降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

安心の国

安心の国では、安心をおびやかすものが嫌われる

 

安心の国の安心は、みんなのやることには疑問をもたずに従うことで手に入れられる

 

安心は、自分より強いものがくれる
みんなは強いものに従っている
だからみんなとは強さだ そして正しさだ

 

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安心の国は、変化が嫌いだ
なぜなら変化は自分たちが頼れるものを変えるかもしれないから

 

安心の国では、時間は止まったままであることが求められる

 

だから安心の国の弱い人たちは、止まった時間のなかで希望を持つことができない

 

 

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安心の国の人たちは、みんながいうことと同じでなければ、自分自身の考えなど信じられないようにならされてきた

 

安心の国の人たちはいつも不安でたまらない
頼れるものを見つけたくてたまらない
生きていく責任が自分にもどってくることに耐えられない

 

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約束のネバーランド 鬼も人間も「美味しいもの」を我慢できない フェイルセーフの人間観へ

約束のネバーランド

 

sp.shonenjump.com

 

被抑圧者(人間)が自分たちの生存と幸福を守るために抑圧者(鬼)を滅ぼそうという流れのところで、抑圧者を完全に滅ぼさないと彼らは自身の生存だけでは満足せず、必ず美味しいもの(人間)を食べようとする、自分たち人間も美味しい食べ物を我慢できないようにとのセリフ。

 

鬼たちには、食用人間の管理を一手に担う王と貴族がいて、彼らはその力によって下層民を支配している。鬼たちは人間を食べないと知性と人格が瓦解してしまう。決定的なものを握り支配しようとするのは人間と同じ。

 

マンガではそれ以上は言及されていなかったけれど、力を持つものは自らの幸福を守り、その増進を前提とし、やがて抑圧者に転じるだろうと想像させられた。

 

主人公たちは今は抑圧されているが、鬼を滅ぼすときの容赦のない論理はやがて同族に向けられていくだろう。生きるためには、「みんな」のためには、犠牲は仕方がない、死ぬ人も必要だ、と。抑圧すること、殺すことの肯定。しかし、その理屈はそこに垣間見えている「美味しいもの」を我慢できない人間に利用されている。

 

子どもの頃読んだ学研の理科マンガに、二酸化炭素の忍者にさらわれた火の姫を酸素の忍者が助けにいくという話しがあった。火の姫は二酸化炭素の影響で消えそうになっている。酸素の忍者は二酸化炭素より軽いので、戦って二酸化炭素の忍者を打ち倒す。消えそうだった火の姫は、酸素の忍者によって燃え上がるが、酸素の忍者は二酸化炭素の忍者になる。終わらない回帰。

 

支配の正当化、権力の正当化は、この繰り返しにつながるだろうと思う。人間にはそれらが美味しすぎて我慢ができない。

 

ある真っ当な運動の正当化が、やがて外部だけでなく内部の抑圧に至るのも、このことが内在されているからのように思う。そして美味しいものを得ようと行動していても、意識的には気づかない。その衝動は自意識を欺ける。

 

正しい理屈。それ自体が権力と支配を正当化する武器となる。万人に強制できるイデオロギーはない。正しい理屈はその正しさによって、それを利用してはいけないものに利用される。

 

今一般に流通している人間観は、人間の本姓を素朴によいものとしたり、素晴らしいものとする。特に「国家」が「国民」に提示するところにおいては、そのような人間像が提示される。だがそれは権力者や富裕層にとても都合がいい。

 

ボルネオで先住民の森を伐採した木材が今度の東京オリンピックに使われている。反対運動をする原住民のリーダーが暗殺されたりしている。プナンの人たちだ。読書会で取り扱った本に書かれていた人たちだ。

 

あからさまな暴力の行使。しかし、そんな遠方の国のことは見えてこない。いや、大勢は見たくないのだ。日本国内の入管の人権侵害にしても、気にする人は僅かだ。違和感や矛盾を感じなくすることができない人はこの社会で「順調」には生きられない。

 

余計なことを見たり、聞いたり、考えたり、気づいたりすることは社会生活のサバイバルに影響する。その矛盾を指摘するような声はすぐ抑圧する。ごく自然に、自動的に、自分の善意すら信じて。

 

