降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

「迷惑」への応答とは、世界への責任を取り戻すこと

川崎の事件への世間の反応を受けた奥田知志さんのフェイスブック投稿が700シェアになったとのこと。

 

https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=2256821517730593&id=100002083010255

 

 

「迷惑をかけない」という一見道徳のようにもみえることが、実は単なる弱者切り捨てであって、弱者にまわった者には苛烈な攻撃がされるが、15兆円の年金を溶かした政府はさしたる断罪もされない。

 

強いものは何をしようが文句をつぶやかれる程度なのをみると、つまりこの「迷惑をかけない」は道徳のようにみえて保身術であり、処世術なのであることがわかる。

 

 

これを守ることによって、自分の身におよぶ被害は最小限にするのだが、その前提には既存の強いものに従うことが含まれている。自分にもリスクのある改革など求めておらず、既存の仕組みから得られるものを1ミリも減らしたくない。

 

 

だから正しいことであっても、それを壊そうと する人には自分の安穏を壊す人だと被害を感じ、かつ自分は本来の求めを抑圧しているために、そのままの気持ちや妥当な要求をする人に強い嫉妬を感じる。「罰」を与えずにはいられない気持ちになる。

 

 

社会は「迷惑をかけなければ好きにやっていい」と明に暗にメッセージを送ってきた。それはつまり自分がやったことに対してもらえた自分の取り分や時間はびた一文、1秒たりとも人にあげなくていいのですよ、というメッセージだ。

 

 

そのメッセージは人の欲望をかきたてただろうと思う。そしてそれが表面上はうまくいっている間は、他者に寛容なふりもできたのだと思う。

 

 

しかし、自分の取り分を確保することだけに執心させる社会は、人が人として育つ環境を荒廃させていった。

 

僕は考え方として変える必要があるのは、人が意識的であり、善意にもとづき努力すれば環境を良く変えていけるし、社会を正しくしていけるというような素朴な性善説だと思う。

 

それは人間が持つ自己中心性をあまりに軽視していると思う。しかし社会は積極的に騙してきた。そうしたほうが一時的には儲かるからだ。持続可能だった前近代のものではなく、持続不可能な近代的「焼き畑農業」がされてきた。

 

必要なことは、人間が自らの宿業としてもっている、避けることのできない自己中心性に対して、それによる自分と環境の疎外がいかに壊れるデザインを自らに設定できるかということなのではないかと思う。

 

樹木希林さんが自分を壊すものとしての自身のパートナーの存在意義を語ったように、自分の放縦がそれ以上いかず、適度に壊されるということを自分の環境に組み込んで、ようやく人は人として自立しているといえないだろうか。

 

これは言い換えれば、人は自分の自己中心性のために、決して自立できないから、それを壊す他者が必要だということだ。

 

自分を壊すもの、それが「迷惑」以外のなにものでもない。「迷惑」に向き合わないことが、根本的に人を人でなくしていったのであり、それを反転させることが、現在より切迫したことになっていると思う。

 

社会は個人から実は責任を奪ってきた。責任など持たなくていいよとメッセージを送ってきた。自分の経済活動だけちゃんとやってくれれば、カプセルホテルのカプセルのように個々人が自分のことだけに邁進していればいいと。

 

しかしそれは間違いだ。それは世界を荒廃させていく。取り戻す必要のある責任は迷惑をかけないという責任ではなく、世界に対する責任だ。目を閉じ、感じなくできていたこの世界の実質に対する責任だ。「迷惑」に向き合うというかたちでの、自分のカプセルの外に自分が応答していくという責任だ。

力の理屈 なぜ革新的なことや実践的なことが発見されても消えていくのか

いつも稽古に通わせてもらっている身体教育研究所の角南和宏さんが在野研究者の山本義隆さんの著書『磁力と重力の発見』について、ブログに書かれている。

 

dohokids.blogspot.com

 

磁力と重力の発見〈1〉古代・中世

磁力と重力の発見〈1〉古代・中世

 

 

『磁力と重力の発見』の引用部分。

明治前期に上級学校に進んだのはほとんどが士族の子弟で、明治期の技術者はその大半が士族出身者で占められていた。しかし徳川の時代に「士農工商」お身分制ヒエラルキーの最上部にいた士族は、職人や商人の仕事を蔑んでいたのであり、士族に根強かったこのような階級的偏見を払拭するには、工部大学校、のちには帝国大学工科大学で教育されることになる技術を、舶来のものとして箔をつけ、お上のものとして権威づけ、こうして教育される技術者を、技術エリート・技術士官として在来の職人から差別化しなければならなかった。

 

科学動員のかけ声のもとで研究者や技術者は優遇され、戦時下の理工系ブームがもたらされた。理工系の学者は、研究活動上も私生活においても、わが世の春を迎えることになる。前述の宮本武之輔の一九四〇年の「技術国策論」には、「現に理科系統の大学卒業者に対する需要は供給の三倍以上、同じく専門学校卒業者に対する需要は五倍以上に達する状態」とある。

 

先月に宇井純『自主講座「公害原論」の15年』を読んだとき、東大工学部の助手たちが国で規定されている水準の権利を持てず、自立性を持たされず差別されていたこと、そして教授たちが教壇を市民や助手たちに使用されたことにショックを受けていたという記述があった。

 

自主講座「 公害原論」の15年 新装版

自主講座「 公害原論」の15年 新装版

 

 

依田彦三郎(東大工学部助手会)「神聖な教壇を助手・市民の泥靴に汚されたこと、これは教授たちにとって大変なショックだったと思います

 

教壇が神聖? どんな時代かと思ったけれど、1970年とか、戦争も終わった後のほんの50年前の話し。士族たちが身分制を維持する場所として大学を住みかにしていたのだなあと思う。そしてその権力性は受け継がれているのだろう。山本さんは在野だからこそ、大学やアカデミズムの利権団体としての側面を描けるのだと思う。

 

今までに何度も書いてきたことだけれど、僕は心理学科に入り、そして心理カウンセリングが偏重され、前提化されているのに疑問を持った。カウンセリングは対症療法だ。それなのにこの一技法を前提に、社会の歪みを問わず、そしてもっと根本的な別のアプローチを探る思考も感じられなかった。

 

問うべきは大量の自殺者が生まれ、100万人ひきこもりの人たちが自己責任という考えで怠け者や非道徳な人として扱われるような、この社会の歪みなのではないか。また専門家依存ではなく、ピアとして、当事者同士が共に回復していくあり方が模索されるのが妥当ではないのか。

 

心理カウンリングは、他の何よりも有効なアプローチだから今日のように幅をきかせているわけではないと思う。人の回復とは、単に週5日働けなくなったから労働者としてもう一度そこに戻ればいいということではない。実際にカウンセリング偏重やその実際的な効果という面にも疑問をもち、脱心理カウンセリングの模索をはじめた先人たちもいるけれど、その人たちはただちに傍流になり、多くからは相手にされない存在になる。

