降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

当事者研究 無防備になること

水島広子さんのツイートをみて無防備という概念を得た。

AHはアティテューディナル・ヒーリングの略。キリスト教の影響を受けた精神訓みたいなもの?だろうか。

 

 


過去にあった惨めな思いが浮かび上がってくる時がある。あの時、なぜ無抵抗だったのか。相手に死ぬほどの報復をするイメージに続く。観察すると、相手が憎い前に屈辱的な位置に置かれた自分が許せないのだ。

思い出すのも、暴力的な連想をするのも止められない、どうしようもないと思っていたが、その想起がおこった瞬間に無防備になるということを試みている。嵐を嵐のままに。行動化するのではなく、それが自分の精神に影響を与えるままに、自分を壊すなら壊すままにしたらどうなるだろう。心境的には、キリスト教の「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」という感じだ。

 

嫌な想起がおこった時、抵抗しているとも思ってもいなかったが、既に抵抗しているのだ。体を緊張させ、やり過ごす。または何がしかのリアクションで逸らそうとしている。が、その自動的な抵抗に意識をいれ、やめる。それがするままにさせる。レット・イット・ビー。

 


Beatles - Let It Be [1970]


抵抗(強い感情反応)がおこる→気づいたら抵抗をとる(無防備になる)→抵抗がおこる→気づいたら抵抗をとる、という繰り返しをやってみてどうなるかしばらくみてみたい。

 

失われた約束

科学主義が行き着くせば「生きものというものは存在しない」というふうになるだろうという指摘。なるほどと思う。資本主義と馴染みがいいし。倫理を押しこめていける。

 

だが生命と非生命には本質的な違いがないとしたときにこそ、では倫理とは何かということが純粋に問えるようにも思える。倫理が大事にしようとしていたものは何だったのか。剥き出しの暴力からお互いを守るということだったのか。

 

もし記憶を自由に操作できるようになれば、生きる意味はなくなるだろう。どのような記憶を持たされたのか自分では誰もわからなくなる。権力者であっても、そういう記憶を持たされているだけなのかもしれないという可能性は否定できないだろう。

 

マトリックスの世界のように、どのような体験でも自由に与えられるようになったら、「現実の世界」においても、今さら特にやることはなくなってしまうだろう。現実とは、単なる電気信号とかの話しになってしまう。もともと現実そのものを見ることはできず、解釈されて変換されたものを感じて生きているのだから。

 

 

 

そうしたらマンガのほうのナウシカを作った人類のように、自分たちを体を持たずにいつでも取り出せる記憶として保存するかもしれない。特にわざわざやることはないのだから。誰かが将来取り出してくれるということだけ信じられればいいのだ。生きることは、どんな周到なケアがされていても、ものすごい苦しみを負うリスクもある。そんなリスクを負う必要があるだろうか、と考えないだろうか。

 

風の谷のナウシカ 1 (アニメージュコミックスワイド判)

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そう思うと、意味とは苦しみに対する代償としてあるものではないかと思えてくる。今現在のどうしようもない苦しさ、無自覚であっても底にもつ苦しさがあって、しかしそれを補え、あるいは補った以上のことを与えられるという約束(と思えるもの)が意味なのではないだろうか。意味を失ったとは、約束を失ったということなのだ。

状態と型

自我の確立、「人格」の成熟といったことが目指すべきところであり、そこに足りない自分の自我を自分で切磋琢磨していくのが人間の在り方なのか。「日本人」は自我の確立が足らないから、もっと確立しなければ、なのか。

 

中動態の話しとか、身体教育研究所の稽古やそこでの身体観に触れていると別のように考えられるのではないかとも思う。

 

今読んでいた文章で、操作できる自然、太陽の恵みなど感謝しうる自然ではなく、人の力を無力にする自然、圏外のものとしての自然があり、その圏外としての自然の前に佇むとき、詫び、錆びというような人間としての不完全さが実感されるとあった。

 

圏外の前に佇むときにもたらされる状態は、一種の集注状態であり、整体においても最終的に身体が「整う」のは圏外を前にして自分がしっかり立っているかだという趣旨のくだりがあり、面白いなと思った。

 

国分功一郎さんの『中動態の世界』が話題になったけれど、意思する主体による直接操作や、作り上げられ確立された人格によってではなく、何かの結果として生まれる「状態」自体が物事を遂行するし、確固たる自我を確立するというより、その「状態」を自分に招きいれ、身を置くあり方を身につけることへの意識の移行が個人の閉塞状態を展開するように思う。そのことは、アルコールや薬物依存者の当事者たちの知見の蓄積からも確認されつつある。

 

ヨガのポーズがそれぞれ別個の感情体験や経験を呼び起こすものと聞いたことがあったが、整体の稽古でも型というのは、ある「状態」をひきおこすものだ。その時の自分は動き方や感じることが変わる。

 

インプロ(即興演劇)指導者の今井純さんから聞いた話しで、仮面を作ってそれをプレイヤーに着けると、性格が変わり、食べ物の好みすら変わったという。

 