いい人間像、素晴らしい人間像の提示は、暗い部分を見えなくする。矛盾を隠すためにその人間像は使われる。気分を高揚させ、健全な違和感を塗りこめる。

 

そういう強迫的な人間像、人間観を自分たちの周りから変えていくことがサークルのような、文化的な個々の小集団にはできるだろう。本質が善だったり、素晴らしいとされるからこそ、そうあれない素直で感受性が残った人が生きづらさを感じる。

 

人間は自らの衝動に対して自己管理できない。そのシンプルな人間観に戻ればいい。するとそのネガティブな人間観に人間は絶望するだろうか? 人間をはじめから罪人とみなす宗教もある。人間は自己管理できないからこそ、その自己疎外をとどめる役割をする他者が必要だ。自分で自分を管理できると思っている人間は他者に感謝などしない。そして、あからさまでなくても、「自分を管理できない人」を軽視する。

 

自立した人間像というのは、他人に頼ることを個々に恐れさせ、お互いを頼らせないようにする。人間の自己完結した善性を支配層が提示することで、自分のたちの欺瞞を糊塗することができ、そして自分たちの作った環境によって疎外され、抑圧される人たちに「自己責任」を押しつけることができる。

 

人間の衝動は、人間を欺く。そのことを前提にするならば、本来はフェイルセーフの仕組みが作られるはずだ。フェイルセーフの仕組みとは、システムのある部分が故障や誤作動をおこしたときに、それによっておこされる危険性をあらかじめとどめる仕組みだと理解しているけれど、一つのシステムで全部を管理するのではなく、どこかに異常がおこった時に、それを止める別のシステムがあらかじめ組み込まれていることが必要だ。

 

本来であれば、力をあまり一部に集中させてはならない。力は分散され、拮抗していないと、人は権力の美味しさに耐えきれず、より権力を獲得し、肥大化し、人を抑圧しはじめる。正しい人に丸ごと何かをお任せできるというのも、そもそもの嘘だ。正しい人などいない。その設定は、自分の応答性の放棄と結果の押しつけのためのものでしかない。

 

人の衝動は自己管理できない。人は自分を正しく見れない。人は間違う。そういうことを前提にした人間観では、人はむしろ自分に抱えこまず、適切な他者とのやりとりによって、むしろ健全さや安心をお互いに回復するだろう。「自立した人間像」こそ、多くの人を不安におとしいれ、孤立させ、強いものに依存させることに拍車をかけるだろう。


鬼は人の外にいるのではなくて、人のなかにある。そのことを認めることで、むしろ人はゆるされた感覚をもつだろう。それは衝動を暴走させるよりも、衝動が出ても大丈夫な仕組みを周りにつくる。

 

フェイルセーフの人間観に移行する時、同時に自分こそが管理者である、正義の執行者であるというように振る舞うものに対して、健全な疑念を持つようになるだろう。

 

 

 

 

 

9/29 話しの場研究室 発表原稿 自分にとっての場とは何か?

発表1 
自分にとっての場とは何か?

 

【経緯と位置づけ】
心理カウンセリングを学ぶ学科にいた際、人が回復したり、変わっていく場はカウンセリングルームのなかだけではないのではないかと思った。四国遍路の体験、大学院での四国遍路をする人のインタビュー調査などを経て、適切な環境と媒体があれば専門家抜きでも人は自律的に回復したり、変わっていくと考えるようになった。つまり場づくりが重要なのだと思って、30人ぐらいで無農薬の米づくりをするイベントの企画をさせてもらったりした。
 
しばらくして、野外の場ももちろん変容の場になりうるのだけれど、そもそも自分は中学校や高校の頃から内面を静かに語れるような話しをすることが好きだったと思い、話しに焦点をおくところに戻った。少し当事者研究やオープンダイアローグの技法などを使って話しをするということをしたのち、治療や回復を意識しない設定のほうがいいのではと思うようなった。

 

回復ということと、学びということに本質的な違いはないという認識になった。学びがもっともおこりやすい環境を追究すると、それは回復の場に必要な環境でもあった。自分の思うことを言っても大丈夫な雰囲気、人格と意見が尊重されること、など。それらは現在は全く常識ではないので、学問の場で人の間違いを厳しく指摘したり、逆に厳しい目に晒されるのを「覚悟」して場に望まなければいけなかったりする。

 

