降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

【催しもの案内】4/12(金) 19時30〜 ワークショップ わたしの「時間」を知る

カフェコモンズでの「時間」のワークショップです。
初めての方も、参加したことがある方も参加できます。

 

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わたしの「時間」が動いている、またはわたしの「時間」が動いていたと感じられたときはどんな時だったでしょうか。

 

この社会で、時間という言葉は、多くの場合、自分を縛ったり、動き方を決めるものになっているかと思います。

 

一方、私の「時間」が動いていたと思われるときには、外側から自分を支配する時間への意識は薄れていて、自分の内側の「時間」が勝手に動いていたのではないでしょうか。

 

自分が生きている意味はどれだけあるかを明に暗に問われる社会では、自分が日々の自分を意識的にコントロールし、対処しなければ生きていけないと思わされてしまいがちです。

 

しかし、実際には1秒1分が意識されるような時間、意識的な強制、求められる意味が後ろにひいている時に、自分の「時間」は動きだしていくようです。

 

時計で計測される前の「時間」は、花が咲いたり、海の満ち引きがあったり、太陽が沈んだり、という実際の変化のプロセスだったと思います。

 

その時、それぞれの変化のプロセスが、それぞれの一区切りであり、一段落でした。その時代の「時間」は変化のプロセスそのものだったのです。そこに単一の時間はなく、プロセスそのものとしての「時間」がそれぞれにありました。

 

単一の時間に奪われたそれぞれのプロセス、それぞれの「時間」を取り戻すとき、自分のなかの自律的なものが動きだします。幸いなことに、プロセスとしての本来の「時間」を取り戻すことに、訓練や達成はいらないようです。

 

なぜなら「時間」は自意識が作ったものではなく、自律的に存在するものであり、本来的には自律的に動き展開する力をもっているからです。

 

社会から求められる意味ややるべきことを一旦脇に置いて、私の「時間」がどんなものだったのかを思い出すことは、「時間」の動きを呼びもどします。

 

また自分だけでなく、別の人の「時間」がどう動いたのかを聞くことも有効で、その話しは自分の「時間」に直接響いてきます。「時間」に自分をチューニングする感じをとらえてみましょう。


ワークショップ わたしの「時間」を知る

日時:4月12日(金)19時30分

場所:カフェコモンズ (大阪府高槻市富田町1-13-1)

※カンパでまかないも食べられます。

夏苅郁子『人は、人を浴びて人になる』

精神科医かつ希死念慮(自殺未遂2回)や摂食障害の当事者でもあった夏苅郁子さんの当事者本。発行年をみると2017年なので当事者研究も(知る人には)だいぶ認知されてきてその流れや時代の呼応なのかなと思いました。

 

dokushojin.com

 

 

赤裸々な自分の姿、そして結果的に自分に回復をもたらした様々な出会いとプロセスが詳細に書かれているので、回復のヒントを求める人にとっても貴重な知見が多く埋まっている本ではないかと思います。

 

 

あと、赤裸々な姿を自分で書くということは、決別なのだなと思いました。筆者は書く段階では、1人の当事者として自分と同じ苦しみをもつ人たちにとって自分の経験してきたことのシェアが重要であることを確信していたと思いますが、それだけではなくてこれまで恥じ、隠してきた自分と決別する強い動機に突き動かされていたように思います。

 

ああだこうだと考える筆者の自意識をこえて、何かに突き動かされている感じ、自分の力をこえた力強いものが動いているような印象を持ちました。

 

印象に残ったところの抜き書きをしていきます。

 

「かめちゃん」というペンネームの友人から、「夏苅さんは、家族・当事者・精神科医トライアスロンをやってきたんだね」と言われたことがある。

「かめちゃん」は、東吾失調症の当事者で病歴30年以上になる人だ。

 そんなに長く病気と闘ってきた人から見ても、私の人生はトライアスロンのように過酷に見えるのだろうか・・・。

 母と私、そして父の人生を振り返って見たい。

 

 

「過去を清算できると語れる。語ることは治療になる治療が進むと、また過去を清算できる」この良いサイクルが私に起こり、私はたくましくなっていった。

 

 

(しかし、あらためて自分という独立した存在などいないなと思いました。夏苅さんの祖父が金融業で家族も信用せず1人でお金を数えるのが楽しみだったとか、父の「俺は、男芸者にはなりたくない」というセリフなど読むに、人は文脈のなかに生まれ、その続きを生きているとしか僕には思えないです。ただ投げ込まれた文脈にどう応答するかという余地は残されているということなのかと。)

 

 