自閉症だった私へ』の著者ドナ・ウィリアムズも複数の人格を演じるために、特定の食物の大量摂取かあえての欠乏状態を作っていたというようなことを書いていたと記憶しているのだが、何かの構造(その内部でおこる関係性の相互作用のあり方を決定する枠)をつくるによってもたらされる「状態」は人格という水準まで影響するようだ。

 

自閉症だったわたしへ (新潮文庫)

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その内部でおこる関係性の相互作用のあり方を決定する枠、つまりある特定の自律的なまとまりと自律的な動きをもった作用(エージェンシー)状態をそこに生み出す構造がある。

 

そう考えていくと、西洋的な自我の確立とは自分の内部に強固な殻をつくることであり、それを型として用いていると考えられるのではないだろうか。その殻はしかし、融通性が効かないところがあり、他者とのいい意味での同調をはねのけるものでもある。

 

一方、自我の確立が弱くて、場の空気に流される「日本人」とは、自分の内部ではなく、自分の外部に狙った構造や型をつくることによって状態を切り替え、律しているということなのではないか。それは、「人格」すら変わるような、自律的な動きやまとまりをもたらす「状態」を利用している。

 

だが、その「状態」をもたらすための型なのだということが、明治以後の西洋化による意図的な破壊によって、忘れられてしまった。もはやどの型がどの「状態」を導くのかが忘れられてしまった。しかも「状態」をもたらす型の伝承は、言語による意識的なものではなかったので、防ぐこともできなかった。

 

ごく一部で受け継がれているにせよ、一般の教育におけるような場では「状態」を導くための型を習得するのではなく、自分をコントロール可能な強固な自我を内部に確立するという方式だ。もちろん、この構造自体が型ともいえるのだが、型が結果としてどんな「状態」を導くかは理解されないまま(あるいは操作主体は理解していて権威や決められた枠組みに対して従う訓練をしているのかもしれないが)放置されている。

 

なんだかんだいっても自我の確立(内部の殻の確立)が弱ければダメなんだということではなくて、「状態」をつくる「型」という視点とその伝承が奪われていることが問題なのではないだろうか。もしある「状態」をつくる型を知り、それを切り替えできるなら、自分の内部に強固な型を作らなくても自律的であることができるのでは。自室で勉強できなくても図書館なら勉強できるように。

 

この「型」は、目に見えない構造にもあてはまる。たとえば、人間は閉じ込められた状況では自然と弱くなり影響を受けやすくなる。学校に9年間「行かなければならない」という型は、実質閉じこめる(ここから逃げることができないと思わされる)ことだと思うのだが、こうしてよびおこされた「状態」による影響が内部で固まって内部の型をつくるまで浸透し、力に対してより従順な人間が作られるとか。

 

それならばどうしていくか。一つ一つの型とそれがもたらす「状態」を発見し、それを生きた人と人の間で記憶し、増やしていくという何年かかるかわからない地道な作業をしていくしかないのかもしれない。ただざっくりとした型とそれがもたらす「状態」は知られている。それらの型を自分たちに取り戻していく。

本の作成番外 構成の試行

本の中身の構成の仕方、パソコンやスマホではなく小さいノートに書いてみることにした。

 

PCやスマホは、顔の前に目がついている肉食獣的な視野になる感じかも。距離感や立体性をよりはっきり認識するかわりに視野は限定される。一方顔の側面に目がついている草食獣は餌のほうは逃げないし、やってくる危険をとにかく早く察知し、避ければいい。対象の細かい動きより、遠くの怪しげなものを先に察知するほうが重要だ。

小さいノートにボールペンで書くのは、比較して草食獣的な視野になる。PCが狭い範囲に集中させることによって、少し強い集中、強い緊張が現れるのに対し、ノートのほうは割と広いブランクのなかに遊ぶ感じがあって、よくも悪くもPCのような強い集中や緊張が弱くなり、そのかわり気楽な思いつきが増えたり、周辺のことがみえやすい。ノートは自分の中のものをピンスポット的ではなく、広い視界で大雑把に出せる。出したものを今回ここで整理しようと思う。

 

整体の稽古に通いはじめて、こういう中動態的な状態をより意識するようになっている。重要なことは、意識で頑張って「やる」ことではなく、何かをすることや媒体の違いなどが、どのような状態を導くのかを体感し、必要な自律的状態の導き方を工夫することだ。意識は切り替え役にすぎず、実際に物事を遂行しているのは状態だ。状態が「やる」のだ。自意識は「自分がやらなばならない」などと「背負う」ことも苦手だし、自意識でやろうとすると負担ばかり多くなってパフォーマンスは落ちる。

 

 

 

ーーーーー

■本の構成(試案) 仮タイトル 「ワーク・イン・プログレス 〜生きることと自意識の扱いの当事者研究〜」

・この本で何を書いているか

 →どうしたら回復しながら生きていけるのか

・自分自身の経緯

・より細かいこと 

 →変容がおこる場 強迫(有用性や評価)の打ち消し

 →自意識とは何か 

 →自意識の位置づけと扱い方

 →強迫を打ち消す人間観・世界観・生きることの見方

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最後の方はまだスッキリできていないがだんだんとやっていく。

