらいスタート地点で何もわからなくても、何を得ていなくても、応答することで、自分のエネルギーは増えていく。血行がよくなるように、精神の循環がよくなればエネルギーは増える。

 

そしてその状態で考えること、できることがある。変化した自分がまた変化を招いていく。今の自分の状態や価値観で未来のことを決定しようとしたり、それができると考えること自体が馬鹿馬鹿しくなる。

 

絶望は世界自体の変わらなさによってもたらされるようで、実のところは自分の既知の世界(それは全てが決まってしまった世界だ。)に閉じ込められ、そこから抜けていくことができないと完全に信じ込んでしまった時にはおとずれる。

 

応答は既知の世界を更新する。希望の感覚はその更新によって生まれる。

抑圧の相互解放のために

ある属性のマイノリティが別の属性のマイノリティへの抑圧にはまるで無自覚でしたい放題だったり、自覚していても平気だったりすることがある。またマジョリティに対してであれば、抑圧仕返すような結果になろうが、今までマジョリティがやってきたことを踏まえるならば、問題ないだろう、仕返しぐらいしても当然と高を括るような場合もある。

 

筋からいえば、抑圧からの相互の解放が目指されるところなのであって、自分(たち)だけ安全地帯に入ればそれでよし、他の人を抑圧して気晴らししてもよしというのであれば、それまでのその人の抑圧の批判には別に何の正当性もなかったということになるだろう。

 

そんな心性なら、抑圧されていた時代からその人は自分より弱い周りを抑圧していたのだろうなと思われ、その人は今も昔も一貫して抑圧者だったのだろうと思える。

 

フレイレは被抑圧者がもし自身のうちに内面化された抑圧を解放しなければ、被抑圧者は単に自分が抑圧者そのものになることを求めると指摘する。

 

フレイレはさらに、ある被抑圧者の社会的ポジションが実際に高くなり、抑圧者側にたてるようになれば、もともと抑圧者の立場にいた人より苛烈な抑圧を行うようになるとも述べている。自分が「価値」ある人間であることを証明するためには、その「価値」のない人と自分とを継続的に、はっきりと差別化しないと安心できないのだ。世間を見渡せば確かにその実例を見るに事欠かない。

 

世間の建前はともかく、自分にとって何が価値であるのか。働いていることか、「自立」していることか、能力が高いことか、人に「迷惑」をかけないことなのか。

 

抑圧の内面化とはつまるところは、こうすべき、こうあるべきという価値観ということになる。この条件を満たせば、自分には価値がある、自分は「一人前」の立派な人間であるという条件つきの「人間」認定だ。

 

ほとんど全ての人は、「自分は〜ができている」、「自分は〜であれている」という条件つきの肯定をかき集めて自分を保っているわけであるので、表面化させていなくても、潜在的な抑圧者であるといえるだろうと思う。

 

残念ながら言葉というのは、逆のもの、そうでないものに存在してもらっていないと成り立たない。言葉を介して自分が「幸せ」である、「価値」があると認識するのは比較を通してであり、「幸せ」でない人、「価値」がない人や存在をこの世界のどこかに設定しなければ、実感することができない。

 

ただ、自分がそういうふうな設定をしていることには無自覚でいられるので、天真爛漫に同じ基準を共有できない人を否定していることが多い。しかしその無自覚な人の否定は、言われた側の時間を止めてしまう。その人は、その人として自由闊達にその人の時間を展開していくはずだったのに、その否定を刻み込まれることによって、その場所にいつまでも引き戻され、留まってしまう。

 

さらには、もしその価値観自体からの解放の契機がなければ、その無自覚な人の否定は、相手の人のなかに、その条件つきの価値観を内面化させてしまう。そしてそれがまた負の連鎖を生んでいく。

 

つまるところ抑圧は、ある人がどのような条件つきの「人間認定」の価値観を自身に内在化しているかということになると思う。

 

人は素晴らしい、最高の価値があるという言葉で納得し、それで成り立つ人もいるかもしれないけれど、それを空虚なごまかしだと感じる人もいる。世間では実際に素晴らしい、価値があると大仰にいう人ほど、そういいながら実際には自分に都合のいい範囲の条件つきでしか認めていない場合も多い。