そんな暗い子供時代の私の唯一の楽しみは、読書とお絵かきだった。

 子供の頃の私の愛読書は、『赤毛のアン』(村岡花子訳)と、石井桃子作『ノンちゃん雲に乗る』(福音館)だった。

 『赤毛のアン』は、カナダのモンゴメリという作家が書いたもので、孤児院で育った少女アンの青春物語だ。私はアンの心情に自分の気持ちを重ねあわせ、アンがいてくれると思っただけで寂しさがずいぶん和らいだ。

 アンが「孤独な子供」の代表ならば、もう一方の『ノンちゃん雲に乘る』に登場する一家は「幸せな家庭」の象徴だった。ぞんぶんにお母さんに甘えているノンちゃんは、私が「なりたい自分」そのものだった。

 

 

 ノンちゃんという女の子がひょうたん池に落ち、池に映った寝椅子の形をした雲に住むおじいさんに助けられる。そして、寝椅子雲に腰掛けながらおじいさんに身の上話をするというお話だ。

 

 主人公のノンちゃん・・・後に医師になる道を選ぶノンちゃんは、級長になる暗い優等生だった。出来の悪い兄やクラスメートを見下すようなところがあったノンちゃんは、池に落ちたことから「寝椅子雲のおじいさん」に出会い、自分の家族や友達の話を聞いてもらううちに少しずつ変わっていく。

 やがて・・・・おじいさんにたくさんのお話をし終わったころ、ノンちゃんは目を覚ます。池から救出されて家の布団に寝かされていたのだ。そして、誰も寝椅子雲のおじいさんの話は信じてくれなかった。

 ラストには、戦争の始まりを予感させる文章が並んでいる。ノンちゃんの生きた時代設定は、第二次世界大戦前の日本である。

 

 

 

 

 自分で想像した寝椅子雲の絵を表紙に描いたノートに、私はおじいさんやノンちゃんに話したいことを綴った。

「おじいさんへ。私のお母さんんはノンちゃんのお母さんに負けないくらい美人で優しくて、ノンちゃんのお母さんより、ずっと洋裁が上手です。私の飼っているコロはエスよりずっとかわいいです」

おじいさんが、よしよしと聞いてくれているように思った。

「今日、学校で百人一首大会がありました。私の声が通るからって、先生が私を読み手にしてくれました」「今日は転校生が来ました。2階まで雪が積もる所から来た子です」

 母が吸うタバコの煙でもうもうとした家で、私は学校であったこと、嬉しかったことをせっせとノートに書き綴った。

 

 

やがて、「私のお父さんは何日も家に帰って来ない。ノンちゃんのお父さんは毎日帰ってくるのに、おかしいなぁ」そう考えるようになった。そんなある日のこと、「きっと今日は帰ってくる」・・・そう信じて夜になった。玄関に近く足音がするたびに期待に胸をドキドキさせたが、その足音は父のものではなく隣の家に消えていった。

 そんながっかりした夜を何ヶ月も何年も繰り返すうちに、母は別人になってしまった。

 私はもう、おじいさんと話したいとは思わなくなった。

 ノンちゃんの本を押し入れにしまいこみ、寝椅子雲の絵のノートも書かなくなった。学校から帰ると、飼い犬のコロに話しかけるようになった。そのうち『赤毛のアン』のほうが好きだと思うようになった。アンは、お母さんの顔さえ知らない子だったから。

 その後、大人になるまでノンちゃんの本は開かれることはなかったが、本当はもっとおじいさんに話を聞いて欲しいと思っていたのだ。

 

 

 

 コロとの友情は、5年しか続かなかった。

 父が、九州に転勤になったのだ。平(ヒラ)の会社員だった父は、飛行機ではなく北海道から九州まで、鉄道で2泊3日で移動した。とても、犬まで連れていける状況ではなかった。

 父にしてみれば、母を連れていくだけで精一杯だったのだと思う。引越しの最中に幽霊のように呆然と立ち尽くしている母を見て、私もコロを連れて行きたいとは言えなかった。

 荷物を全部トラックに積み込むと、父は私に「コロを捨ててこい」と言った。父が冷たい人のように思われてしまいそうだが、当時はそんな時代だったのだ。覚悟はしていたが、哀しくてどうしようもなかった。

 お小遣いで買っておいたソーセージをポケットに入れて、コロに「散歩に行こう!」と声をかけた。コロは喜んで、飛び跳ねながら私に付いてきた。

 いつもと全く違う道をいくつもいくつも通った曲がり道で、私はソーセージを遠くに放り投げ、そのまま曲がり角を路地に入って、後ろを見ずに走って帰ってきた。

 家に着くと、父が母を車に乗せて待っていた。コロが戻ってくるかもしれない・・・と期待しながら走り出した車から後ろをずっと見ていたが、コロの姿はなかった。

 もしコロが家に戻れたとしても、家は空っぽで誰もいない。

 野良犬になってでも、コロはたくましく生き延びてくれると思いたかった。

 