しかし、それでは発見や洞察はむしろ停滞する。学びそれ自体を重要視するならば、「完成」されたもののみを価値とし提示しあう場ではなく、探究し、発見したり、気づいていくプロセス自体が促進される場が必要であると考える。

 

では次に自分がその場をやることとはどういうことか。

 

場をつくるとは、前回の話しの場研究室でも言及されたように、自分に必要な体験を提供するためだと考えている。他人が設定した場が、必ずしも自分のプロセスにフィットするわけではない。なので自分に必要なプロセスを呼び起こすためには、自分で環境を設定する必要がある。

 

たとえば、詩をかく友人は広告の裏のようなところにしか詩がかけないという。ノートなど、詩を書くつもりで書こうとすると出てこず、どうでもいい紙に詩など書いてないかのように書くとき、詩が出てくるという。どれだけ詩の教室に通おうと、広告の裏になら出てくるということを発見できなかったら、友人は詩を書いていくことができなかったかもしれない。

 

そのように、自分のプロセスがどのような環境条件で出てくるかを知り、それを設定することが、自分で場をつくることの意味だと思う。

 

パウロフレイレはもし他人が考えることがなければ、自分もまた考えたとは言えないと指摘している。自分一人の思考で変わっていくことはできない。自分の思考も、他者との感応(=対話=変容のプロセス)を経て変容していく。それは単なる言葉のやりとりではなく、自分と相手に実際に質的な変容のプロセスがおこるということ。僕が考えるに、相手のなかに動く質的なものがあり、それが自分のなかにはいってくると、自分の感じていたことや思考も変わってしまう。

 

言葉で認識するものは、関連しあい動いている一つの全体から切り取られたものであり、断片的で死んだものであると思う。仕方がないとはいえ、誤ったかたちでしか、言葉では認識できず、表現できない。

 

自分を自意識としたとき、自分とは殻であり、殻は言葉によって構成されている。殻は精神が変容するような、直接の体験をしないように出来上がっている鎧のようなものでもあると思う。

 

しかし、自分と相手の殻が一瞬でも機能を停止したとき、本来的には世界は一体であるので、否応無くお互いは混ざり合い変わる。お互いを響きとしてとらえるならば、それまでのお互いの殻に阻止されていた個別となっていたそれぞれの響きが、まとまった多重の響きのようなものになる。

 

自分が人と一緒に場をやっているのはそういうところ。思考が一人で変わっていくことはない。それぞれの人の自意識や思考、言葉とは独立して存在するプロセスそれ自体の動きに出会うことが自分を新しくする。

 

思考もまたそのことによって新しくなる。自分に着地していない話しを聞いてもプロセスが動いていないので、相手に影響を与えない。その話しには興味深さ、おもむきが伴っておらず、言葉が単に言葉として虚しく羅列されている。一方で、どのような思考や価値観をもっているかにかかわらず、話しの上手い下手にもかかわらず、その人自身が動いているとき、その人はその人が知っている自分でもなく、変容のプロセスとともにある。そのとき、そのプロセス自体が周りに影響を与え、興味深さや空虚でない確かな質感が提供されている。 

 

プロセスが動くこと、プロセスが動きやすくなることに焦点をあてて場を設定する。プロセスはプロセスに反応するところがあるので、まず自分のプロセスが動くことを軸にすればいいのではないかと考えている。

 

自分のプロセスがもっとも動きやすい設定をつくり、それを他者と共有する。商業的な効率を優先すると、プロセス優先は犠牲になる。プロセスをもっとも優先させると考えたとき、場の設定は自然と決まってくる。自分が参加者に提供するのは知識や思考など有形のものではなく、自分のプロセスの動きそれ自体だと考えている。それしか自分は提供できないし、それで割に合う(=自分のプロセスが動く)と思う人がくる、ということでいいと考えている。自分のプロセスが動くなかで、他者との間に(お互いの)変容の接点が生まれる。意味のある世界の変容はそこから生まれるのだと思う。

世界への信頼の回復 探究と希望

明日19時からは本町エスコーラで私の探究・研究相談室です。

 

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世界への信頼の回復とは、世界が自分にとっていい意味で未知であり、応答的な存在であるという実感が出てくることかと思います。

 