 

僕は人間がどのように変化しうるかということに関心をもち、そのありようを探ってきた。そして、人が変容していく場では(価値観自体が変わる、解放されるともいえるかもしれない。)、人は普段からこうでなければいけないとか、あるべき姿への強迫が打ち消される環境設定がされていることに気づいた。

 

価値とか意味とか、世間では肯定的に思われているようなもの自体が実はその人に必要な変化をとめている。先に述べたように、価値があるとは、価値がない存在を必要とする。気づいていなくても、そこには比較があり、競争がある。無意識であっても、精神はそれに束縛されている。

 

あなたは〜だから価値があるといわれるとき、真に受ければ、その条件を維持できるかどうかという不安がおとずれる。その条件を維持できるのはずっとではないかもしれない。すると、条件が達成されない時の自分はどうなるのか。

 

『〜だから価値がある」という「認定」は強迫と不安をもたらすし、そもそも条件を達成しないと認めないというメッセージも含まれるため、脅しでもある。細かいことを言うようだけれども、意識的にはそんな意味合いに無自覚であっても、精神は自動的に束縛され、かたまってしまう。

 

「無条件で素晴らしい」、「無条件で価値がある」というのは、代替的な言い方であってベストではないと思う。素晴らしくないといけないのか、価値がないといけないのか、という強迫がまだくるだろう。

 

素晴らしくなくてもいいし、価値がなくてもいい。その時に精神は安心する。価値や意味、そしてそういうものを生み出すそもそもの基準の持ち込みを許さず、意味や価値を判断する基準そのものが打ち消されるところで、精神は安心する。

 

そしてその時、価値観の変容のプロセスが動きだす。その人の時間が動きだす。人が内在させていた価値観(抑圧)から解放されていく。

 

抑圧されている側から抑圧する側になって、気散じや憂さ晴らしはできても、それだけでは精神の解放はできない。同じ苦しみを抱えているからすぐにまた憂さ晴らしが必要になる。それに加え、自分が余計に苛烈な抑圧者になってしまう。

 

目指すところは、内在化された価値観(抑圧)からの解放だ。そして、人が内在化された価値観から解放されていく場所は、「あなたは〜だから価値がある、素晴らしい」というような「意味」や「価値」が充満したところではなく、そのような評価づけを生み出す基準そのものが打ち消された場所だ。

 

積極的な価値づけとか、価値を高めることではなく、価値や意味を派生させる基準自体が打ち消されることが人の変容のプロセスの時間を動かしていく。

 

人のなかの、内在化した価値観の解放をめざすのであれば、ある人に対する働きかけは、その人のもっている価値観の強迫が打ち消されるような働きかけであることが求められると思う。

 

よっぽど自信を失っている人にカンフル剤的に働きかけなければいけないのでなければ、褒めて条件づけしたり、その人の一部のいいところだけを評価することは肯定的な面もあるかもしれない一方で、その人の強迫を高めもする。

 

それよりも、その人が抱えている強迫が生み出される基準自体を打ち消すようなことができるなら、そのほうがその人は自然にその人の時間を動かしていきやすくなるだろうと思う。

 

冒頭に戻り、あるマイノリティが自分たちだけがパスできる条件をもって、他の人を自覚的、あるいは無自覚に否定し、抑圧するということはよくある。潜在的に全ての人は抑圧者なのであり、そもそも「〜だから自分には価値がある」というところに自分の安定を依っているものだから。

 

抑圧とは『〜だから価値がある」という価値観そのものを基礎している。よって、もしお互いを内在化した価値観から解放しようと思うのであれば、なんであれ、人がいるところで「あなたは(あるいは誰かは)〜だから価値がある(あるいは、ない)」という評価づけ、そしてその評価づけを生むようなそもそもの基準自体が浮かび上がるようなことをしない、やりとりに持ち出さないということが非常に大切なこととして踏まえられる必要があると思う。

 