 

当事者が実際に自分におこっていたことを書くことは、その人の考えや意見以上の意味を持っているとあらためて感じました。本を読むのがなかなか大変なのに、この本は珍しく3日ぐらいで読めました。抜き書きももうちょっとしようかと思っていましたが、返却期限が過ぎたのでこの辺で。

 

様々な立場の当事者が同じ立場の当事者の状況を変えるヒントを持っていると思います。精神科医でなおかつ当事者という夏苅さんの事例は、近い境遇の人たちにとってのシェアになると思います。

 

一点ああそうなんだなあと思ったのは、夏苅さんは普通の人の幸せというものに憧れていて、いわゆるいいパートナーと結婚して子どもに恵まれて、今に至る感じで、その幸せを繰り返し語られます。

 

憧れは確かにわかるのですが、その達成志向には疑問は持たなかったんだなとは思いました。冒頭のかめちゃんのセリフ、夏苅さんはトライアスロンをしてきたというところは、夏苅さんも書いていたように過酷という意味もあるけれど、もっと別の含意がありそうな気がしました。

 

かめちゃんは夏苅さんのこれまでを、自然災害(嵐とか)や事故に喩えたのではなくて、トライアスロンという競技として喩えています。そこには自分でわざわざ選んで、勝ち抜いてきたんだねという意味も含まれていそうだなとも思えます。

 

精神科医を続けられた、いいパートナーに巡り会えた、いい子どもに恵まれた、と何かを手放したところの先の救いではなく、散々な困難を抱えながらも回復し、かつ獲得してきた成功の物語としてこの本は書かれていると思います。 

【催し案内】4月〜6月 自給農法を学ぶ

11月に獣害(イノシシ・鹿)よけの柵をはり、タマネギの定植をした畑で、その後のケアと自給農法を学ぶ場をもうけます。自給農法は雑草を有効利用し、無農薬・無化学肥料で省労力で自家用作物をつくることを軸とした農法です。

 

https://www.instagram.com/p/BvmMKnWAipE/

 

日時:(雨天の場合は中止)
4月21日(日)10時 〜16時 自給農法を学ぶ1 作物のケアと畝立て タマネギのケア
5月12日(日)10時〜16時 自給農法を学ぶ2 雑草の活用と空気入れ、土寄せ
6月9日(日)10時〜16時 自給農法を学ぶ3 タマネギ収穫 夏の畑へ

 

持ち物:軍手・飲み物・昼食・汚れてもいい靴・服
最寄り駅:京都精華大前
最寄りのトイレ(コンビニ)
セブンイレブン上賀茂二軒茶屋店 https://goo.gl/maps/qW7e9wJXxCs

申し込み:yoneda422@gmail.com

※軍手はどのようなものでも構いません、土が手や爪に入るのを気にされるなら、綿のものを二重にしたり、ゴムのものでもいいかもしれません。
ショウワグローブ https://www.askul.co.jp/p/1230355/

※前日に雨などあった場合、長靴やレインシューズがあれば万全かと思います。
※多少靴の中に泥が入っても問題ないなら、汚れてもいいスニーカー、軽登山靴のようなものでもいいかもしれません。

腐敗の進行と大勢への信仰

日本第一党京都市の小学校での演説会をするとのこと。

 

昨日、原発事故で皆が避難するなか、1人捨てられた動物たちを集め、世話をする人の映画をみました。2011年以降、大勢は変わったのかと思うと、変わってないか、むしろ自分の「普通の暮らし」にとどまるため、見たくないことを見ないようにするために抑圧を強めたのかもしれないとも思いました。

 


ナオトひとりっきり予告編

 

大勢が変わらないと社会は変わらない(大勢が変わったら自分も変われる)からできるだけ大勢に効果的にアプローチするやり方を考えるのが良いというのもあるでしょうが、大勢の動員を前提とする仕組みや思考が今ほころびつつもあるのではないかとも思います。

 

大勢がみてくれないと意味がない、認めてくれないと意味がない、ああ、また国や社会は正しくやってくれなかったという思考から抜けて、残ったものにすがろうとするのはやめて、ここは荒野なのだから、自分たちが小さく自分たちに必要なものを作っていくということが求められているのかなと思います。

 