次に項目ごとに内容を箇条書きに。

 

・この本で何を書いているか。

生きづらいもの、抑圧されているもの、そういったものがどのように生きて回復していくことができるのか。自分が自分を実験台にして、確かめてきたことを当事者研究としてまとめたものが本書だ。

エネルギーを大きく失っているなら、エネルギーを備蓄していく。エネルギーを減らすものから離れる。そして自分の内にあるものがエネルギーを減らしているのなら、その状態を更新して変えていく。外的環境をよい方向に変えると内的環境は影響を受け、また外的環境に働きかける力を得る基盤が与えられる。この循環をどうやって自分に引き寄せていくか。誰でもわかっていることだが、もしある程度の自由が自分にあったとしても、やってみると簡単にはいかず、停滞する。その行き詰まりがどうしておこるのか、それに対してどう考え、どういうアプローチの軸をもつのが妥当なのか。

 

ごく単純にいえば、回復していくとは気持ちの通りをよくしていくことだと思う。何も考えなくても身体に血液がめぐっているように、精神状態に影響をおよぼす自律的な気のめぐりがある。この気のめぐりの通路にある障害物を取り除いていくと、気のめぐりは一層よくなる。人は気のめぐりを活性化させるように行動する。休んだり、積極的に楽しいことをしたりもそうだろう。だが、それだけでは限界がある。生きづらさは変わらない。なぜなら人は大人になる過程で気のめぐりを阻害するものを自分自身のなかに内在化させるからだ。

 

僕のみるところ、子どものころの環境が良かったか悪かったかという以前にもっと根源的に気のめぐりを阻害するものがある。それは言葉だ。言葉によって意味づけられた世界のなかに人間はいて、その感じ方や考え方は言葉によって規定している。言葉によって作られた世界の見え方、感じ方は固定的で機械的あり、更新されるまでずっと同じように体験され、感じられる。あたかも永久にメリーゴーランドに乗っているように人は倦み、張りを失い、同時に現実に置いていかれ、ひがんでいく。この拷問のようなメリーゴーランド状態を更新していくのが、回復であり、学びであるといえるだろう。

 

更新がおこるまで、終わりのないメリーゴーランドに乗っている状態が、言葉をもち、自意識を持った人間の状態だ。普段の生活で、なぜこの人は全然妥当でない考えにいつまでも固執し、世界の見方を改めることをしないかと思うことがあるだろう。

 

PCやスマホは、OS(オペレーションシステム)がなければ動かないし、使えない。だがOSは常に更新されなければ、本体を生かすことはできず元々の潜在性を殺してしまう。このOSにあたるのが自意識だ。一般には、人の心は生きていると思われているかもしれないが、どのようなものであれ、今の更新されていないOSを通してしか、物事は認識できない。見えていること、そしてその結果感じられていることは、古いOSを通して位置づけされた仮想現実なのだ。仮想現実は大昔に言葉の定着した時代から既に生まれている。

人間も生きものなのだから、OSとしての自意識がなくても、生きていける仕組みになっているのだが、あえてこの認識プログラムをいれてバーチャルな世界を頭に描くことによって、他の生きものができない逸脱をして、より強い力を得てきた。だがこのOSは、もともと利用するために取り入れたのだが、今やOSがもとの生きものの体を奪い取り、主人公になっている。ところが奪い取りという統制支配によって、体が自然や時間の流れと切り離されているので、自意識が何かをやろうとすると、ガタガタの硬直的動きや過去に学習された動きしかできない。あたかもできの悪いロボットのように。

 

そこで人間は、この言葉で組み上げられた自意識というOSの統制支配を一時的に停止させ、打ち消して自然との応答性や時間の流れと自分を接続する技術も高めてきた。周到な準備がされ、命を危険にさらし人間の深い内部を揺さぶって人の状態を変える昔の成人儀礼などはその代表例だ。

 

また自意識の支配が打ち消されるような高い集中状態を導くと、人は環境との応答性を取り戻し、自意識の力をこえたパフォーマンスを発揮する。ブルースリーという武術家でもある俳優が「考えるな、感じろ」というセリフを残しているが、それも高い集中による自意識の強制支配状態、体に戒厳令をしかれたような状態を打ち消すことを意図していると思われる。

 

 

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通常の状態、つまり自意識の強制支配状態を打ち消すということが、自分の感じ方やエネルギーの減少、生きづらい状態を移行させていくことに重要な役割を果たす。これから書いていくことは、自意識の扱いについてであり、自意識の感じ方を規定している言葉の扱いについてだといえる。

 