このことに非常に近いのが「人権」であると思っている。正直なところ、自分自身も学生の頃などは、人権という言葉を空虚なスローガンとしてしか受けとってなかったけれど、人権を守るという時に実際にされていることは、何かの条件によってその人に対する態度が左右されないこと、人の(商品)価値を決める基準のようなものをその人にあてはめないことであると思う。

 

人は人として対応されなければ人になっていけない。そして、人を人として対応することを通してでなければ、自分も人になっていけない。舶来の言葉でなくても「人が人になる」というときは、お互いが条件をつけた上で人を人と認めるということをやめていくということであり、蓄積された価値観(抑圧)を一つずつ取り除いて、条件つきの自分や相手の価値から解放されていくということだと思う。

 

抽象的にすぎると思われるかもしれないけれど、僕はこうしたらいけない、こういう振る舞いはNGと各マイノリティごとに知識的に積み上げていくやり方もある一方で、そもそも、人が人として扱われるとはどういうことか(僕としてはそれは人権とは何かという問いだと思うのだけれど。)を共に問うていく場が必要だと思う。

 

そこを抜きにしてしまうと、お互いを解放していくという根本的な態度やそこに向ける問いが忘れられ、抑圧されていた人が抑圧するということが繰り返されることになるのではないかと思う。

【催しもの】11月17日(日)大地の再生と自給農法玉ねぎ定植のワークショップ

叡山電鉄京都精華大前から歩いて7分の畑で大地の再生と自給農法のワークショップをやります。

 

昨年はこの畑を畑として使っていくために、シカとイノシシ除けの柵づくりとイグサとセイタカアワダチソウだらけになっているところに初めて畝を立てて、玉ねぎを植えました。

 

去年の玉ねぎはどうなったか? また現地で見ていただきます。

 

この畑の取り組みのテーマは、防災を媒介にした出会いと学びです。防災というと、準備や用意することが沢山あって面倒くさい、考えたくないと思われるかもしれませんが、去年、今年の台風や地震の被害を踏まえると、防災は全ての人にとって今や取り組むことを避けられないものになっています。

 

しかし、全ての人が関わる必然があるということは、防災をきっかけに普段はやりとりのない様々な人が出会い、交流も派生する機会でもあります。

 

むしろ、後者の側面を積極的に逆手にとって、防災を出会いと交流の場とし、被災時以外の日常生活もより豊かになりうる学びの場とすることもできるかと思います。

 

台風の避難時にできた台風カフェ、集合住宅で非常食の定期更新イベント化した取り組みなどもその好例です。

 

防災をやるならたとえ災害が来なくても日常が豊かになるような、とりこぼしなしの防災をやっていきましょう。

 

今回は、様々な場所の環境改善で実績をもち、土の下の空気や水の流れの重要性という、これまでの土木にほとんどなかった考えを取り入れて活動を展開されている大地の再生講座からさがひろかさんを招いて、土地の見立てと改善の具体的なやり方を学びます。

 

大地の再生は、たとえ重機がない場合でも、スコップ1本からでも環境は改善していけるという考え方をしています。素人には無理だ、まるでわからないとあきらめていたところから、環境の見立てと改善が等身大の自分でもやっていけると実感したときの、世界の感じ方の変化を体験してください。

 

今回は単に畑としての豊かさだけを追求するのではなく、それぞれ個性を持った場所を生かすというコンセプトで取り組みます。

 

通常、水の通りをよく、とにかく排水をよくと考えがちなのですが、湿地的な場所は湿地的な良さを生かすこともありかと考え、畑だけでなく、ちょっと池のような場所をつくったりと、生産性追求だけでなく、隙間や遊びの部分を含めた場所とのつきあいを考えてみます。

 

畑の場所は山のそばにあり、カエルや亀、様々な虫など小さな生きものも沢山います。畑よりそちらのほうが面白い子どもたちも多く、畑だけでない楽しみも重ねられたらと思っています。

 

ただ、しっかりとるものはとる、ということで、たくさん収穫でき、常温で長期保存が可能な玉ねぎの育てかたを紹介します。農というとハードルが高そうですが、色々な資材がなくても、すごい苦労をしなくても食べられるものが作れる自給農法の考え方で玉ねぎの育てかたを自分のものにしましょう。

 