自分にとっての世界像が変わらないのに、自分の価値だけがなぜか高まっていくのなら、常識的に考えて、それは自分が見えなくなっているということなのではないかと思います。世界像の変化の反映として、自分像も変わるのだと思います。

 

世界はこのように危険で荒野なのに、そんなものが信頼できるはずがないと思うかもしれませんが、世界全部を信頼する必要はなく(それも自分のイメージにすぎませんが。)、自分の感じかたが更新される世界との「接点」があり、それを見つけ、そこと関わり、やりとりを続けていけば、それで世界像は更新されうると思います。

 

自分はこんなに素晴らしいと確認できるようになる必要はなく、世界には自分が知らないことがあるのだとあらためて知り、知らなかったその精妙さを驚きとともに実感するということがあれば、精神の新陳代謝は動きだしており、絶望に追い込まれるのとは逆の方向にいきます。

 

パウロフレイレは『希望の教育学』という本を著しましたが、「希望」という言葉がこの世界の現実に対しては、やや純朴すぎるのではないかという批判がありました。しかし、希望というのは、自分のなかにあった古い世界像が更新されることなのだと思います。

 

その逆で、絶望とは既知のもののなかに閉じ込められ、決して変わらないと信じてしまうことであるのだと思います。

 

自分が知っているものが、自分が思うかたちで、良いように変わることによって希望が生まれると思われがちです。もしそういうことでしたら、フレイレに対する批判も理解できそうです。

 

しかしそういうことではないのです。ニュースを聞いて、ああ、いいことが何もないなと思ったとしても、自分のなかの決定された古い世界像が更新されていく接点をどこかでもっているなら、希望は生まれてくるというわけです。希望とはそもそもそういうふうに生まれるものだと、フレイレは指摘しているのだと思います。

 

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もちろん、すぐ自分のものの見方が変わっていくような接点を見つけられるわけではありません。その手がかりをもっていたとしても、それは自分の知っているものの少し外にあるからです。だから探究していくことが必要です。そしてその接点を見つけたならば、それに応答していくことです。

 

応答もまた、今までに自分がもう知っているやり方を繰り返すようなことではありません。応答も知っていることの少し外にあるのです。応答の仕方も探究していく必要があります。

 

探究ばかりではないか、いつゴールなんだ、ゴールに着かなければ意味がない、と思うかもしれませんが、そのゴールは古い自分が決めたものであって、ものの見方が更新された時にはもうゴールではなくなっているのです。むしろ、それをゴールだと思っていたことが、自分の停滞の原因だったという理解さえその時にあらわれるのではないかと思います。

 

自分がもう知っているゴールに着かねばと思うから遠く感じ、しんどいのであって、精神の新陳代謝をしていくことに目当てを変えて、それを探究していけば、楽になっていくと思います。それは過程を生きるということでもあります。

 

探究とは、自分のなかでもう決まってしまったゴールを変えていく営みともいえるかもしれません。決まってしまったゴールこそが自分の息をつめていくのかもしれません。

 

探究するとき、自分の感性や直感がもっとも働く状態をもってこようとすれば、自然と自分に着地し、地に足が着きます。自分が無理して頑張ったりしても意味がないことがわかり、現実的な歩みが生まれてきます。

自分の価値を高めるのか ゆるすのか

畑の共同作業日だったけれど、雨がひどく降ってきて土もべちょべちょに濡れたので、作業は中止して午後から第4回関西当事者研究交流集会へ。

 

cocopit.net

 

ある分野のマイノリティが、別の分野のマイノリティに対して差別や軽視を持っていないかというと、全くそんなことはないということはよく言及されている。

 

自分が何かのマイノリティだからといって、他のマイノリティにもやさしい価値観を持っていたりということはない。むしろ世間的には自分の価値が低く扱われるために、自動的に他のところで補おう、盛り返そうとマッチョになりがちですらある。

 

マッチョの何が問題かというと、自分だけが勝手にムキムキ(厳しい価値観を持つなど)になるならいいのだけど、それではおさまらず他の人に対する蔑視が有形無形に表現されて周りに「被害」がおよぶところ。自分が高まるために、そうでない人や物事を何度でも否定しないと、自分の価値が確認できず、高めた価値を維持できない。

 

差別や蔑視の問題は根深い。関西当事者研究交流集会に綺羅星のようにあらわれて会場を沸かせる非モテ研の人たちの発表を聞いた人たちが、無自覚な上から目線や「モテるべき」といった価値観を非モテ研の人たちに示すことがあったというフィードバックがあった。