 

僕はそのように主流からは相手にされないけれど、より実践的であり問題意識の深い探究をしている人たちがいることを知り、自分の知りたいことや考えたいことを深めるためにそういう人たちの周辺に行き、そこでこれだと思える現実の断片をパッチワークをして現れてくるものをみるように、回復とは何か、変化はどのようにおこるのかを探ってきた。

 

古武術研究家の甲野善紀さんのように、実践のなかで学校体育でやられているようなトレーニングより、合理的で実際的なアプローチや学びのあり方が発見されているのに、それらが学校教育における体育を変えるということは何十年たってもおこっていない。

 

なぜ、そうなのか。

 

つまるところ、あるアプローチや思考が妥当なものとして社会に受け取られるためには、そこで力を持っている主流派が認めるということが必要なのだと思う。主流派が認めることは、何か発見されたものや提案されたものが本当に有効かどうか、革新的なものかどうかよりも、もう既に出来上がった自分たちに都合のいい制度に合致するかどうか、つまり自分たちの主導権がより増すかどうかということなのだと思う。

 

学術の「純粋な探究」ではなく、誰が力をもち、業界でイニシアチブを持てるかという主導権争いが実際の世界でおこっていることなのだと思う。たとえそこに属する個々の研究者が良心的であっても、実際の選択の決定権を握っているのはそのシステムを支配している主流派なのであり、主流派は自分の力の拡張を優先している。

 

甲野善紀さんの発見したことが学校で受けいられないのは、旧態依然とした既存の学校制度のあり方自体に疑義をもたらすようなラディカルさを持っているからだと思う。本当に根本的なもの、本当に新しいものなど主流派は欲しくないのであり、自分たちが勢いを増せるような、既存の制度やパラダイムにのっかった「アプリ」が欲しいだけなのだと思う。

 

そしてたとえば製薬会社と個々の医者が自分の勢いを増すために協働したように、お互いの勢力を増すことの結託が社会を動かしているのだろう。医者は製薬会社からの「援助」が欲しく、製薬会社は医者の協力が欲しい。そのような自分たち(だけ)の利益を増すウィンウィンの関係に都合のいいものが「本当のもの・妥当なもの」として選択されるのだと思う。

 

 

だからある人が人の役に立つような革新的なものを発見したり、実践したりしていても、そもそも業界の利益構造を変えるようなことは無視される。システムを支配している主流派は別に表立ってそれらを批判する必要すらないのだと思う。ただ無視すれば、主流でないものは世間であまり相手にされず自然に消えていく。逆にそれが周辺の既存制度や主流派を勢いづけるものであれば、それは積極的に援助され、アイデンティティを確立していく。

 

多分、そういうカラクリなのだと思う。何か新しい発見があっても、権力をもっている主流派がそれをあまり認めなければ、それは10年でも20年でも世間でアイデンティティをもてず、提起されただけにとどまるのだと思う。

 

ならば、本当の納得を得るためには、その主導権争いの場ではなく、自律した環境を用意することが必要なのだと思う。それはゲリラ活動のようなものだと思う。何も保証されないし、助けてくれる人も少ない。でも僕は、こちらのほうがいいと思う。

バイオハザード6 エイダ・ウォンのドッペルゲンガー、カーラ・ラダメスを考察する

3ヶ月前ほどに記事を書いたけれど、まだバイオハザード6が気になっている。


エイダ・ウォンドッペルゲンガーであるカーラ・ラダメスとは何だったのか。もうちょっと追っていきたい。

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ドッペルゲンガーでない、オリジナルのエイダ・ウォンは、ルパン三世でいうならば、峰不二子的なポジションのキャラだ。他の主人公たちとかかわるが、自分の目的を持っていて、本作では主人公たちを助けることも多いが、利用もする。

 

不二子は悪巧みをしても敵にバレてルパンに助けてもらう的なパターンが多いけれど、エイダはむしろ他の主人公たちよりも全体を把握している。危機的な場面でもいつも状況をユーモアをもって皮肉る余裕がある。

 

バイオハザード6では、エイダは自分のドッペルゲンガーに翻弄される羽目になる。エイダのかつての上司デレク・シモンズは、自らの天才性のゆえに孤独であり、その孤独は彼の運命を狂わせていく。エイダに自らと同じ天才性をみたシモンズはエイダに強く惹かれるが、エイダはシモンズの異常性をみてとり、シモンズから離れる。シモンズは、エイダを求めるあまりエイダの遺伝子情報を入手し、それを配下であり、シモンズを崇拝して生物兵器の開発に邁進していたカーラ・ラダメスに転写した。

 

カーラは一度繭になり、記憶が消え、エイダとして生まれ変わったのだが、やがて記憶が蘇り、自分を裏切ったシモンズとシモンズの一族「ファミリー」が支配している世界秩序を破壊しようと企てる。世界の主要都市にバイオテロをおこし、世界中の人全てをゾンビにする計画によって。

 

しかし、カーラはなぜか本物のエイダを自分とシモンズの闘いに巻き込む。シモンズのふりをして、エイダを困難な状況に陥れつつも、何がおこっているのかを把握させていく。その結果として、カーラの計画は一部をのぞき、阻止された。

 

(ちなみに青い服をきているのがカーラで、赤い服をきているのがエイダ。)

 

カーラとエイダが出会ったとき、カーラは既にC-ウイルスを自分に注射しており、知性が崩れていたので、カーラの本当の動機というものはついぞわからないままになった。身体が抹消され、エイダとしてしか評価されなかったカーラは、本物のエイダに自分の行き場の無さをぶつけたかったのか。それともエイダが推測するように、心の奥底で自分の行動を止めて欲しかったのか。

 

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(↑9:15〜自分のドッペルゲンガーが生まれる映像を発見するエイダ。フン、と軽く鼻を鳴らして「わたしにそっくり。レオンが混乱するワケね」と全然動じない。英語では Hmph. Looks just like me. No wonder Leon is confused. 英語でしゃべるエイダのほうのパーソナリティに興味があるので、英語でみている。日本語吹き替えのエイダは、優秀な司令官的な強い女といった感じの自信たっぷりの声で話す。英語のほうは、淡々としていて口調は終始静かだけど、感情の機微の表現は豊かな気がする。映像も、エイダの表情の動きは豊か。嫌な相手と話していても、ふと遊び心をもったりと茶目っ気がある。)

日本語吹き替えはこんな感じ。上の動画と同じシーンは8:55あたりから。

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最初はカーラにそれほど興味がなかったけれど、本物のエイダは表現しないような透徹した残酷さ、冷たい憎しみの表現にだんだんとひきこまれていった。

 