自然に対して、自分にできることが増えると、世界の感じ方は変わってきます。今まで価値のなかったことが、急に価値を持ってきたりして、日常は多層的になり、興味は自然とひろくなっていきます。

 

皆さんのお越しをお待ちしております。

 

日時:11月17日(日)10時〜16時
場所:叡山電鉄京都精華大前駅から歩いて7分の畑(地球研の東南方向)
参加費:2000円
申し込み:yoneda422@gmail.com

持ち物:汚れてもいい服(長袖長ズボン)と靴、手ぶくろ、帽子、水分、昼ごはん(コンビニは歩いて10分ほどの距離です)。

 

※集合は現地集合ですが、場所がわからないかたは、9時半に叡山電鉄京都精華大前駅に集合ください。
※雨天の場合は23日(日)の同じ時間帯に延期します。

 

 

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思考の更新は環境を必要とする

自分や状況を変化させていくにあたっては、世間で言われていることとか、それはそういうふうになっているというような建前はともかく、実態はなんなのかを掴んだ言葉が必要だと思う。

 

フレイレは、言葉は実践によってより妥当なものに更新され、その言葉によってまた実践が更新されるという指摘をしている。実態の核をとらえていない空虚な言葉では、実践もまた空回りする。実践による言葉の更新、言葉の更新による実践の更新は両輪であり、ずっと続いていく。

 

フレイレを知る前から、実態に即した言葉を使わないと思考は同じところをぐるぐるまわるばかりだし、どこにもいけないと実感していた。使う言葉を更新していく。実態の核をよりとらえる言葉にしようとする。

 

読書会で、フレイレ、ファノン、マルコムXなど、50年前の思想が今の日本の状況にあてはまるという指摘がでた。ようやく、現実を、実態をみることができる時代になったのかと思う。それまでは、社会の抑圧状況はなんとなく見なければ見なくてすみ、否認できるものだったのだと思う。

 

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たとえば日本はアメリカの植民地だといった時、どれだけの人がそれが別に過激でも、極めて強いバイアスがかかった特殊な意見でもない実態をいっただけだと受け取るだろう。

 

日本は独立国だ、というのは実態からは乖離している。実態から乖離しているものを前提に話されたことは、実際を変えない。実態を糊塗することによって、関わらずにすみ、考えずにすむほうが生きやすいのだ。その先にツケが待っていたとしても。

 

植民地だというのは一例であって、ありとあらゆる欺瞞に囲まれた日常がある。「迷惑をかけるな」というのは、その欺瞞を暴くようなことはするな、ということでもある。

 

日本の高度成長は自分だけでできたのではなくて、朝鮮戦争の特需によっていた。東ティモールでも苛烈な人権侵害する側を利権のために積極的に応援していた。いわゆる日本の豊かさは国内外の見えない誰かを踏みつけにして、犠牲にすることによって成り立っている。今もまさにそうだ。

 

そういうことは考えたくない、見たくない、そうだと思いたくない。今の安定を壊すものを受け入れたくない。

 

政治的なことをいう人はうさんくさい、活動とかしている人は変わった人だ、というごく「一般的」な感覚。

 

実態の核にせまる言葉は、無難でないために、自分を揺るがされるために忌避される。そして多くの人がそれにならうとき、思考は止まる。何かがおかしいと思うひとも、あまりに多くの人がそれを当然のように信じ、受け入れているところでは、それ以上思考を展開していけない。

 

311より前に、京都自由学校のスタッフになった人がどうしてスタッフになったのと聞くと、ここでは原発の話しをしても大丈夫だからとのことだった。日常では、原発の話しをする人はおかしな人であり、やや危険な人ですらあるのだろう。

 

原発のことがおかしいと思ったり、もっと考えたいと思ったとしても、周りが政治的なこと、社会的なことを話す人はどこか変だとしていれば、その人の思考は展開できず、ずっととどまったままだ。それならば皆と同じように、見ず、聞かず、考えず、そしてとうとう自然に気づきもしなくなるほうが生きやすい。

 