それは一元的なシステムを作るために革命をおこすことではなく、暮らしを二重化して、社会の腐敗が続いても、自分たちが自分たちとして生きられる環境をそれぞれ自前で構成していくことではないかと思います。

 

誰かにお任せできる公共など嘘なのだと思っています。それを嘘だと認めると自分がゼロからやらなければいけない、それが嫌だというのもわかりますが、それぞれが自律的になり、そのうえで協働していくメッシュネットワーク化をすることで、中心だけが権力をもつ仕組みから逸脱していけるのではないでしょうか。

 

人を勇気づけ、閉じる価値観、感じられる世界を更新していくためには、自分が直接世界に働きかけて、その応答をもらうことの繰り返しが必要であるようです。これが良いと言われたことに優等生的にみんなが従順に従うことによって社会が変わるのではなく、個々人が世界と直接に応答関係を持つことでようやく主体が回復していくのだと思います。

 

 

 

3/26 南区DIY読書会 発表原稿 「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと」第六章〜

2019/3/26 南区DIY研究室読書会

奥野克己『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』

 

概要:ボルネオの狩猟採集民プナン(西プナン)はマレーシア・サラクワ州政府に属し、自動車などの近代的な道具に触れながらも、狩猟採集をベースとした自分たちの文化を維持していた。彼らの子どもは学校も行きたくなければ行かない。結婚はパートナーがいる状態をさすだけで、次々と別のパートナーに変わることも珍しくない。子どもは実子と養子が入り混じる場合が多い。プナンでは、ありがとうに該当する言葉はなく、また反省するという概念がない。

 

◆今回の発表
第六章、第七章から発表します。プナンの性や結婚のあり方について。また私的所有を認めない「共有主義」について。所有という壁をもうけないことは、精神性にどういう影響をもたらしているのか、など。

 

◆第六章
 伝達機能を持たないが、一体感を生み出すような社会的な機能を持つ話し言葉を用いることを交感言語使用とよぶ。プナンには、「おはよう」「こんにちは」「元気ですか」「さようなら」といった定型句がなく、交感言語使用がほとんどない。
 →筆者は人々が一緒に行動し、密に接して暮らしていると一体感を生むためにかわす言葉はほとんど必要ないのではないかと推測している。

 

 男の子たちは第二次性徴の直前まで性器を露出することに抵抗を覚えることはない。対して女の子たちは、3、4歳の頃から衣服を身につける。少女たちは大人と同じように、衣服をつけたまま水浴びをする。衣服を身につけるように仕向けるのは、おとなたちであり、とりわけ母親や女の親の親族である。
 →筆者は、おとなの女たちが男たちの性的な視線から女の子たちを守ろうとしているのかもしれないと推測している。

 

 プナンの男女は、第二次性徴を迎えるとほどなくして、性愛の相手を探し始める。男があらかじめ約束しておいた女の蚊帳の中に夜中に忍び込むことを含む通い婚、夜這いはポーカカップ(pekakap)と呼ばれる。プナンの男の子たちは10歳ごろになるまでは両親と同じ蚊帳で寝る。その後、少年たちだけの蚊帳に移動して寝るようになる。

 

 女の家族は、夜這いの事実を知っているか、気づいている。男が夜這いを行う夜の前の昼間に女の住まいにやって来て、家族と談笑した後に、女がその夜、当の男が夜這いに来ることを半ば公然と承諾するからである。男を迎えることを承諾した女と同じ蚊帳に寝ている姉妹たちは遠慮して、その夜は父母や既に結婚している兄弟姉妹の蚊帳にもぐりこむ。

 

 プナンは男女ともにマスターベーションをしない。同性愛がおこなわれている証拠はない。また、アナルセックス、集団セックス、レイプがおこなわれている証拠もない。夢精には負の意味が与えられていて、夢精したり、セックスの夢をみたときは狩猟に行っても獲物が獲れなかった理、何か良くないことがおこると考えられている。

 

 プナンにおいて結婚とは、男女の性愛関係が維持・継承されている期間のことであり、性愛関係を解くことが離婚である。その間、パートナーは排他的に相手と性的関係を持つ権利がある。結婚に際して周りの焼畑民の慣習をまねて贈り物がおくられることはないわけではないが、結婚式が行われることは稀である。

 

 子どもができること、または養子が迎えられることで「結婚」が印づけられる。父母になった男女は、子どもの性別を基準にして「女の子のお父さん」「女の子のお母さん」「男の子のお父さん」「男の子のお母さん」と互いをよびあう。このことは1組の男女が公に対して「結婚」状態にあることを示すことになる。

 