主人公の一人、クリス・レッドフィールドの率いる部隊にC-ウイルスを打ち込むときの笑みを含んだ強い目。終盤でクリスに追い詰められた際、クリスに自分を撃たせようとするかのようにクリスを強く侮蔑しその心をえぐろうとする場面。また世界を滅亡させる計画が進行していることを伝え、絶望する姿を楽しもうとするときでも失わない冷静さとその下にある激情の同居に心をつかまれる。

 

 (↓6:45〜カーラ(自分をエイダだと名乗っている)がクリスの部隊を罠にはめ、C-ウイルスに感染させる場面。クリスは気にかけていた新兵フィンがモンスターになったことに大きな精神的ショックを受け、戦闘不能に。その後記憶喪失となる。)

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カーラほど行き場のない状況にあるものはいない。自分は繭にされていて、カーラとしてはもう殺されているのだし、シモンズのために生物兵器を開発していたのに裏切られ、シモンズはエイダに執着している。あの世から復讐のために蘇ったようなものだ。

 

クリスを挑発して撃たせようとするのも当然だろう。今後生きていても、エイダの偽物として生きるしかないのだ。シモンズが作った世界秩序を破壊しようとしたように、カーラは、シモンズによってエイダとしてかたどられた自分自身の姿に対しても憎しみを持たざるを得なかったのではないだろうか。

 

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↑ クリスたちに追い詰められるカーラだが、逃げようと思えばいくらでも逃げられたのではないかと思う。シモンズをウイルスに感染させ、復讐のメッセージを送ったキューブを屋上の端で眺めていたカーラに対して、ドアを蹴り開けたクリスたちが「エイダ!(クリスたちはカーラをエイダ本人だと思っている。)」と叫ぶ。

 

カーラは遠くに思考を飛ばしているような表情。一瞬、後ろに目をやり現実を確認する。焦りや怯えのような表情は見られない。覚悟は決まっていたのだと思う。やるべきことはやった。クリスたちを待ち、絶望を味わせ、ついでクリスの精神を自分の道連れにでもしようか、ぐらいの感じか。それまでの抑制のきいた態度を捨て、演技的な、軽薄なほどのありようでクリスを挑発し、侮蔑する。それはそれまでほとんど弱さを見せなかったカーラの最後の強がりであったのかもしれない。

 

クリスは叫び声をあげながら銃を撃つが、弾はカーラにではなく、カーラの持っていたC-ウイルスの射出装置を弾き飛ばした。カーラは慌てることもなく、フン、と鼻を鳴らしてクリスを睨みつける。クリスは、自分はカーラに部下を殺されたイドニア以来、カーラの死だけを求めていたと告白する。それを聞いてどこか満足気な様子に見えるカーラ。世界を崩壊させようとする自分の怒りの一部をクリスも体験したと感じたからだろうか。

 

しかし、クリスは憎しみに呑まれていた自分がそこから抜け出たことを次に告げる。「終わったんだ、エイダ(It's over, Ada)」と降伏をうながすクリスに対し、カーラは「その通り。終わったのよ。(You're right. It is.)」と告げる。クリスのoverは、エイダの逃走が終わったという意味だが、overは激情に呑みこまれた自分自身が今そこから抜けたということにも重なっている。

 

一方、カーラのoverは、これ以上のカーラの指示は必要なく主要都市へのミサイルによるバイオテロが始まるので、もはや何もする必要がない、やることは終わっている、あるいはこれまでの世界秩序は終わったというoverだ。すると、カーラが最後にキューブを使っていたのは、その指示だったのかもしれないと思える。


全ての計画を明らかにした直後、シモンズの手配したヘリが現れ、カーラを狙撃する。「やったわね。でもこれはもう誰にも止められない・・。(You got me. Well played. But no one can stop it now...)」カーラは撃たれた胸を押さえながらビルから落下する。激痛に顔をゆがめていたカーラだが、珍しくみせた最後の弱々しい表情は、ただ痛みからだけのものだっただろうか。

 

世界秩序を破滅させるミサイルを駆動させたものの、カーラとしてはもはやこの世界のどこにも居場所がなく、カーラ自身の体に戻ることもできなかった。自分のちいささとその無力感。憎しみを燃やし、世界を破滅させる企みの遂行に没入することによって心の奥底に押さえ込んでいたものが、思いを達成し、そしてもう死ぬという束の間の解放のなかであらわれでたのではないだろうか。

 

さて、エイダはクリスたちとは別にカーラを追っていたが、カーラがシモンズにウイルスの被験者にされる録音を聞き、その直後にカーラを狙撃した銃声と地面に落ちたカーラの体を確認する。唐突に直面した無残なカーラの最後。エイダの顔がしばし硬直するが、それが緩んだとき、エイダは少し泣きそうな表情を浮かべている。


カーラはエイダに自分を知ってもらうことが必要だったのだと思う。だが再会したときには、既にカーラとしての人格はほとんど失われていた。

カーラはエイダのなかのもう一人のエイダなのだと思う。エイダのカーラへの共感や興味は、非常に深かった。その入れ込みようがあったからこそ、最後のカーラの実験室に赴いたエイダが、記録映像でカーラがシモンズと変わらない思考と行動をしていたのをみて、これまでで初めて冷静さを失い、あからさまな怒りと嫌悪の発露に駆られたのだと思う。

 

エイダは途中で共闘したヘレナに対してはドライだった。

 

ヘレナは妹のデボラをシモンズによって感染させられた。デボラはモンスターになってヘレナ、エイダ、レオンを襲うのだが、ヘレナはデボラが自分たちを殺そうとしてもなお、この現実を受け止めることができず、闘うことができなかった。

 

そのときエイダが「まだ泣いているの? そんなことじゃあなたも妹に殺されるわよ。(Don’t tell me you’re still crying. She’s trying to kill you.)」と苦言を呈するのに対して、ヘレナは「言われなくてもわかってる( Don’t you think I know that?)」と返している。(↓1:06:00あたり)

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一方、カーラが墜落死した(実際にはC-ウイルスで生き返る)と思っているときのエイダのセリフも、「カーラ、あなたのやったことを許すことはできないけど、少なくとも今は理解はできる。(I don’t condone your actions Carla, but at least now I understand them.)」だった。

 

カーラはC-ウイルスを自分に注射した後はエイダを殺そうと攻撃してくる。もちろんエイダも容赦しないのだが、エイダはカーラの境遇、そしてその底にあったであろう気持ちに共感している。

 

液体になって襲ってくるカーラに対し、かろうじてドアを閉めて防ぐエイダ。しかし、表情に怯えはない。外のカーラを見ながら、挑発するようにあごをしゃくって言う。「言いたくはないけれど、あなたはよくて安い偽物よ(Hate to break it to you, but you’re nothing but a cheap knockoff, at best.)」

 