感じていること、考えていることは、「世間の常識」によって展開をはばまれている。現状を見たくない、知りたくない、関わりたくない、強烈な否定の動機によって「偽りの当たり前」が支えられている。そしてその抑圧のもとで、健全な違和感や思考の展開の芽は摘まれていく。「偽りの当たり前」は何十年でも維持される。そして変わらないものは腐敗していく。それが今の現状なのだろう。

10/16 DIY読書会発表原稿 宇井純『自主講座「公害原論」の15年』

【はじめに】
 小松原織香さんが開いている環境と対話の会で扱われていた本。1970年から1986年まで東大で行われた自主講座の講演録。公害を扱う学問がないなかで、自ら学ぶ場を作った活動。野外で行われた講演には1000人がきたこともあった。1970年からこんな大きくユニークな活動がされていたのかと驚いた。公害の問題の構造(企業寄りの行政、専門機関である企業の隠蔽と改ざんなど)は現代とまるで変わるところがないように思える。時代に対して、変わらない問題に対して、自分たちで学びの場をつくるとはどういうことかをこの本を通して考える。

 

【読んだところ】
第一部
Ⅲ 現場からのレポート 

1、銚子火力反対運動から 2、イタイイタイ病論争 3、高知生コン闘争 4、白杵・大阪セメント反対運動 5、マンション建設反対運動 6、高知生コン闘争、その後 7沖縄アルミ工場進出阻止の運動から 8、東京都の公害現場にて
Ⅳ 1、国際人間環境会議報告 2、海洋の物質循環と人間への影響 
Ⅴ 1、カネミ油症の患者として 2、カネミ油症の最初の認定患者 3、豊前火力と闘う作家 4、四日市公害の証人として 5、渥美火力と自主調査 6、よみがえれ石狩川

 

第二部
座談会 自主講座を生み出したもの
自主講座が生まれたころ 自主講座開講前後 公害原論との出会い 自主講座と私

 

【感想】
 当時、地方の都市は行政だけでなく、住民も大工場誘致に賛成だったという。実際に空気が汚染され、川が汚れ、魚が取れなくなるということもおこるが、四日市などでは喘息はもともと喘息だった人が工場のせいで喘息になったと嘘をついているなどと、非難する街の住民も出てくる。利害関係が住民同士の分断もうんでいる。

 

 行政は基本的に工場誘致の推進派なので、企業側にたっている。住民を黙らせようとして、これは基準値以下だとか、工場や発電所のせいではない、ということを嘘を捏造してでもやる。反対ができたらいいけれど、ただ単に被害を受け、黙らされて死んでいった人もいるだろう。住民たちは、企業や行政の嘘をあばくために、自ら専門家を雇ったり、調査方法を身につけていった。そうでなければ現状は悪化するばかり。作物や魚が取れなくなるという現状があったとしても、エビデンスをもってこなければ相手にされない。環境庁もわざと汚染の数値が下がるような方法を用いて調査をしたりしている。

 

 嘘の発表、データの改ざん、汚職構造の温存など、今の原発の問題と当時の問題は変わらないように思えた。自主講座では、驚くほど多様な人たちが講演した。革新自治体の長であったり、それを批判する市民団体であったり、行政内部の人であったり、被害者であったり様々だった。被害者の行き場のなさは身に迫ってくる。カネミ油にPCBが入っているとは知らず、それを利用し続けて一家でカネミ油症になった家族。中学生の娘は顔にできた黒ずみを取ろうとして爪で肉ごと除去しようとしていたとのこと。自然に治らない新しい病の恐ろしさ。1968年におこったカネミ油では今なお被害者は苦しみ、なぜ自分たちがここまで苦しまなければならないのかという思いに苛まれている。 

 

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 講演の発表者たちの意見は現実的で、深く考察されたものであると思った。もし彼らの意見を国が受け止めるなら状況は本質的に改善されるのだろう。しかし、そうはならない。提案したことも骨抜きにされて意味のないものにされてしまう。

 

 自主講座を主宰した宇井純さんが、この組織をずっと続くものとしなかったのはとても興味深い。初期はよかった組織が代を経ることに本質を失っていく事例は事欠かない。組織とは即興的なものであり、生きているプロセスであるとするならば、そのプロセスを生かし続けることはできず、なお維持しようとすれば、そこには死に切れない別物が生まれるだけなのかもしれない。