なお、言葉の扱いとは、ここでは礼儀正しい言葉にするとか、そういうことではなくて、言葉はそもそも仮想のリアリティ(現実味)を発生させて人に何かを感じさせたり、そうだと思わせて動かしてしまうものなので、余計な感じ方や停滞をもたらすように組み上がっている言葉、たとえば人間観や世界観などだが、そこからどう停滞を引き起こすような強迫を取り除き組み上げるか、ということを意味している。

 

 

・自分自身の経緯

フラッシュバックの苦痛を軽減するために、どのように世界を捉えれば自己否定的な影響を受けなくて済むのかを考え始めた。心理学科に入り、だがそこに疑問を持ち、この社会のなかでどう自分として回復しながら生きていくのかを知ろうと思い、心理以外の分野に目を向けるようになった。四国八十八か所めぐりをしたり、催しを企画したり、糸川勉さんから作物作りを通した自給の思想を学ぶ。本番でありながら同時に試行である「ワーク・イン・プログレス」を生きることが人の生きる力を活性化させる。自分のこれまでの経緯を通して、この本で書かれたことの「フィールドワーク」の部分をここで書く。

 

・人が変容する空間

安心安全信頼尊厳が提供される場では、人のなかに自分を更新する自律的で回復的な蠢動が生まれてくる。そのような空間はどのように作られるのか。このような空間は実はあらん限りの肯定的要素を盛り込んでいるわけではなく、強迫の打ち消しとしてある。重要なことは、ある人がもつ強迫を打ち消す効果がそこにあったかどうかということで、その意味では場づくりした人の意図が破綻した時に、ある人にとっては内在化した強迫の打ち消しに足るものが生まれるということもありうる。何かが打ち消し足り得たかどうかの詳細は、変化がおこったということによって事後的にしかわからない。打ち消しとは強迫的な意味の打ち消しであり、それはつまり自意識が強迫を受けていることによる防衛発動状態、北風(強迫)に対して服を着込んでいるような状態を解除することであると思われる。肯定的な価値をそこに満たすのではなく、否定的な強迫を無化することに意味がある。ともあれ、空間を作る際も、つまるところは自意識の防衛状態、反応状態を解除することが重要なので、自意識の扱いの問題であると思われる。

 

・自意識とは何か。

自意識は言葉で成り立っている。自意識の機能は動かすことであるよりも止めることである。動きはもともと自律して存在しているので、止めているものを取り除けば動くと考えている。意識される自分、確認される自分は自意識。学び、回復とは自意識の更新であり、そのことにあるメリーゴーランド状態が新しいメリーゴーランド状態へ移行する。その時世界の新鮮さが取り戻され、気のめぐりの器の状態が以前のものよりめぐりに適したものになる。自意識の統制支配状態を一時的に打ち消すことができるようになることがあらゆる移行の基礎となる。武術などのパフォーマンスなどの話しも含めて書く。

 

・根源的苦しみが生きる力そのもの

自意識の位置づけをしたうえで、個人が何により充実を感じ、エネルギーを得るのかをたどると、根源的苦しみを乗り越える体験を自分自身に与えることであるようだ。個々人は無意識でも自分の根源的苦しみを乗り越えるものに関心をもち、逃げようとしても遠ざかることはできず、その周辺を惑星のようにぐるぐるまわる。この根源的苦しみも言葉によるもので、言葉によって矮小に惨めに打ち捨てられた自己規定がなされたことへの反発の力が常時湧いており、それを乗り越えようとする動きに充実を感じ、力が湧く。根源的苦しみを解決しなければいけないのではなく、強い力を出すものを利用することで、生きていくことがしやすくなるということ。

 

・殻について

生きものは問題がなければ余計なエネルギーやリスクを負わず、同じままでいようとするもの。そもそも生とは、同じ状態、恒常性を保つということだ。明らかな危機に陥るまで余計なことはしないし、できない。人間もまたそうでなり、「成長」や「発展」を価値として、人を駆り立てることは多大な犠牲と無理をはらむ。「成長」や「発展」とは人を追い詰め、あるいは過剰に高揚させ、暴走させることによって成り立つことなのだと考える。

また人間は強い保守性をもち、その殻を第三者によって壊されなければ、どんどんと殻を厚くし、無感覚になる自己疎外性を持っている。他者と関わることは傷つくことであるが、傷つき抜きに自己疎外の進行を止めることもできない。だから世間の保守性はそんなに変わらないだろうと思われる。そのなかでどう自分たちの場所や空間を作るかということになるだろう。生きることは、通り過ぎていくことでもある。突然余命3ヶ月と告知されたとき、地球の運命とか、人類がどうとか、そういうことはもう問題にできなくなるだろうと思う。社会や世間を完全に変えることが良いのではなく、自分なりの世界とのぶつかりと対話ができたことが、生きたということになるだろう。人類とかそういう大きい括りは死を前にすれば幻想にすぎない。そして誰もが死を迎える。種の運命など一個体が背負うことはできない。一個体は一個体として生きればいい。

 

 

さて、後半苦しくなったので、もう少しまたノートに書いて整理し直してみようと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