エイダの素を感じさせるようなセリフ。エイダの感情は普段は非常に統制がきいていて、表現される時も多くの場合は気の利いたアイロニーに包まれている。なかなかエイダ自身の生の感情は見えにくいのだが、全てクールにとらえているのかと思わせてそうではなく、弱く思われたり、挑戦や挑発されたりすると、目にもの見せてやるよ、という感情が他のキャラクター以上に直ちに立ち上がる。比較的心を許しているレオンに対してはそれがさらに顕著だ。

 

映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」で、主人公は臆病者(チキン)かと言われるとその瞬間に自分を失い、どんな無茶なことであっても相手の挑発を引き受けてしまうのだが、それを思い出させる。もちろんエイダはそんな暴走はしないのだけれど、それまでは同情的だったカーラに対しての、一転して取りつく島もない「安い偽物」発言は、エイダの気の強さやコンプレックスがいつものように整理されてユーモアになる前に出てしまったようにも思える。

 

またエイダは自分に降りかかる危機に対して、むしろ歓迎するようなところがある。死線をくぐることこそが、エイダにとって自分を最大限に解放することであり、管理され「安全」にされた社会にはぶつけるところがない自分をぶつけうることなのではないかと思わされる。

 

エイダをみていると、自分と張り合うものが存在しなかったために心に空虚を抱え、最後に道を踏み外し、うしおと闘うために敵側にまわった『うしおととら』のナガレや、『アカギ』の勝負に際しては自分の命を含めて全てを捨てることを躊躇せず、その姿を目の前にする対戦相手に、こいつは「死にたがり」なのだ、ついていけないと戦慄させる主人公アカギと通じるものを感じる。

 

 

さて、エイダは液体状になったカーラが押し寄せる扉の外に向けていた目線を落とし、自分の内にあるカーラに呼びかけるように「安らかに、カーラ(Rest in peace, Carla.)」と短くつぶやく。

(↓4:00あたり)

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 エイダは最後にカーラが実験を重ねていたネオ・アンブレラの実験室に赴いた。そこでカーラがシモンズと変わらないような残酷さや歪さを発揮しており、自分がシモンズによって被験者にされたと知ったのちすらも、人体実験を重ねて犠牲者を増やしていたことを知る。

 

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エイダが研究室に入ると繭が孵化して何かが生まれようとしていた(3:05ごろ)。エイダは嫌悪に顔を歪めて「もう同情してあげる必要はなさそうね。これで終わりよ。( We’re beyond sympathy at this point. We’re beyond humanity.)」と告げ、湧き上がってきた激情にまかせて研究室を徹底的に破壊し尽くす。奥底で共感を捨てなかったエイダはカーラに裏切られた気持ちになっていたのではないだろうか。

 

結局カーラはシモンズと同じようなただのクズだったと考えることもできる。しかし、エイダに知らせなければ計画は上手くいっていたのに、あえてエイダをここに巻き込んだように、カーラの動機は分裂している。

 

シモンズと同じカーラ。シモンズを憎むカーラ。エイダという他人としてしか生きられなくなったカーラ。そこには別々の、複数人のカーラがいると捉えてみる。すると、カーラはオリジナルのエイダ自身が持っていながらも表現できなかった可能性をエイダの代わりに表現したものであるのかとも思える。

 

もしエイダもまたカーラと同じ状況に巻きこまれていたら。エイダはカーラと違う選択をし得ただろうか。

 

能の舞台では抑圧された亡霊が現れ、そして弔われる。そのように、生きているものは勝ったものであるけれど、同時に生きるために抑圧してきた苦しみ、捨ててきた悲しみを亡霊として背負い、纏ってもいる。カーラの苦しみは、エイダ自身の苦しみとも重なっていたのだと思う。それがカーラによって表現されたことは、エイダ自身の弔いとなっていたのではないだろうか。

6/1南区DIY読書会発表原稿 奥野克己『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』12章

◆概要

ボルネオの狩猟採集民プナン(西プナン)はマレーシア・サラクワ州政府に属し、自動車などの近代的な道具に触れながらも、狩猟採集をベースとした自分たちの文化を維持していた。彼らの子どもは学校も行きたくなければ行かない。結婚はパートナーがいる状態をさすだけで、次々と別のパートナーに変わることも珍しくない。子どもは実子と養子が入り混じる場合が多い。プナンでは、ありがとうに該当する言葉はなく、また反省するという概念がない。

 

◆今回の発表
第12章 ないことの火急なる不穏〜第13章のさわり
・同級生の男の子が性の意識を持ち、女の子に触りはじめたエピソードの紹介。(男性器)が「ない」ことへの態度。

 

 デカルトは自我が認識する主体であることを出発点として、その対象としてものや世界が存在すると考えた。それに対してハイデガーは、人間は普段ものを用いて何かをするのであって、もの自体に特段の注意を払わない。ものが壊れた時などにはじめて、対象としての当のものに注意を向ける。その意味で、ものとは道具的な存在であり、自我をそうした道具連関の中にいる「世界-内-存在」と捉える事で、ハイデガーデカルト的な「主観/客観」図式をひっくり返したとされる。


筆者は同級生の男の子がハイデガー存在論に近づいていたのではないかと想像し、当然のものが「ない」ことは、それまでの安住していた世界を壊し、思考を深めるための、切迫した火急の事態ではないかと指摘する。

 

筆者はインドネシア放浪の際につけていた日記を参照し、都市を離れ、川を上るにつれてトイレの形が次第に簡素化され、なくなっていくことに気づく。人々は川の水を料理や洗濯に使い、トイレは川にしていた。筆者も川の中での排便を経験し、自分の旅が人間の原初のあり方へ時間を遡っていく旅のように感じた。

 

カルペンティエルの小説『失われた足跡』の紹介
未開人の楽器の探索を委ねられた音楽家は愛人をつれジャングルの奥に向かうが途中で愛人にうんざりする。そこに現れた現地の若い女ロサリオと主人公は惹かれ合うようになり、ロサリオは自分のことを<あなたの女>と呼び、主人公と時間を過ごし睦むことに全存在を没入させる。主人公は始原の暮らしで精力と創造力をみなぎらせ作曲活動に没頭するようになるが、作曲のための紙とインクを求めにまた都会に帰る。都会から帰ると始原の地への入り口は川の増水により閉ざされており、主人公は金鉱採掘人から<あなたの女>が別の男の女になり、妊娠していることを伝えられる。

 

筆者は、レヴィ=ストロースを引き合いに出し、始原の地から主人公を隔てるものとは「歴史」であったと指摘する。始原の地は円環から外れ、直線となった時間としての「歴史」を、そしてそれに伴う進歩や発展を拒絶するものである。筆者は人類学者は常にすでに始原の地と現代世界に引き裂かれた存在であると指摘する。始原の地は歴史の外部にある。

 