 

非モテ研の発表が面白く、人の心を動かすのは、傷つきやすさをあえて隠さないからなのであって、それをテレビの芸人を消費する気持ちみたいになって口をきいたり、お前は実際はモテるだろうとか、褒め言葉のつもりでも、人の価値を鑑定するような、点数をつけるような無礼をしてはいけない。

 

お前は何点ぐらいだとかいうようなこと、どの部分は一人前だとかいうことを、どんなふうに柔らかく言おうと、それは尊厳の踏みにじりであって、その人の時間を止めてしまう。残念ながらこの感覚は一般社会にはあまり浸透していないけれども。

 

こういうと厳しい社会の水準こそが普通=あるべき姿であって、お前が変わらないといけないのだというマッチョが普通にすぐ現れるほどだ。前述のように、マッチョは自分より下の人、批判する人を必要としていて、餌に食いつくように、居丈高に自分のムキムキ具合こそ普通だ、お前が悪い、足りないと言いにきて自分を高めようとする。(本人の意識的には本気で「教えて」あげているのだけれど。)

 

回復は、自分の価値を高めることではなく、内在化されたあるべき姿から解放されていくところにある。自分の価値を高めようとすると、相対的に何かや誰かの価値を下げなければいけない。

 

では、どの方向に行くのいいのか。ゆるす方向だと思う。自分の価値を高めるのではなく、無自覚だったあるべき姿を発見し、解放されること。それが自分をゆるすということになると思う。高めるのではなく、ゆるす方向に行く。ゆるしたら自堕落になると思うかもしれないけれど、まだ発見していなかった強迫が取れたとき、人はぐるぐるとした停滞から抜け出す。

 

そしてその発見がおこる場所は、人が人として尊厳をもって対応されるところだ。馬鹿にされるところ、下に見られるところ、そういうところでは、人はそのような発見をしていけない。

 

今の一般社会の水準がどうであれ、正の循環を自分たちの周りからおこしていけばいい。

 

僕自身の人間観は30年前からは大分変わった。今の人間観は、人は自動的に殻を作ってしまい、その殻に疎外されてしまう存在なのだというもの。ネガティブに思われるかもしれないけれど、自分や人の価値を高めるのではなく、ゆるす方向に視点が行くことで、今ある停滞を抜けていけると僕は思う。

 

ある集団もごく自然に他人の痛みに無自覚になっていきがちだと思う。自分たちの痛み以外のことには気づかなくなっていく。僕はその自動的な疎外が止まるには「亀裂」が必要なのだと思っている。その疎外によって傷ついた人が上に立たず、水平な位置からその傷つきを表現するとき、無自覚だった人も震える。

 

それは無自覚だった人にとっては、傷つきとして体験される。しかし、その傷つきが場を変える。奥田知志さんは、人は健全に傷つけあうことが必要、と指摘している。自分が無傷のまま、人だけを傷つけようとしてはいけない。しかし、自分の傷つきをもって、その傷つきを人を伝えるとき、それは人を人にしていくと思う。

 

関西当事者研究交流集会、もう一つ印象的だったのがライブ当事者研究の一場面。

 

会場からの様々な応答、アドバイス、意見などが寄せられていた。そのなかにはその問題を共有していない自分でも、とても心をうつものもあった。発表者は最後、もしかしたら言わないままですましたかもしれなかった心のつかえの部分を話せたのではないかなと思わせるところがあった。様々な方からの真摯な応答は、それだけ発表者に届くところがあったのではないかなと思う。

 

一方で会場とのやりとり、個人的な感覚だけれど、危なかっしいように思えるのもあった。〜だったら〜すべき、みたいなところとか、チャンスは今ぐらいしかないかも的な、応援というより本人にその意図はないがちょっと焦らせるようなものなど。会場の雰囲気でカバー、というようなことができない発言ももしかしたらされうるのでは、と思った。

 

大会場で多数の人がくるというとき、良くも悪くも統一的な意識が共有されていないので、あまりどう応答したらいいかとか慣れていない人が、無自覚に深い傷を与える発言はおこりうると思う。

 