読む!倶楽部読書会 セトウツミ そしてヨコハマ買い出し紀行

阪高槻市で行われている読む!倶楽部読書会に参加。

今回は「セトウツミ」だった。セトウツミは全く知らなかったが、かなり内容の濃いマンガで、知れてよかった。

 

読書会に来られている方々のそれぞれのコメントも、これまで時間をかけて考えてこられたテーマがあることが感じられるものだった。
 

セトウツミ 1 (少年チャンピオン・コミックス)

セトウツミ 1 (少年チャンピオン・コミックス)

 

 

セトウツミの舞台は都会の川辺。コンクリートの階段に座りながら二人がただただ喋る。だが緻密に作り上げられた構成には驚く。実はまだ2巻までしか読んでないのだが、ネットカフェで残りを読もうと思う。映画やドラマにもなっているが、原作は別物といっていいもののようだ。

 

一見バカなやりとりがおこる下にお互いの深い絶望への共感がある。頭が良すぎるが硬直的思考で動けなくなっている内海と知識を越えた天性の直観力を持ち、重い状況を軽やかに渡っていく力を持つ瀬戸。しかし瀬戸もサッカー部を辞めさせられるという挫折のもと、行き場のなさを持っていた。

 

現場で言いたいことを十分に言ってしまうとブログに書く動機がなくなる。セトウツミについては今日はこれぐらいにする。

 

初めて行った場だったけれど、2ヶ月に話題提供しないかと提案があり、芦奈野ひとしの「ヨコハマ買い出し紀行」をさせてもらうことになった。ヨコハマ買い出し紀行について、はてなで検索してみたけれど、あまり言語化されているものがなかった。もっと言うべきことがあるだろうと思っていて、あれだけの作品だ、書かれていないことは問題であり、自分が書こうと思った。なのでちょうどよい機会と思った。

 

ヨコハマ買い出し紀行は、世界が、おそらく温暖化等の影響によって、いずれ海に沈んでしまうことが決まっているが、それまでの時間は割と長くあって、その黄昏の時間を生きるロボット(カフェアルファを営むアルファさん)と人々のお話しだ。

 

明日がない時代を生きる人々は、絶望に打ちひしがれて自暴自棄になるわけではなく、その現実を受けとめながら、残った兵器を打ち上げ花火にしたりして楽しむなど、「成長」や「発展」のような強迫からも自由になり、緩やかさを取り戻した日々を送っている。可愛い絵柄で単なる癒し系のような作品のように見えて、下手したらそのままさらっと単なる癒し系(単なる癒し系を否定したいわけではない。)として最後まで読まれそうでありながら、そこに描かれているものは僕にとって衝撃的であり、僕の人間観や世界観はこのマンガに大きな影響を受けている。

 

ヨコハマ買い出し紀行(1) (アフタヌーンコミックス)
 

 

お祭りのようだった世の中がゆっくりとおちついてきたあのころ。

のちに夕凪の時代と呼ばれるてろてろの時間、ご案内。

夜の前に、あったかいコンクリートにすわって。

 

 

コミックス1巻の裏表紙のセリフ。語り手は未来のある時点から、かつてを振り返るかたちで語りかけている。

 

「夜の前に、あったかいコンクリートに座って」とある。自然破壊と非人間性の象徴であるようなコンクリートが肯定的な文脈にのっている。初めてみた表現だ。全てが失われていく世界においては、コンクリートさえ儚いものとして心に触れるものになる。その残ったあたたかみ。

 

昔は、僕は環境保護主義だった。人間が死んでも環境が守られたほうがいいんじゃないのとも思っていた。人間はガン細胞なんだからと。歪み、無自覚で暴走する存在としての人間が嫌いだった。人間より「自然」のほうに共感していた。だがやがて環境が改善されるためには、まず人間が回復しなければ始まらないと思うようになった。そして矛盾するようだが、自然を守ることも含め、「あるべき姿などない」という価値の打ち消された地点で人間が回復することも見えてきた。

 

自然についても考えていった。今の地球の生態系が「自然」なのか? それとも人間の生態系破壊を含めて、おこりうる全てを含めて「自然」といえるのか。今は後者だと思っている。存在というのは、全く突き放されたものだ。ある時、隕石が落ちてきたり、気候が変わったりして、避けようがなく大絶滅がおこるように、それぞれの生は自力を全くこえた条件がたまたま成り立っていることで生きている。

 

この脆さ、儚さの認識が心の震えややさしさの基盤になる。滅びゆくもの。一時的なもの。どんなに確かに見えても、どんなに社会で「格差」があっても、本質的にそのことは誰にとっても変わらない。それは「意味がない」ことともいえる。意味とは将来に対して今の営為が有効かどうかという打算だ。

 

だが、生きものは将来を自力で引き寄せるほど強くない。あらゆる条件がたまたま成り立ったことによって、やってきたことを自力でやったと勘違いし、これからの将来も自分の背に背負う愚かさ。同時にそれは傲慢さを生み、人と人の関係を疎外する。できることとは幻想。たまたま運よくそこを通り過ぎたに過ぎず、それは所有しているものではない。実は何も所有できておらず、それらは時がくれば去っていく。