・不在の三分類 
<物理的な不在>・・・トイレがないなど。

<精神的な不在>・・・反省心が「ない」こと。それに伴ってか、プナンでは精神病理が見当たらない。一方、同じボルネオ島にすむ焼畑民には<ラオラオ>と<マウノ>という精神病理がある。ラオラオは真性の狂気である後者マウノの移行期である。マウノになると突然暴れて人を傷つけたり、毎日石を積み上げたりということをしたりする。
 なぜ精神病理が見当たらないのか。筆者は、プナン社会には心の病を言い表す言葉がなく、独りで思い悩んだり、あれこれ考えあぐねたりする時空間がないと指摘する。また別の誰かがいつも傍にいるし、気にしてくれている。思い悩む暇がないほど、個が集団に溶けこんでいる。朝三時であろうがヒゲイノシシが採れれば強制的にたたき起こされ、食べさされる。

<言語的な不在>
「おはよう」「こんにちは」など交感言語使用がない。感謝をのべるような言葉もほとんどない。プナンには「薬指」の呼び名がない。筆者は日本では鎌倉時代に「薬師指」と呼ばれていたものが江戸時代に「薬指」と呼ばれるようになった説を紹介している。薬を水にとくのにもちいられたのが由来だともいわれる。中国語では、薬指は「無名指(むめいし)」と呼ばれる。

 

プナン語では「水」と「川」の違いはない。ただ洪水にはlenyap(ロニャップ)という語が与えられている。また現在はインドネシア・マレーシア語から道(jalan ジャラン)という言葉を借用しているが、プナンにはもともと「道」という言葉はなかった。藪を切り開いでできるものは「跡」(uban ウバン)であり道ではなかった。「跡」は熱帯雨林のなかですぐに消えていく。プナンにとって「道」はもっぱら木材伐採会社や政府がつくった道のことを指す。

 

プナンは森の民にも関わらず、結構森のなかで迷うらしい。森で迷って木の下で夜を明かして翌朝探しにきたブニという男に見つけられたという事例、バヤとラセンも迷って2日帰らず、狩猟キャンプの人が総出で探索にあたり発見された。プナンは東西南北の概念を持たない。自分の場所は、川の上流と下流(水の流れ)、山の上と下(場所の高低)によって位置どりし、同じくその組み合わせによって特定する。プナンはその後、目標に対して直線的に最短距離を通るように動く。そのため、変化の大きい地形では迷うとみられる。
 

◆感想

薬指に対して呼ぶ名がそもそも無いというのが大変興味深いです。以前もその話題は出ましたが、もう一度。

 

身体教育研究所の稽古で、薬指に集注をして身体を動かすということをやりました。親指や中指などは、意識の直接の制止が効いていて、コントロールはしやすいですが、止まった、機械的な動きをしてしまいます。そして身体の繋がりは切れてしまいがちです。ところが、薬指の感覚が浮かび上がるようにすると、それが変わります。

 

薬指はコントロールが効きにくい指で、かすかに震えているような指です。その感覚が浮かび上がるようにすると、そもそもコントロールしようという気が失せます、コントロールしようとすると動きにくく、もどかしい感じがします。しかし、その感覚を浮かび上がらせると、逆に震える薬指の感覚が全身にうつっていくような感じになりました。薬指に集注すると、身体のつながりは戻り、安定しました。

 

 

意識の自動的な支配をどう打ち消すかが、もともとある自律的な動きをよびもどす方法であると思います。野口裕之さんは、人間のなかで自然と退化した部分とは、意識によって社会化されていない場所であり、その部分こそ身体であるというふうに言われていたように思います。後の部分は、社会化され、構造化されているので、管理統制が効いた軍隊のようなものなのでしょう。

 

薬指に名前をつけない(背景化する)ということは、薬指がそもそももっている、意識的な統制を打ち消す力を最大限に生かす合理的な設定だと思います。プナンの文化上、それが自然にそうなっているということに感銘を受けました。

 

また東西南北がなく、山の位置、川の流れで位置を特定するというのも、言語の支配、意識の支配を打ち消すやり方だと思います。プナンにとって固定化された場所は無いのであって、移動の必要の上でだけ、位置どりや方向性が生まれるのです。

 

「所有しない」ということがここでも徹底されています。所有とは固定化であり、世界を固定化することは自らを固定化することに繋がっているように思います。つまり自分とはこれであるというもの、アイデンティティが決定され、常に侵食される自分のアイデンティティの肯定性を高める終わりなき闘いに投げ込まれるのです。

 

ギリシア神話のプロメテウスは火(意識・言語による認識)をもたらしましたが、岩山に釘付けられ、毎日オオワシに内臓をついばまれます。しかし内臓は毎日復活し、プロメテウスは永遠にその苦痛を味わうのです。プロメテウスの拷問は、世界を固定化し、過去から未来へ一直線に向かう時間を発生させ、歴史を抱え込みながら生きる近代以降の人たちのあり方と相似しているように思えます。

 

そう考えれば、そこで精神病理が生まれるのも当たり前でしょうし、本当にプナンに精神病理が全く無いのかはわかりませんが、見当たらないほど少ないというのも納得がいきます。

 

プナンにとっては、森に少々迷うよりも、世界を規定し、言語的な支配を自分にもたらさないほうが重要なのだと思います。上とか下とか、水の流れとか、その都度、必要なものだけを生み出し、そして無に帰す。それはアマゾンのピダハン族が持ちのいい容器を作る技術はあっても使い捨ての容器しか使用しないことと同じような理屈なのではないかと思います。ピダハンもまた方角や右左を持たず、川に近い方の手、といったような表現をするそうです。

 

 

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さて、最近は自分にどのような「状態」を呼び起こすか、そしてその状態を保持するかということが重要なのではないかなという実感が強まってきました。プナンが薬指に名前つけないのもそれによってある「状態」を維持するためだと思います。つまりこれがいいという「状態」が先にあり、その「状態」を維持するのに適するあり方が自然に作り出されていくのだと思います。

 

13章ができなかったのですが、ちょっとだけさわりをいうと、プナンは野生の動物に対して礼儀を守ることにものすごく気を遣っていて、筆者がある鳥を間違ってニワトリと読んでしまうと、そこにいたプナンに必死でそれは違うと否定されたそうです。狩られてきた野生の鳥獣には、忌み名があり、どうしても呼ばなけれその忌み名で呼ばれます。

 

これもまた、僕は何かの「状態」を呼び起こすものだと思いました。プナンは野生のものに対して、飼育しているものを下に見ています。それはあたかも「聖」と「俗」のようです。聖なるものを俗なるものにたとえたり、そうみなしたりすることは許されません。

 

これは飼い慣らされたもの=意識的にコントロールされるものに対する位置づけをしているのだと僕には思えます。つまり自然のものを操作できるものにするということが禁忌として認識されているのです。現代人が意識の細部まで構造化され支配下におかれていくのに対して、プナンは、いわば体の構造化、精神の構造化を最小限におさえる意思を持っているのだと思えるのです。