 プナンは、一般に、性成熟直後から生涯を閉じるまでの間、第二いとこを超えたインセストの範囲で、1人以上の異性と「結婚」する。その「結婚」は、ある時間をパートナー同士で共有し、その後互いに「飽きた」ら、次のパートナーに乗り換えるという類のものである。つまり共時的には一夫一婦であるが、通時的にはパートナーをどんどん替えていくというのが、プナンの「結婚」に他ならない。

 

 プナンには貸し借りの概念がない。貸してというふうに言われたとしてもそれはあげたと同然の意味であり、お金を貸しても返ってこない。

 

 大庭健によれば、所有とは、他者による承認を前提とし、「私」であることと「排他的」であることの関係に関わる人間的な概念である。また私たちは、自分が生きている・自分がいるという「存在」の事実を、自分「の」生命・能力等々をもっている、というかたちで「所有」の事実に回収してしまう思考回路からいまだ自由ではない。

 

 プナン社会では、他者および共同体が、何らかの財の個による排他的所有を承認しないのだと言える。言い換えれば、財を個人が所有するということを互いに主張し認め合うことがない。そこでは財を、排他的に、個人の意のままに使うという考え方それ自体が存在しない。

 

 狩猟から農耕へ 倫理観

中沢新一 すべての財産は、物質性をもたない「無」の領域から「有」の世界に、贈り物としてやってくる。だから、その出現も、喪失も、神と人の間のデリケートな関係に左右された。すべてが変化しやすく繊細で、壊れやすく、安定した財産は少ないかわりに、人間には自然に対する深い倫理観が成長できた。
 農業は「死への恐れ」を反映してい流。繊細な倫理の関係によらなければ、気まぐれな贈与の霊は、豊かな富を与えることを拒否するかもしれないし、財産は貯蔵のきくかたちを持っていない。それに恐れをいだく人々のなかから、農業は発達したのだ。

 

 

 プナンは幼少時から個人的な所有欲を制限される。子どもが与えられた食べものを独り占めしようとすると親に注意される。

 

 興味深いのは、分け与える対象が、たんにものだけではないという点である。プナンは、すべての人物に、あらゆる機械に参画することを認める。共有されることは、モノだけではない。年老いていても狩りについて行きたいと希望すればそれは認められ、分配も平等に行われる。能力の多寡や仕事量の多さと分配の量は関係がない。

 

 筆者が帰国する際、プナンの人々は誰もが寂しい、悲しい、と口々にいうようになる。筆者はそうした振る舞いにプナン特有の情動のあり方の妙を感じるという。酔いどれも子どももみんなが一斉に寂しい、悲しいと呟き出す。感情もまた共有されている。

 

 精神や感情は人間だけでなく動物にもあるというプナンの考え方を踏まえれば、彼らは動物に深い部分で共鳴し、死にゆく動物の思いに気づいて動物を殺害しているとも考えられる。また情愛は、男女のそれであれ、親子や養子縁組した親子のものだれ、共有されている。慈しみや憎しみなどの感情もまたつねに周囲に伝染し、共同所有されるとも言えると筆者はいう。

 

 プナンの共有主義によって、プナン社会には格差がない。また競合と選抜の原理をへて個人がその努力によって物質的・精神的幸せを獲得するということもないため、個人の持つ向上心や努力などもない。

 

◆感想
 文化的な共有主義によって、プナンは個人が蓄財するということはありません。それが向上心という言葉で表現される将来への強迫性も生まないということは興味深いです。想像するに、子どもだけの王国のようなところに行けば、自分のものなど全部取られてしまって、しばらくするとまあいいやとなりそうな気がします。将来への強迫というのが、人の精神にどれだけの負担をかけているのかと思います。

 もう一つ興味深かったのは、感情の共有ということです。釜ヶ崎で労働者の人たちが稼いだ自分のお金をすべてあげてしまうのが当然という感覚を思い出しました。その他、イリイチのアライブネスとサバイバルの話しも思いだしました。

 

以下、ブログからの引用です。

 

kurahate22.hatenablog.com

 
 片山博文氏は、イリイチの生命観批判の考えについて次のように述べています。

 

 彼は、制度的管理の対象と しての「生命」を「生き生きとしていること aliveness ではなく生存 survival に力点を置い ている」概念であると指摘する。これに対して、西洋におけるソクラテス以前、およびそれ 以後の哲学的伝統では、自然とは「生きていること―一つの生命 a life ではなく、生きてい ること alive―であり、一つの母体ないしは子宮のようなもの」であると考えられてきた。ところが近代とともに自然はそうした生気を失い、「自然の死」がもたらされる。彼によれば、 近代におけるこの「自然の死」が、「生命なるものが管理されるべき対象として、また人工知能のように製造されることさえ可能な対象として現れるような文化的空間」を生み出したのである。」 片山博文「ヴァンダナ・シヴァのコモンズ論における生命の概念について」https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20180408082209.pdf?id=ART0010482472