 

 前回の『暴力の哲学』の発表でもあったように、かつては公共的な理念があった組織もやがて自己利益の追求が目的になっていく。また世間も幼稚園が近くにくるのは反対し、薬物依存症者回復施設が立つことも反対するように、市民も公共的な存在を担っていたところから、他者から邪魔されない自分の享楽と安楽のみを追求することにはばかりなどなくなっている。かつてかたちがあったようなもの何もかもが、ドロドロと溶けていくような現状のなかで自分たちはどう生きていくことができるのかと思う。

 

 僕は今までのいわゆる社会運動とは少し違ったアプローチがあるのではないかと思っている。現代において、人は自分が感じていることを乖離させたほうが生きやすい。しかし、その乖離によって、その人は自分を現状から回復させていくことも、自分の力を増幅させていくこともできなくなっている。

 

 現代の人は自分の考えや感じ方を持った自立した個人ではなく、自分の考え以前、自分の感じ方以前の状態にいると思う。それをまず取り戻していく必要があると思う。DIY読書会をひろめようと思ったのだけれど、読書会はまだ敷居が高いかも、と思い直し、鶴見俊輔のリードインを各地でやっていくのはどうかと思っている。

 

 リードインは、参加者が他人と自分の言葉(文章)を持ってきて、それを紹介するという非常にシンプルなもの。しかし、まず他人の言葉という導きがあり、そこに自分の感じていることを添えるという行為のなかで、自分の思考と感受性がリハビリされていくと思う。意見以前、感じていること以前の状態では、まずはそこからはじめていく必要があるかと思う。

 

 色んな場所でリードインをやっていきたいと思っています。皆さんも自分のスペースや関わりのある人の場所など、リードインをやってみるのも面白いと思われたらぜひ一緒にやらせてもらいたいと思っていますので、お声がけください。

 

後記:リードイン、次回11月5日(火)19:30〜の読書会の時にやってみましょうかと提案があり、次回にやることになりました。

【感想】修復的司法×水俣×吉田寮〜対話の場を支えるもの〜

永野三智さんと小松原織香さんと吉田寮の人たちの座談会。

 

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それぞれかなり踏み込んだ自分の体験やプロセスからのお話しだった。それぞれの人、環境、お互いや主催者との間の信頼感がなければこの水準での話しがされることはなかなかないんじゃないかと思った。

 

当事者としての体験から「対話」に向ける思いと、対話の「効果」を期待することの誤りがここでも指摘されていたと思う。語りからは、問題が解決されたり、緩和されるために「対話」があるのではないということが再確認された。

 

一方で、問題を解決したり、緩和するためのものとしての、世間の言葉としての対話はもうなくならないだろうなと思った。変な言葉として使われ、消費されていくだろう。言葉がだめにされるというのはこういうことなんだろうなと思った。都合よく使う人たちのプロパガンダみたいに使われて、その結果その欺瞞や空虚さがその言葉のイメージになる。

 

ふと糸川勉さんが「自己満足」という言葉をいい意味で使っていたのを思いだす。世間では、この言葉は批判する時に使われる。(最近は言う人が少ないだろうか? 保育園つくるなとか、薬物依存症回復施設つくるなとか、最低限だった建前すら崩壊していっているなかで、自分だけ良ければいいは特に恥ずべきことでもなくなっているのだろうか。)

 

糸川さんの「自己満足」は、世間におもねることのない、深い満足のことだった。孤独をへて社会の問題に向き合った人が生み出したものは、抑圧的な規範に亀裂をいれ、新しい質を周りの人に体験させる。坂口恭平さんなら「プライベート・パブリック」というだろう。そのようなものがやがて次の公共性を生んでいく。

 

既成のものの権威にすがって自分を保っている人は新しいものは受け入れられない。自分の価値観に対する反逆のように感じられるのかもしれない。「自己満足だ」と否定する。糸川さんの「自己満足」はそれで上等だ、とそういう人たちに対する反逆の態度をこめた言葉なのかもしれない。