 

 

灰谷健次郎『林先生に伝えたいこと』

等持院の整体の稽古の帰りに寄ったリサイクルショップで売られていた林竹二本。

 

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以前、『こどものてつがく ケアと幸せのための対話』のなかで書かれていた短い文章、「日本にも「子どもの哲学」はあった!林先生に伝えたいこと」を読んだけれど、そのタイトルもここからとったのかなと思った。

 

灰谷健次郎のこの本は、1991年に出版されたのだけど、亡くなった林竹二に向かって書かれている。林が亡くなったのは1985年なので、亡くなって5、6年後に書かれたということだろう。灰谷自身が亡くなったのは2006年だ。

 

まだ生きている死者に対しておくられた体裁の文章だけれど、僕がこの本の存在を知り、手にとったときには灰谷自身が亡くなっているので、死んだ人から死んだ人へおくられた文章だ。私はどう生きましょうか、時代は、私の今のあり方は、これでいいのでしょうか、と死者にたずねる人が死者だというのは独特な感慨をもってしまう。

 

その感じは、不登校新聞のインタビューが公表されてすぐ亡くなってしまった常野雄次郎さんに対するものと似ている。常野さんは、実際にはインタビュー後に割とすぐに体調が悪くなり亡くなられるのだが、将来自分がどうなるか、という心配をされていた。

 

そんなことはもちろんわからないのだけれど、もうすぐ亡くなられてしまう方が自分の将来の生活が成り立たないことを心配しているということに僕は強い印象を受けた。いつ来るか、本当に来るかわからない将来のために、現在がどれだけ不安にみちたものになることだろう。もしそれがわかっていたら、死に対する覚悟はまた別の話しであるけれど、少なくともその分の重圧からは常野さんは苦しまずに生きられたかもしれないのではないか、と思った。これはもちろん、仮定ばかりで全く成り立たない空想だけれど。

 

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人というより、自分に対しても思っていたのだ。あとしばらく生きるつもりで、どうやったら惨めな境遇で死んでいかないように「人生設計」できるのかみたいな、そんな強迫ばかりが頭に浮かんでいるような状態で年月を過ごし、実際はそれと関係なく早く死ぬとき、その間の苦しみは何だったのか、と。

 

死者にとっては、もうこの世がどうなろうが、自分がどうだったのか、なんて関係ないことなのではないかと思うのだ。僕は灰谷健二郎のこの文章に対し、あなたが背負っていたあるべき姿に苦しむだけの意味はあったの?と感じていたのだった。死んだ今になって、もしこの自分が書いたこの文章をみたら、そんなことに苦しんでいてよかったと思うのかな、と。

 

彼は人に対して、社会に対して強い理想があった。そうなるべきだと思っていたと思う。林竹二もそうだと思う。だけれど、その社会は、この資本主義社会のなかで人々が個々のケージに入って孤立し、その狭い空間にいる間だけ王様になるかわりに思考と本来の責任性を奪われ、自分の運命を知らない、誰かのための食用うさぎになっている社会だ。灰谷や林はそこまで意識はしていない。あくまで社会や学校制度の基本的善性を信じた上で彼らの考え方は成り立っている。

 

うさぎの島 (ほるぷ海外秀作絵本)

うさぎの島 (ほるぷ海外秀作絵本)

 

 

彼らは人間がどうなったら人間らしくなるかを追究した。「よくなる」というところにおいて、人間をみたと思う。しかし、それでは足りないと僕は思う。この今の社会の腐敗をみて、幼稚園建設、依存症者回復施設に反対して住民運動をし、「人に迷惑をかけず一人で死ね」とバッシングをおくる普通の人々、無難なことだけに反応し、波風を立てず、抑圧を含んだ既存のシステムにが変わらずにいるままでいれるような、お手本になる優等生をみて大量リツイートする普通の人々の姿をみて思う。林たちは人間の業ともいうべき部分、より深い無秩序性という部分を不問にしていたのだと。「よくする」ことを頑張っていけば、それらはクリアされると思っていたのだと思う。

 

ここは荒野だということを認めずにいること。その認識は抑圧されていたのだと思う。ここは荒野であり、報われず、なお人間として生きるということがどういうことなのか、自分として生きることどういうことなのか。それが問われることなのだと思う。

 

しかし、本は買ってよかったと思う。女子高生コンクリート詰め殺人事件の被告とのやりとりが掲載されている。幾つか抜き書きしたい。

 

小学三年生の村井安子さんの詩「チューインガム一つ」。

この詩は女子高生コンクリート詰め殺人事件の被告、Aに読まれ、Aはそこから自分のあり方を見つめ直しはじめたという。Aは事件当時18歳だった。判決はAに懲役17年を命じている。

 

チューインガム一つ

 

せんせい おこらんとって

せんせい おこらんとってね

わたし ものすごくわるいことした

 

わたし おみせやさんnの

チューインガムとってん

一年生の子とふたりで

チューインガムとってしもてん

すぐ みつかってしもた

きっと かみさんが

おばさんにしらせたんや

わたし ものもいわれへん

からだが おもちゃみたいに

カタカタふるえるねん

 

わたしが一年生の子に

「とり」いうてん

一年生の子が

「あんたもとり」いうたけど

わたしは見つかったらいややから

いややいうた

 

一年生の子がとった

 

でも わたしがわるい

その子の百ばいも千ばいもわるい

わるい

わるい

わるい

わたしがわるい

かあちゃん

みつからへんとおもとったのに

やっぱり すぐ みつかった

あんなこわいおかあちゃんのかお

見たことない

あんなかなしそうなおかあちゃんのかお見たことない

しぬくらいたたかれて

「こんな子 うちの子とちがう 出ていき」

かあちゃんはなきながら

そないいうねん

 

わたし ひとりで出ていってん

いつでもいくこうえんにいったら

よその国へいったみたいな気がしたよ せんせい

どこかへ いってしまお とおもた

でも なんぼあるいても

どこへもいくとこあらへん

なんぼ かんがえても

あしばっかりふるえて

なんにも かんがえられへん

おそうに うちにかえって

さかなみたいにおかあちゃんにあやまってん

けど おかあちゃん

わたしのかおを見て ないてばかりいる

わたしは どうして

あんなわるいことしてんやろ

 

もう二日もたっているのに

かあちゃん

まだ さみしそうにないている

せんせい どないしよう

 

 

林 私にはソクラテスから学んだ、教育は反駁と浄化だという考えがあるのですが、あの詩が生まれるプロセスのなかには、そのことの証があるように思うのです。

 

 

 