自分もあまりこういう大きな場に慣れていないので、どうとらえていいかわからず。いや発表者は結構言われても大丈夫な人が上がっているとか、当事者研究重ねている人は、結構打たれ強くなっていたり、スルーできるとか、そういうこともあるのかもしれないけれど。

 

歌があったりして、会場全体での一体感みたいなものも追求されたのかもしれない。個々で当事者研究をやっている人たち、そしてその人たちが集まるとこにきたいと思う人たち、支援者。そういう人たちが集まる時に、いいかたちとは何だろうとあらためて思った。

 

そうそう、あとちょっと非モテ研に肩入れしすぎかもしれないけれど、無自覚な上から目線に気づく演劇とか、ワークショップとか、そういうことを非モテ研にやってもらってもいいんじゃないかなと思った。

そろそろ「自己肯定感」を卒業しよう

 

 

信田さよ子 on Twitter: "気になったのが自己肯定感という言葉。大阪に続き仙台でも質問された。何度も言うが自己肯定感や自尊心が高い低いって自滅に続く道だ。他者やアートや読書など時には自然界からつまり自分の外部から備給されるものだから。親から愛されなかったんだから自分で自分を好きにならなきゃダメとか→"

 

信田さよ子 on Twitter: "自己肯定感を高めるワークに出たけどちっとも自己肯定感高まらない自分ってダメなんじゃないか?という人が居て「犠牲者」じゃないかと思った。新自由主義に貫かれた最後は自分に戻ってくる残酷なブーメランはビジネス書に溢れ時にはアディクションの世界にもはびこっている。臨床心理士の中にも→"

 

信田さよ子 on Twitter: "や専門家、時には教師たちが虐待の影響は自己肯定感を低めることだと言う。その度に蕁麻疹が出そうになるが、最後の1人になっても自己肯定感という言葉だけは使わない決意を固めた。→"

 

世間では、本当に存在するものみたいにまかり通っている「自己肯定感」。弊害の大きさは今まで何度か言及したけれど、多分、自己肯定感というようなものは存在しない。

 

自分に「自信」がないから何かがやれないのではなく、何かをやろうとするときに出てくる不安や自分の思う「安全」に退却しようとする恐怖が「加わっている」んであって、自己肯定感とかいうものがあったらやれるとか、「自信」がないからやれないのではない。

 

自然の動物は自己肯定感に溢れているだろうか? 自然のものの躍動性は自分がどうだとか、振り返らないところからきていると思う。切り立った断崖を登るヤギは恐怖を超える「勇気」に満ちているだろうか?

 

自分は大丈夫だからやれるとかいうように、振り返って高めるような肯定感は、恐怖を存在させたまま、無理やり自分を感じなくして乗り切ろうとするようなこと。

 

自己肯定感を高めて恐怖や不安に打ち勝つとか、やりたいことをやるとか、そういう感じで何かができるようになったと錯覚した人は、マッチョになって、人にもああすべきとか、お前は甘えているとか、厳しいことを言い出す。本来的な解きほぐしをせず、目をつむってこなしているだけだから、実のところは問題は何も解決していない。

 

自分に対する信頼ではなく、世界に対する信頼を回復させていくことで、感じ方は変わってくる。自分のなかにおこるプロセスに応答し、間接的ではなく、直接的に世界とやりとりすることが、世界への信頼を回復させていく。

 

世界との直接のやりとりの接点をどこに設定するかは、それぞれの人によって違う。しかし、その接点を得ないと、自分はイメージのなかにとどまり、感じ方は変わっていかない。

 

強迫的な状態がしばし退くようなひとときに、自分のプロセスは感じられる。そこに応答する。応答とは、管理でも指示でもなく、自分とそこにあるものをともに生かす踏み出し。

わたしという「止まった時間」とその付き合い方

友達に誘われて操体法的なお話し会に。

 

具体例を聞いて色々と腑に落ちるところがあった。

 

意志と感覚は相反する関係。
より意志で操作しようとするとき、感覚は消えてゆき、逆に感覚が優勢になるとき自分の意志は消えていく。

 

意志は、過去、記憶、止まったもの(死んだもの)に基づくものであり、感覚は現在動いているもの、生きているもの、変わっていこうとするものであり、プロセスそのもの。

 

感覚とプロセスは連動している、近しいものであるというより、感覚とはプロセスそのものだ、という理解のほうが妥当だろうと思える。痛みという感覚があるならそれはプロセスそのものだと理解する。