 

「いのち」という言葉は残念ながらイリイチが批判するように、本来の躍動性(aliveness)を本質とする「いのち」ではなく、自意識としての主体が所有するものとしての生存(survival)のイメージが既に強くついてしまっているので、「いのち」を使うと誤解のほうが大きくなってしまうという危惧があり、僕は「時間」という言葉を使っています。

 

 aliveness(躍動性)の重要性は、survival(生存)としての個体に閉じたものではなく、周りの他者や環境に伝わるものであるところだと考えます。alivenessは個に閉じることはできないのです。そして個人だけでなく意識的な主体が所有することはできないと考えます。(集団であっても管理所有できると考えると簡単に抑圧的な全体主義になるでしょう。)

 

 時計がなかったころは、時間は太陽や月、星の動きや潮の満ち引き、動植物の変化などだったのではと思います。それは実態が伴う、なにかが実際に変化していくプロセスでした。その時、時間は変化するそれぞれのものの数だけあったと思います。

 

 そしてそれらは単にそれぞれに閉じた動きをしていたのではなく、それらそれぞれの「時間」が生き生きと動くこと、変化することによって、周りのものにalivenessを与えており、そのalivenessの重なりあい、響きあいとして一個の生きものは存在するのだと思います。

 

 閉じたsurvivalとして完結した生命というのは、虚偽なのであって、様々な他者が作り出す「時間」=生き生きとした躍動性=alivenessが重なり響きあった状態が生命の本質であるということなのだと思います。生き生きさの発生は、自己責任論的に一人で管理所有することもできませんし、集団が命令することもできません。ただそれぞれの「時間」が生き生きと動きうる状態を互いに模索することができるばかりでしょう。

 

 その生命観に移行した時、動物福祉は「人間がいい仕組み、妥当な仕組みを作り動物に提供してあげる」ような自意識中心主義のものではなく、生き生きとしたalivenessをもらうことを他者や環境に依存している存在であるそれぞれの個体、完結して閉じていない個体が、お互いのalivenessを回復させ、高めるために必要だからということになるでしょう。

 人間を含めた個々の個体は、他者や環境からもらう生き生きとしたaliveness、それぞれのものが変化していくプロセスである「時間」という生きた響きを与えあい、もらいあうものとして存在しているのだと思います。

 

 ここにおいて、倫理というものが、何に対してあるものなのかがはっきりしないでしょうか。倫理は閉じた生存(suravival)に対してあるのではなく、それぞれの存在がその響きに依存しあう、本来の意味である「いのち」であり、alivenessをもたらす生きたプロセス、今このとき動いている変化のプロセスである「時間」に対してあるものなのだと思います。

自分の仮説 言葉の世界の位置づけ 先行知と後知恵

西川勝さんの星の王子さま読書会で、色々なものをもらっています。

 

僕にとっては、西川さんは物事がすぐ欺瞞に塗り固められ、その欺瞞に何も感じなくなってしまう世界に亀裂をいれてくれている人です。その亀裂から出る響いてくるものは、しばらく自分を正気にとどめ、ものを感じ、見る状態にしてくれます。自分の見える牢獄のような風景を変えうるしばしの機会は、そのような時にもらえるのだと思っています。

 

その西川さんが、「先行知」と「後知恵」について話していて、その区分は以後の自分のなかにはっきりと根づきました。先行知とは、未来を予測する知であり、どのような働きかけをすればどのような結果がでるかということの知識です。福祉や医療に従事する専門家は、膨大な先行知をもって支援する人にあたります。教科書に載っていることは、先行知だけです。

 

一方、後知恵とは、先に知ることができない、いわば失敗を通して学ぶ知です。僕にとってはそれが人間をして人間にしていく知なのだと思えます。しかし、社会は先行知をより重要視し、先行知で世界を充していこうとしています。しかし、先行知に充たされた世界とは、同時にその知を過信し、傲慢で充たされていくような世界ではないでしょうか。

 

どのような再現性をもっていたとしても、先行知とは過去なのです。先行知は働きかけるものを思うように変えるための知であるともいえるでしょう。しかし、相手を変える知とは、そのことによって自分を変えない知にもなるのではないでしょうか。

 