灰谷 あの子の場合、すぐれた作文をたくさん書くとか、すぐれた詩を書くという子で

も何でもなくて、編み物をひとりでしているのが好きだという、友達も少ない、どっちかというと陰気な子だったんです。

林 可能性というものはそういうものなんでしょう。

 可能性というのはまだ決まった形のないもの、規定される以前の無形のものなんです。ここにこういうものがあるなということがわかったら、可能性じゃないわけです。

 要するにそれがある形をとったときに初めて、あっ、こういうものがあった、ということがわかる。ものすごく深いところに、目のつかないようなところにあるものなんで、これが引き出されたとき、あっ、こんなものがあったんだ、ということになる。それを引き出す努力みたいなものを離れては、可能性は実はないわけです。

 

  

(林)「私の人間の授業を受けて、もっともふかく授業にはいりこみ、集中して学んでいるのは、社会的にもっとも苛酷な条件下で労働し生きることを強いられている部落出身者や在日朝鮮人の子弟であり、そしてほぼこれと重なり合うことだが、学校教育の中では、小学校中学校の生活でもっとも無残な位置に立たされつづけてきた生徒たちである。」

 

 

「チューインガム一つ」という詩のなかに人間の本質的な自己中心性とそれによる疎外が現れていると思う。人間の本質は善だと簡単に決めてしまうことは、見たくないことを見ないようにする動機にもとづいていないだろうか。この社会は見たくないことを見ないようにするかたちで設計された社会ではないだろうか。

 

強く抑圧され、痛みを持っている人たちは、見なくてすむ人たちの代わりに矛盾を引き受ける。その人たちは変わりうると思う。でもそれは少人数であって、大きくなりすぎた社会を変えるには十分でないだろうけれど、荒野のなかで、ちいさく人間が人間である場所を一時的に出現させることは可能なのだと思う。

 

あと灰谷さんの映像があったので貼っておきます。

www2.nhk.or.jp

 

人の苦しみっていうのを自らの苦しみにするという、そういう人間が人間のなかでもっとも素晴らしい人間ではないかと灰谷さんはいう。沖縄の人が人の苦しみを自分のちむぐりさ「肝苦しさ」と表現することも紹介されている。

 

そういえばのび太がしずかと結婚するときに、しずかのお父さんがしずかにのび太は人の喜びを自分の喜びとし、人の苦しみを自分の苦しみとすることができる人間で、それが何よりも人として大事なことなのだ、というシーンがあったように記憶している。

 

ジャイ子のび太と結婚せずに幸せになったのだっただろうか。上の結婚エピソードはいいとして、ジャイ子の扱いやジャイ子より美しく優しく理想的なしずかと結婚することが幸せというマジョリティ意識はどうだったのかは気になる。)

 

人の状態が自分に伝染するのは、これまでにもなんども言及してきたイリイチの躍動性(aliveness)と関わるところ。自分の奥底にある痛みを殻を厚くすることによって抑圧する人は、この状態の伝染がおきにくい。自分の殻を自分だと認識し、殻の能力を価値とする近代の自意識中心主義、人間中心主義と、それ以前のいかにお互いが影響を受けあう状態にするかが重要であり、たぶん倫理であったという話しをまた再確認する。

 

のび太の無能性は、近代的な個人のスペック重視の価値に対する反逆であろうし、本来的に影響を受ける体をもつ彼が近代的な個室(他者の影響を隔絶する壁・牢獄)でそれを発揮できない疎外状態にある(それはこの時代の多くの人たちの状況だ)のをドラえもんの存在が転換する。彼は道具をもって世界に出る。押し入れはもちろん彼岸の世界との境界であり、彼岸からあの世のものがこちらにやってくる入り口であるだろう。

『ノンちゃん雲に乗る』をもう少し

『ノンちゃん雲に乗る』で、雲の世界は死者たちの世界として描かれていると思った。この世界で望んでいたことを実現する世界が雲の世界のようだった。

 

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そういえば、荒井由実の「ひこうき雲」も子どもの魂が空にのぼっていくという歌だったなと思いだした。ネットを検索してみると、小学校の同級生が筋ジストロフィーで、高校生の時、彼が亡くなったということ。

 


ひこうき雲 - 荒井由実(松任谷由実)

 

ひこうき雲〜ユーミンの才能を世に知らしめるきっかけとなった“稀代の名曲”の誕生エピソード〜|TAP the DAY|TAP the POP

 

戦争で多くの人が死んだ。子どもたちも死んだ。ノンちゃんの物語は死んでいったものたちを慰める物語なのだと思う。水たまりに映る雲の世界に落ちて、そして戻ってきたノンちゃんは、死んだ子どもたちの体験の代弁者だ。

 

死んだ子どもたちは、あちらの世界ではやさしいおじいさんと出会い、のびのびとしたままに受け止められて生きている。こちらの世界のつまらない制約などに縛られることなく。子どもたちを失って残された大人たちはその話しを聞いて慰められただろう。

 

子どもたちは欺瞞を抱え込む大人になる前に死んだのかもしれない。最後におじいさんはノンちゃんにうまい嘘をつけと試練を与える。ノンちゃんは嘘をつけなかった。次に誰に嘘をついてはダメだと教えられたのかと問われる。そしてノンちゃんは誰に言われたのでもなく、自分で嘘をつくのが嫌だと思っていたのだと気づく。

 

おじいさんは、えんま帳を持っていたからえんまということになるのだろうか。ノンちゃんの家族や経験の全てを聞いたのだから、やっていることはえんまそのものだ。

 

もし言われるままに嘘をついたら、ノンちゃんは帰れなかったのかもしれない。が、多分最後に悪役のようなふりをしたえんまは、ノンちゃんにノンちゃん自身も気づいていなかった純粋さがあることを教えたのだろうという気がする。もともと、ノンちゃんを試してどうなるか、ことの顛末はわかっていて。

 

赤毛のアン』で、アンがある程度大きくなった時に、マリラからなぜアンが前のように喋らなくなったのかとたずねられる場面があった。アンは、大切なことは人に言わずに自分のなかにそっととっておくほうがいいように思うようなったとこたえていたように思う。

 

大人になるとは、「現実」と「現実でないこと」を分けられるようになり、前者を本当のこと、価値のあること、意味のあることだと信じ、後者を実際には価値のない絵空事だと信じるようになることではないかと思う。

 

だがその「現実」の世界というのは、言葉というまがい物のフィルムを通したあとの、干からびて死んだ世界なのだと思う。アンもすでに決まってしまった過去のリアリティを自分に寄せつけることにどれだけ抵抗したことだろうか。

 

僕は、今は言えると思う。嘘なのは言葉を通して見えるその「現実」の世界なのだと。嘘なのは、干からびていて、全てのものの価値も自分がなんであるかも決定されてしまった世界なのだと。子どもたちはそれに耐えきれない。だからその秘密、その時のリアリティをそのままに心の奥にそっと置いておくことは、子どもたちが生き残る手段であり、人が自然としての倫理をもつすべでもあるのだと思う。