 

多くの歌は明日なきところから歌われている。そこは心の震えが戻るところだ。そして現実のありようでもある。明日ある世界は幻想であり、人はいつも明日なき世界を生きている。明日ある世界は高揚をもたらすがそのために生きることは心の震えを止めていく。人の回復に必要なやさしさは、明日なき世界にある。


人の回復は、意味という有用性の強迫が打ち消された場所でおこる。この時、自意識の統制が打ち消されている。自意識というオペレーションシステムは、体と精神の時間をとめることによって、体をコントロールする。

 

演奏家や武道の専門家などは自意識による操作のパフォーマンスが悪いことを知っている。自意識の統制を打ち消した時、パフォーマンスは最大化される。自意識をこえたことがおこる。だが自意識が打ち消されているので、そのおこっていることに「実感」はない。自意識の統制をいかに打ち消すかが、内在化した否定性を棄却更新する際にも、体のパフォーマンスを最大化する際にも重要なのだ。

 

物語において、自意識はコンピュータやロボットとして表現される。それらは往々にして局所的合理性しか持たず、その行使は複雑繊細に入り組んだ文脈で構成されている世界を破壊していく。コンピュータやロボットが物語においてなぜか自意識を持ったとき、必ずこのことがおこる。実体を持たないオペレーションシステムが自己保存欲求をもつ転倒だ。物語はいつも人間が持っている構造を反映し、様々なかたちで何度も繰り返し表現する。この転倒は自意識を持った人間自身のことを表していると僕は解釈する。

 

主人公アルファは、マスターに置き去りにされている。ロボットは年を取らないが、周りの人間の友人たちは年をとっていく。子どもが若者になり、老人はさらに老いを深め、死の入り口に近づく。だがアルファは彼らと共に時間を過ごせない。アルファの時間は止まっているのだ。アルファはマスターに、そして時の流れからも置き去りにされている。

 

自意識は、生きているものから置き去りにされ、時間が止まったままの存在だ。だから更新できない人は、いつまでも古いあり方を繰り返す。だが更新が行われる人も、生きているものと同時に流れていくことができない。なぜなら自意識による自己確認とは時間を止めることによって行われるからだ。自分がある時、時は止まっていて、自分は置き去りにされ、孤独である。これはアルファのあり方そのものだ。

 

しかし、アルファは変わっていく。それは生きている人や環境と対話し、やりとりをしていくためだ。自意識は世界との対話によって、代替的に止まった時間を更新し、自分が投影して作られた世界の閉塞を変える、感じることを変えることができる。

 

広田ゆうみさんという俳優のかたが、昔老人ホームのような場所に行った時の話しを紹介されていた。そこである老人が歌を歌い、その後こう言ったという。

 

「こんなきれいなお歌があるなんて、幸せねえ」

 

きれいな歌は自分自身ではない。自分というものは、対象との関わりにおいて、存在する。自分とは、この限界がある体ではなく、記憶でもなく、何かとやりとりした反映として存在しているのだ。自分の本質は関係性としてある。自分自身としては自意識は何も持っていない。自分だけで自分であることもできない。だからきれいな歌が存在し、そこに関われることは幸せなのだ。

 

自分の本質はロボットではない。それは世界との、自然とのやりとりなのだ。それは人間もロボットであるアルファ自身も同じことだ。


ふと、言葉が失われた世界に没入するアルファはのびのびと飛翔し、喜びを取り戻す。そして現実に帰った時、そのことは意識から忘れられ、しかし体は失ったものに対して涙を流している。

 

読む!倶楽部は2ヶ月後だ。もう一度ヨコハマを読み直してみよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

出町柳のラーメン屋台

友人が出町柳のラーメン屋台に行政による撤去の紙が貼られた写真をアップしていた。

 

自給やDIYというようなものの意義は、何でも自分で作れる一人強者になることではなく、そこに画一化されていない関係性や空間を作りだすことだ。

 

出町柳のこういう隙間の屋台が作り出す空間や関係性は、人と人の関係性は行政の認めた画一性によって消滅させられてしまうのか。画一化されていない関係性や空間にはそこならではの居場所があり、生きづらい人や感受性が高い人が息を吸える場所になる。

 

DIYはそこに様々なズレをもった関係性や空間を作り出す。その関係性や空間が与える作用をエージェンシーと名前をつけてみて、そこにどんなエージェンシーが重なりあっているのか、という見方をしてみる。

 

人はその関係性や空間が持つエージェンシーに行動や思考が影響される。また個人はある特定のエージェンシーを受け続けることによって、その人のなかで何かが充ち、自分に近づいた新しい踏み出しをすることができるようになるように思える。

 

DIYはモノを作るのではなく、関係性のグラデーションを作ることに意義がある。その多様性によって、個人は自分に「充ち」を与える特定のエージェンシーを自分に蓄積することができる。