先行知と一体化することによって得られる確かさと誤りのなさへの安住は、そこから出ることを恐れさせ、目の前の生きているものに対する応答性を奪わないでしょうか。応答性ではなく、「責任」が追及されるこの社会で。

 

思うに「責任」はつまるところ、誰かが無責任になるためにあるのではないかなと思います。自動車がある以上確率の問題で自動車に殺される人がいます。それに対する責任は自動車を生産する業界が担うのではなく、車にのっていた人が担うのです。自らの利益のために車を生産し、世界に広めた人たちの責任は存在せず、その無責任の分が余計に個別の運転者の罪として加算され、帳尻を合わされるのです。

 

一方、ニュージーランドの銃規制のように、銃は、使う人だけの責任ではなく、その流通や存在自体が問題だとされる向きもあります。ここにおいても社会が人に過度に理性的なものを求めるとき、誰かが自分の放棄した分の責任をかぶせようとしているのではないかと思えます。銃規制とは、その責任の配分をもとに戻すこと、つまり自己責任を押しつける社会に応答性を一部回復させているということなのかなと思います。

 

さて、先行知というものはまた別のアイデアもくれました。先行知はギリシア神話の神、プロメテウスが象徴するものであるそうです。wikipediaによると、プロメテウスは、"pro"(先に、前に)+"mētheus"(考える者)、という意味が合わさった名前とのこと。

 

プロメテウスは人間びいき?のようで、大きな牛を殺して、栄養のある肉や内臓を皮で包んで見えないようにし、一方骨は脂身で包んで美味しそうに見せて、ゼウスに選ばせ、ゼウスはまんまと骨のほうを選んで、食い出のあるほうが人間に残されました。ゼウスは怒って人間から火を奪い、その後人間は肉や内臓のように死ねばすぐ腐ってなくなるようになった、と。

 

なかなか示唆深いですが、すぐ腐る前は死体になるけれど腐らなかったのですかね。そもそも死ななかったのか? 別のサイトでは骨が神々の不死を保証するようになったというふうに記述されていたり。骨を選んだから不死になったって、じゃあもともとは神は死んでいたのかとまた同じような疑問が出ましたが、まあ、あまり前後とか関係ない世界なのかもですね。

プロメテウス(ギリシャ神話) - アニヲタWiki(仮) - アットウィキ

 

神には普遍性や永遠性があり、人間は限定的なものであり、一時的なものであるという感じで、属性が別れていくところなのですかね。そして火が与えられると。

 

火が文明や技術の象徴であるということなのですが、思うに火というのは言葉による意識の芽生えなのかなと思えます。能楽師の安田登さんが心は、言語によって生まれ、また心の特性とは未来と過去とをもつことだと指摘されています。

 

言葉をもつこととは、先行知(未来)を獲得することなのかなと思えます。しかし、言葉を獲得することの代償は高くつきました。プロメテウスにとっては岩山に貼り付けられ、毎日内臓をワシについばまれる拷問を受けることになり、パンドラが箱を開けたせいであらゆる災厄がとき離たれました。

あわてて閉めた箱には希望だけが残ったとのことでしたが、箱のなかに残ったということは封じこめられていて使用不可なのか、それとも希望は人間のものになったのか、どちらなんですかね。まあ、後者でしょうか。希望とは未来に対してもつもので、あらゆる災厄に対して、その絶望要素を相殺するものなのかなと思いました。あるいは言葉の世界では、希望をもつしか生きるあり方がないということとか。

 

人間は言葉で認識された世界のなかで生きていると思います。それは同時に世界との一体性を剥奪され、意味に存在が強迫される世界であり、意味という屈辱、拷問が不可避的に自分に烙印されるということでもあるのではないかと思っています。

 

楽園(無条件の肯定の世界)から追放されている言葉の世界では、肯定的な意味を得ないと耐えられないぐらいの苦しみを負わされているということなのではないかと思います。

 

しかし言葉によって認識する世界ではそうでしかあり得ないですが、言葉による認識が立ち上がる前には、世界との一体性があり、意味から解放された世界を生きているのではと思うのです。認識した瞬間、自分は世界との一体性から切り離され、そこから逃げられず、くだらない卑小な存在として対象化され、しかもあらゆる災厄を認識して怯える、という。

 

岩山に貼り付けられること、毎日オオワシに内臓をついばまれること、あらゆる災厄の蔓延がおこること、など、言葉をもつことがどういうことなのかが、あらゆるメタファーが総動員されて表現されているのではないかなと思うのですが、それを解釈すると、上に書いたようなことになるのではないかなと思うのです。

 

アニメの「君の名は」で、主人公たちは決して相手を同じ世界にいるものとしては認識できません。全ての痕跡は消去され、ただかつてそうであったような感覚の名残りだけしか感じることができません。