 

気持ちに嘘のない純粋なノンちゃんの姿は、戦時下の抑圧のなかで人々が本来はそうありたかった姿であるだろう。いや、そう望む前に抑圧され、忘れてしまっていた姿なのかもしれない。それをこの物語が思い出させてくれたのではないかと思う。

 

わんわん泣きながら、この世界の裏、もう一つの世界への入り口であるひょうたん池に落ちてしまったノンちゃんのストーリーは、「となりのトトロ」のメイの話しともほぼ同じだなと気づく。メイもお姉さんであるさつきに今までにない強い拒絶をされ、繋がりを失ってしまった。池には小さな女の子の靴が浮かんでいた。

 

表と裏。表の世界で叶わなかったことが裏の世界では叶う。裏の世界から見れば、表の世界は本当の世界だろうか。裏の世界が本当で、表の世界が幻なのではないだろうか。両者は補いあい、存在している。

 

読者は表の世界にいる。しかし裏の世界のことを本当は知っている。それは抑圧されており、意識上にはのぼらない。しかし、身体はそれを感じている。表の世界だけが「現実」として認識できる。

 

ノンちゃんが生きて戻ってくるのは、この物語という表の世界。長吉が死んで、お兄さんが戻ってきたこの表の物語の世界。

 

その世界があるということは、もう一つの世界がある。ノンちゃんがひょうたん池に落ちて帰ってこない世界。戦時中に多くの人が「現実」として体験した世界だ。人はあの世とこの世の境界のようなところに行って、表と裏の世界をひっくり返そうとする。それが石井桃子さんが書いたこの物語なのだと思う。

 

はてしない物語』を読んでいた男の子が、物語の主人公がのぞいた鏡に自分自身がうつっていて物語のなかの主人公アトレイユとともに驚いたように、物語とは裏の世界を映すひょうたん池だ。

 

ノンちゃんが生きている物語が書かれているということは、ノンちゃんは死んだのだ。そして長吉のかわりにお兄さんが死んで星になっている。トトロのメイも死んでしまっている。お母さんの病気は回復せずお母さんは死んでしまっている。たぶん、それが人々における「現実」だ。もしそうでなければ、物語は求められ、書かれる必要がないのだから。

 

物語のハッピーエンドが白々しいと思うのは、影の世界の話しを最後の最後で、筆者が光の世界の話しに反転しているからだと思う。だからそういうときは、複眼的にみたらいいと思う。反転されていない影の世界、書かれていない裏の世界を本当として受け取ればいい。そして表に出ている世界をその裏の世界のとむらいだととらえてみる。すると、光の世界の軽さは消えて、報われない切なる願いが感じられるから。

 

 

 

 

はてしない物語 (エンデの傑作ファンタジー)

はてしない物語 (エンデの傑作ファンタジー)

 

 

 

 

石井桃子『ノンちゃん雲に乗る』 もう一つの世界

『人は、人を浴びて人になる』の著者が子どもの頃読んでいた本が、『赤毛のアン』と『ノンちゃん雲に乗る』だった。

 

ノンちゃん雲に乗る (福音館創作童話シリーズ)

ノンちゃん雲に乗る (福音館創作童話シリーズ)

 

 

赤毛のアン』を読んだので、こちらも読もうと結構前から図書館に予約していたのだけれど、来るのが今頃になった。思っていたより文量があるので少し驚いた。

 

正直、『赤毛のアン』に比べると、入っていきにくかったけれど、そもそも僕は相性のあう本のほうが珍しくて、結構頑張って読まないとどの本も読めない。

 

気持ちが動いたのは、ノンちゃんが自分が兄にいじめられるのが馬鹿にされていたからじゃないと知ったところ、兄のタケシの犬が15歳で死んで一緒に亡骸を埋めるところ、ノンちゃんと雲の国で一緒だった長吉が出征して帰らなかったところ。

 

この物語の終わり方はちょっと変わっていて、8歳だったノンちゃんの話しのあと、15年後のノンちゃんとその周りの話しになる。

 

お父さんとお母さんはいるけれど、前景化せず、セリフもない。

 

兄タケシはサン・テグジュペリのように飛行機乗りになって、言っていることも詩人のようになっている。

 

「にいさんたちに想像できる飛行機の上昇限度って、どれくらいのもの?」

「さあ・・・だから、僕は無限っていいたいんだよ。星になるまでさ。」

とにいさんは笑ってこたえました。

 けれど、かなしい戦争はかなしいおわりをつげ、星にならなかった兄さんはふたたび家に帰ってきました。

 

長吉はタケシの代わりに死んだんじゃないかなと思う。

 

ノンちゃんが行った雲の国は死の国だったのだろう。お母さんはその話しを聞くのを嫌がり、ノンちゃんは主治医の田村先生にしか話さなかった。飛行機乗りになった兄が雲の話しをしても話さなかった。

 

兄の話しは、練習飛行中に雲から出られなくなって苦労したというものと、今日のような晴れた日は空は青くなくて黒くて、死んだら自分は星になるんだなあと思ったということと、羊のようなかわいい雲が嬉々として遊びたわむれているなかで飛行していたということ。

 

雲の雲は生と死、この世とあの世の境界にあるものなのだろう。

 

犬のエスは、その15年後の2、3年前に死んだということ。

にいさんはしあわせだった子ども時代の半分をその穴にほうむったのです、という描写がある。

 

物語は読者に衝撃を与えるような、直接的な出来事はおこさない。戦争も表面上は批判していない。

 

ノンちゃんは、いつか自分のような娘ができて、雲の話しをその娘にするという想像をする。

 

この物語は戦争がおこっているときに書かれたものということで、その当時は出版社に相手にされず、戦後に出版されたとのこと。

 

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戦争で人々の心は抑圧されたのだろうと思う。それはエスの埋葬だったり、ノンちゃんが自分の体験をまだ来ない次世代がきてようやく伝えられるという夢を見たりするところにも現れているように思う。

 

その頃のことは、まだ許されず、記憶ごと埋められたままなのだと思う。その記憶は、雲の上という、この世界と対になるもう一つの世界のこととして描かれることでとむらわれる。

 

星の王子さまサン・テグジュペリがレオン・ヴェルトを慰めるために書かれたという。慰めるとは生きている人に対してであっても、慰霊のことなのだと思う。

 

赤毛のアン』もまた、モンゴメリが本来そうあるべきだった環境を作品として自らに提供するものだったように、そこには埋められた悲しみがある。

 

ノンちゃんが雲の上のおじいさんに話したように、多くの人たちは自分の気持ちを正直に話したかっただろう。しかし、それは雲の上の人のように別の世界にいる人にでもなければ現実的にはなし得ないことだったのだろう。

 

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雲は死んだ人の魂でできている。その魂は、この世でできなかったことを雲となって実現している。