 

僕は、一つの言葉には使うに値する質が必要だと思っている。そして、もしある言葉に使うに値する内容があるとしたならば、このような位置づけになりうるのではないかと逆から定義することもある。思考していくにはそれが必要な行為だと思っている。

 

それは以前から述べているように、ある言葉には見えにくい前提があり、既にその前提のうちに結論を内包しているからだ。だから間違った前提が見えない限り思考は必ず間違った方向に導かれる。思考する意味がない。むしろ思考するとは、自分が無自覚に取り入れている見えにくい無自覚な前提を破綻させ、そこから抜けていくところに意味があるのではないかと思う。

 

ある言葉が使うに値しないというのは、その言葉自体が特定のバイアスを持っているために、思考を閉じた方向、誤った方向に導くからだ。真に受ければ真に受けるほど、使えば使うほど間違った方向にいく。抑圧的な結論になる。

 

もし対話という言葉に使うに値する位置づけがあるなら、それはするものでもやるものでも、しようとしてできるものでもない。対話は目的たりうるかもしれないけれど、手段ではない。問題解決、問題の緩和のための意図的な話しなら、別に「対話」のような、深い内容があるような、思わせぶりな誤解を招く言葉を使う必要はなくて、相談、折衝とでもいっておけばいい。

 

手段では成り立たないのに、なぜ対話が目的たりうるかというと、それが対話がおこりうる開かれた態度、柔軟な態度、人を大切にする態度や関わりをもたらすからだ。対話を「おこる」ものとして設定することの意義は、実際の態度を設定することだ。

 

「対話し続ける」「対話を諦めない」とは、実際には開かれた態度と応答をつづけるということであり、自分は「対話」をやっていると本気で思ってしまったら、それは既知のものにたかを括った態度になっているのであって、それは対話がおこる態度ではない。対話がおこるような態度、応答を続ける。対話がおこるような環境(自分も含む)の設定やを整えをする。それが人間にできることなのであって、状況や相手を直接操作できるように思う傲慢は、動こうとしている変化のプロセスを止める。

 

話しのなかで、「待つことだと思う」という言葉がでた。変化は自律的なものであり、それ自体の「時間」をもつ。「待つ」ということは、物事にそれ自体の自律性を認めるということ。人に対してこの理解ができないということは、人を操作対象としてしか認識していないということだ。それは人をモノとしてみることであり、そうされることによって人はさらにその人の時間を止めてしまう。

 

遺伝子操作でもしなければ、植物をどう操作しようがそれ自体のなかで決まっている時間やプロセスをこえて実をならすことはできない。ただ環境を整えることで、そのプロセスの滞りをとることはできる。それが人を対象にした途端、直ちに操作に有効な手段ばかりが発想される。その発想とアプローチ自体がその人の時間を止め、変化を停滞させるのにもかかわらず。

 

平和省は戦争に関わり、真理省は虚偽に、愛情省は拷問に、そして潤沢省は飢餓と関わっている。こうした矛盾は偶然でもなければ、一般的な偽善から生じたわけでもない。ジョージ・オーウェル『一九八四年』

 

重要な言葉が、真逆の内容をいれられて殺される。オーウェルの話しのなかだけではなく、世間では本当にそうされていく。

 

対話という言葉が、決まったゴールに対する働きかけを意味するなら、対話という言葉は使われなくなってもいいだろうと思う。真逆のことがされているから。

 

座談会のなかで直接的な言葉としてはあまり出なかったけれど、永野さんと小松原さんのお話しは、赦しとは何かということについてのお話しでもあったような気がする。自らが自らの罪を認識し、その罪に問われながら、探している。その姿自体が社会や人に与えるものがあると思う。

 

吉田寮には70人か80人ぐらいの人が来ていたかと思う。40年前に大学が寮生を追い出したり、提訴するなどと考えられなかったと衝撃を受ける人もいた。教授会で決められた決定も理事会ではひっくり返すことが可能であり、理事会が権力を握っているという現状も報告された。また京大がかつてアイヌから奪って来た遺骨の返却をいまだに拒み続け、当事者の門前払いを続けていることも伝えられた。