 

全ての人は言葉の世界という修羅の世界に入れられて、楽園を忘れているのですが、楽園は名残りの感覚としては存在しています。故郷は遠くにありて思うもの、というようにメタファーとしては言葉の前の世界を感じることができるのだと思うのです。

 

しかし、一旦言葉を立ち上げてしまうと、世界が立ち上がり、そのなかで自分が規定され、さらに自分にどのような肯定性が付与されるかを求めないではいられない、となってしまうのではないかというのが僕の仮説です。

 

括弧のつかない時間が意識されるとき、それは言葉が立ち上がり自分を支配している時であり、プロセスとしての「時間」は止まっています。逆に時間が意識されない状態になるとプロセスとしての「時間」が動きだし、閉じ込められていた意味の世界の風景、メリーゴーランドの風景が変わります。

 

言葉は死物なので、自己更新しないのです。よって言葉によって構成されている認識の世界もまた死物で「時間」が止まっています。つまり変わらないのです。その止まった「時間」の世界に自意識としての自分は投げ込まれています。

 

そもそも言葉の世界にはいらなければ、認識の更新などしなくていいのですが、言葉の世界に入った以上は、更新しないのは終わりのない拷問をされているのと同じになってしまうのだと思います。犬や猫には自然に学習する以上の「学び」は必要ないのに比べて、人間に「学び」が必要なのはこのためです。

 

止まった「時間」のなかに閉じ込められているということが、先行知をもつということの代償なのですね。一方後知恵(ギリシャ神話ではエピメテウス:プロメテウスの弟)というのは、この先行知の世界の穴から落ち、別の世界を体験することで、この先行知の世界の欠陥を引き受けるものになるのかなと思います。そこに勝利はなく、終わりのない負けがあるのですが、同時にそこで先行知の苦しみからは抜けていく存在になっていけるのかなと思います。

話しの場で 探究と殻との距離感

話しの場について数人で話しました。

 

なぜ人が、社会の実際がこうなっているのかを考えてきて、やがて人が生きてくるなかで不可避的に、自動的に作られる殻があるからだと思うようになりました。

 

殻は自分の感じる根源的な痛みを感じなくさせるために形成されていくようです。何かができるようになったり、ステータスを高くしたり、強い高揚や刺激を常時補うことで、その痛みはだんだんと感じなくすることができます。

 

痛みを感じる身体をもったわたしが、殻を厚くするにつれ、わたしは痛みを忘れていくことができます。あるいはとても遠くへ押しやったままにとどめられるようになります。それが「普通」になります。

 

こういうと、それは特殊な人の話しだと思われます。

 

「私は私に気づいている。」「私は(本気になれば・条件が整えば)本当の私を生きられる。」「私(という自意識)は自分を変えていける。」

 

そのように思うことが、既に今の殻を守るための自動的発想なのに。「自分はどうなっているかな?」「自分がそうだと思っていないふうになっているかもしれないな?」と自分を探ってみる前に直ちに否定し、そんなことはないと「訂正」せずにはいられない。

 

僕は殻の優位は圧倒的なのだと認識していて(それを絶対否定したい人がたくさんいるのもわかるのですが。)、自分はそれが自分の発想や判断だと思っても、ほとんどは殻が殻を守るための自動的反応に過ぎないのだと捉えています。

 

バランス感覚がある感じの人はしゃべり方も、自分は今こう思っているけれど、自分が自分を騙している場合もあるし、というスタンスをとっているように思うのです。自分自身の考えも本当にそうかなと吟味しながら、観察しながら話しているように見受けられます。

 

お互い、殻の反応が9割で、それを前提として、残りの1割ぐらいがどうやったら出てくるかなあというぐらいのリアリティでやれたら、場も和むし、焦点あてるところにキュッと焦点がいきやすいように思うのですが。

 

ただ探究すること、それがどんなメカニズムで動いているのかを実際に探るということを、話しの場では一緒にやりたいと思っています。

 

自分が話しているときは、今自分がそう思っているけれど、感じていることと今言ってることが本当に一致しているか、今、実際に感じていることをトレースし直す気持ちで話す感じはどうかなと思います。

 

探究しながら手触りを確かめながら話している人の話しは、まとまり云々ではなく面白いと感じるのですが、それはそこで新しいことがおこっていて、何かの変容がおこっているからではないかなと思っています。

 

そうすると、その話しの場は、論の展開の場というよりも、自分の思い込みを崩して、そこからみえる新しい風景を楽しむ場というおもむきをもつのかなと思います。