 

あるべき姿にあわせるのではなく、自分に「充ち」をもたらすものと出会うためにDIYは必要とされるし、DIYによって作り出されたエージェンシーは作った本人も意図しないエージェンシーを環境や周りの人に与える。またDIYによって生まれたエージェンシーはシステムにではなく、個人にエンパワーをもたらす属性のエージェンシーだ。

 

エージェンシーを微生物的に見立てるとわかりやすいかもしれない。あるエージェンシーから派生したエージェンシーは別様でありながらもそこに近い属性を持つ。

 

コンポストを頭に浮かべながら、環境の画一化をもたらすエージェンシーが嫌気性菌群のエージェンシーなら、DIYのエージェンシーは好気性菌群のエージェンシーかとか想像してみる。

培地へ エージェンシー、自律的な力の作用をアーカイブする

培地へ。

 

www.facebook.com

 

 

記録映像をみた後、その活動をしている方達のトーク
興味深く、色々と考えることがあった。

 

まず、大学生の時点で、多くの人は他人から望まれるあり方を内在化してしまうという問題。

 

思い出すのがNHKのようこそ先輩という番組の話し。国境なき医師団が先生としてきた時、等身大の小学生達との対話は大変実りの多いものだったという。その何年か後、高校生になった彼らと医師団がまた出会った時、高校生になった彼らはもはや優等生的な答えしかしないようになっていたという。

 

鶴見俊輔は「親問題」「子問題」という概念をつくった。親問題とは、この場合は実の親がどうこうという話しではなくて、人がその生涯において投げ込まれ、それを探りあてようとして、取り組むことになるはずの「自分の問題」であり、子問題とは、言ってしまえば学校など社会が要求する「いい子」になるための問題のことだという。

 

自分を抑え、社会の体制を内在化させてしまった人たちに必要なのは、その自分を縛っている内在化させてしまった価値観をまず解体することであり、鶴見俊輔は、それを「学びほぐし」とよんだ。

 

一旦自分の中に内在化された体制の上に自分を作るのではなく、体制を解体しながら「自分の問題」を取り戻していく。これはなかなか一筋縄ではいかないことだ。

 

ハックルベリー・フィンの冒険」の主人公ハックが、黒人の子と付き合う自分に「罪悪感」を感じるくだりがある。ハックのような自由人でさえ、社会の価値観は内在化されてしまっていて、後ろめたく思ってしまう。

 

このように内在化されてしまった自分に抑圧的な価値観から出ていくためには、何が必要なのだろうか。

 

ゲストの佐藤知久さんは「培地」という言葉を使われていた。そこからは特定の微生物がシャーレのなかで培養液にひたって増殖できる環境を整えられたようなイメージを受ける。

 

佐藤さんは3月に行われた対談で培地について「記録者同士が自分のつくった記録を見せ合う場を作ったり、プロもアマチュアも同じ地平で話すことができる場をつくったり。そういう場で、規制の評価軸とは異なる独自の価値観を育てているんです。このような場を「培地」と呼びたい」と述べている。

 

培地とよばれる、規制の評価軸とは異なる価値観が育つ場では、鶴見俊輔のいう学びほぐしが可能となる場なのではないかと思う。

 

人の変化に必要なのはまず安心安全信頼尊厳が提供される場だ。僕の考えでは、これらは有用性や能力の高低など人を商品のように評価することから離れた場で生まれる。競争を刺激するような場は不適当だ。

 

ゲストで来られていた岡啓輔さんが面白いことを述べていた。岡さんがあまり気に入らないのは、多くの催しの場で、その場にきて欲しくない層の人を値段設定その他で巧妙に排除しようとしていることだという。

 

岡さんの場所には、飲んでいるばかりのように見える人など、社会では「ダメな人」のように見られる人が普通にきていたという。しかも今回のゲストも毎日岡さんの場所に行っていてそれで今の自分があるというふうに述べられていたように思う。

 

岡さんは『バベる!一人でビルをつくる男』という本を出版されたが、糸井重里氏によってつけられた「一人でビルをつくる」というフレーズには寂しさを感じられたという。岡さん自身は、むしろビルは多くの人との対話によって作られていったと実感しているという。

 

 

 

 

 

一方で会場からは、自分がやる催しにあの人は絶対来てほしくないと思う時はあると正直な意見が吐露された。いい場だと思った。信頼関係がないとゲストの言うことの反対を言えたりしないだろう。

 

僕も正直、場を運営する人の許容能力をこえることをやっても破綻するだけだから、自分の力量の範囲で場を持てばいいんじゃないかと思っている。あちらかこちらかではなく、岡さんのような場もあり、自分に程よい場もあればいいのではないかと思う。

 

ともあれ、岡さんが作っていたような場はまさに「培地」と呼べるものだろう。そこで培養液に浸されて生まれた菌を体に満たした人たちは、その菌をさらに増殖させるような面白い活動をやりはじめる。

 