 

お話ししてくれていた方本人のエピソードで、自分自身の体へアプローチしてやろう、痛みを消してやろう、治してやろうとしているときは状況は停滞していて、気づいていなかったことを発見した時に、痛みが変わったという。

 

治してやろう、痛みを消してやろうは、意志の強制であり、意志を働かせて強制的に状況を変えようと考えているとき、プロセスは止まる。そういうふうになっているとき、自分は過去のものしか見えていない。

 

知らなかったもの、新しいものが状況を展開させる。自意識が自分を支配しきれないとき、新しいものであるプロセスが間隙を縫って動き出す。

 

プロセス(=感覚)を「時間」という言葉でとらえている。自意識、言葉を通して認識される自分は、止まった時間だ。

 

よって、その止まった時間が動いているプロセスを直接に進行させることはできない。止まった時間であるものが時間を動かすことはできない。止まった時間は動いているものを、自分と同じように止めることしかできない。

 

意志は、間接的に働かせる。そして意志の働きが打ち消されるように状況を設定する。街角、帰りがけ、サードプレイス、そういったものは意志の自動的な統制に干渉をかけ、統制を弱くさせる。そのような場、境界におもむくことは、意志によって、意志を打ち消す場にいくということだ。

 

自意識は言葉によって構成されている。言葉の支配は自動的であり、プロセス、変化は止められた状態になる。境界とは、言葉の意味の境界であり、どちらつかずのそこでは、意識の支配は弱められる。

 

止まった時間を成り立たせているものを止める。そのことによって、間接的にプロセスは動き出す。自意識を本当の自分だとか、動いているプロセスだと思ってしまうと、停滞する。言葉を通して認識されたものは、止まったものであり、過去のものであり、既に閉じているし、行き詰まっている。

 

自分の意志の力を働かせて、何かを強制的に自分にやらせて自分を変えようとするのはうまくいかないし、本質的な変容がおこらない。私はこんなに変わったのです、という時に、その人の価値観は変わっていない。頭のOSは古いまま。感じ方、思考も同じままなので、やがて同じ行き詰まりに入る。

 

意志での強制は状況を質的に変えない。自分は自意識でしかないのに、ならばどうすればいいのか、と思うかもしれない。間接的にやることが状況を変容させる。

 

確かなものを蓄積するように、決めつけていくように、知識や技術を身につけると、自分の殻を厚くする。ここも間接的にやるのが妥当だ。つまり確かなもの、これとわかっているものを蓄積していくのではなく、わからないものを探究するということが、学びの姿勢として妥当であり、そこで実際の展開はおこってくる。これが絶対だと思うものを積み上げていく勉強ではなく、探究をするというところに学びがあり、表面的でも、反動をおこすものでもない質的な変容がおこる。

 

学ぶとは出来上がってしまった今の自分自身に対する反逆であると思う。

 

治そうとしたらプロセスはとまる。知っているものとして何かを操作することは、自分に変化をおこさない。知らない、と現実を認めないと何も変容はおこらない。自意識自身が止まった時間なのだから、それを出し抜く必要がある。

 

どれだけ自分に蓄積できるか、能力を向上させるか、を求めるとそのこと自体によって変化のプロセスが停滞するというジレンマがある。獲得したものは、終わったものであり、それを自分の本質だとか価値だとか思うと、次のプロセスが停滞してしまう。

 

感じ方の変化は、よくも悪くも自分の予想をこえる。あるいはずれる。古い自分の思い通り変化していくことはできないし、そのことにそれほどの意味はないと思う。

 

そういう変化だと、社会はより生きづらくなるだろう。自分が変わる必要がないもの、強いものは、ずっと古いままで、新しく生まれて来ようとするものを抑圧する。

 

今の自分の価値観から、どれだけ自分が変わるかとか、獲得するかを求めても結局行き詰まる。気づいていないもの、既知のものに回収されないものとやりとりすることが重要であり、それが結局自分(という自意識)の見える風景、感じ方を一新する。

 

自意識が獲得や蓄積を求めているように思えるかもしれないが、結局は自意識は古い見え方自体に倦んでいるのであり、同じものを求め続ける古い自分が終わることがその自意識へのプレゼントなのだと思う。