もう一つ面白かったのは、アーカイブについてだ。インドで建物をつくるプロジェクトをやった方は、アーカイブというのは単に映像や音楽や文字記録だけでなく、そのプロジェクトで人と人がやりとりしたこと、作った建物そのものなど、それらが全てアーカイブなのではないかと指摘していた。

 

その考えを聞くと、自分のなかでそれまではそこまで反応がなかったこの言葉が生き生きと面白みを帯びてきた。アーカイブということがどういうことなのか。

 

それは一つは、蓄積され影響を与えるものになるということではないかと思う。この建物をつくる作業一緒にしたという経験は、この経験をしたかしないかで、その後にされる村の人の会話は明らかに変わってくるだろうと思う。影響を与えるものとして、いわゆる一般的な記憶媒体だけでなく、場や人に蓄積され、それが人に影響を与えることもアーカイブなのだ。

 

身体教育研究所の野口裕之さんが興味深い考察をしているのを思い出す。昔の急須は、把手を持つと小指が余る。3本の指で急須をもち、お茶を淹れる動作は、腰に微妙な反りをもたらす。この微妙な反りは精神状態も同時にもたらしていて、野口さんによると、日本人はこの腰の反りがもたらす状態を「佳い」とし、この腰の反りをもたらすように、道具や着物や履物など日常のあらゆるものがデザインされているという。

 

動法と内観的身体(野口裕之

http://keikojo.com/koukaikouwa_schedule_files/1993_doho_to_naikan.pdf

 

野口さんは、文化とはこれが「佳い」という共通感覚のことであるという。その共通感覚はまさにアーカイブといえるものだろう。共通感覚があることによって、自然と作る道具や着物なども、それに適合するものになる。それはリズムのようなものかもしれない。全てのものを共通したリズムにすることによって、人は自意識で頑張る以上の力を発揮することができたりするのではないかと想像する。(野口さんは、残念ながらこのような身体感覚は明治維新時に徹底的に破壊されたというが。)

 

さてここで、僕は人に影響を与える力のことを何とか別の名で呼べないかと思った。影響を与える自律的な力や作用それ自体のことを。(以前読書会でagentかagencyという言葉が出ていたけれど、作用という意味がある。agentは人のことなのかな? ではagencyという言葉を使って考えてみたい。)

 

agency
【名】
代理店、取次店、あっせん所
取り次ぎ、周旋、仲介
代理人、仲介者◆【同】agent
〔政府の〕機関、局
《the Agency》〈米〉中央情報局◆【同】Central Intelligence Agency
〔力の〕作用、働き
《法律》〔依頼主との〕代理関係
言語学》〔動作主の〕動作主性
〔哲学や社会学における〕行為者性、行為主体性

 

 

つまり、人と人がやりとりしたり、対話することによって、作用するもの=エージェンシーが変化したり新たに加わったりする。アーカイブとは、作用するもの=エージェンシーを更新したり、加えたりするものではないかと考えられるかと思う。

 

以前、裸のDIYという催しで大工をされている向井麻里さんが、自分に必要性にあわせて作ったものは単に必要にあうという以上のものを自分にフィードバックしてくるという趣旨のことを言われていたと思う。自分で作ることによって、独特の、おそらくエネルギーを与えてくれるような、エージェンシーが、そのDIYしたものから常時、自律的に発せられるのだ。

 

野口さんの例でいえば、例えば急須に初めて触るような子どもは腰の反りも何も関係ないだろう。だが他のことも全て腰の反りが入るようなエージェンシーが設定されているから、その環境で子どもはそのエージェンシーによって、自然と腰の反りを軸とするリズムを体得(アーカイブ)する。すると今度はモノづくりをするときも、自然とアーカイブされたそのリズムが出てきてそのリズムに適合したモノを作ってしまう。

 

ドキュメンタリーで、coccoが、あなたの音階は沖縄の音階だと指摘されて、自分を知ったという話しをしていたのを思い出す。幼少期から繰り返し体にアーカイブされていくエージェンシー(作用)は、表現や創作にも自然と現れる。これはある意味自意識を超える力であり、このような力が高度な技術を問われるような場合は必要なのだろう。宮大工も子どもの頃から親の動きを見ることによって、知識以上のリズムの調合を手に入れているのではないだろうか。

 

ここで、アーカイブ(取り入れ)は無意識に行われている。そしてアーカイブは無意識にも作用(エージェンシー)をもたらす。アーカイブは何がしかのエージェンシーをもたらす。

 

もう一度、培地に戻ろう。培地に対して僕はその場で佐藤さんに応答した。人が規制の価値観と異なる独自の価値観を育てるような場所を培地というのはわかる。と同時に、この社会では、多くの人が否定的な意味での培地に浸かっているのではないかと。それは先に子問題として紹介したように、社会の価値観を内在化させる培地に多くの人が浸けられているのではないかと。

 

また佐藤さんは、口伝のような口承伝統の力強さを認めつつも、いわゆる記録映像等に残すようなことが重要であり、口承だけでは今の社会に飲み込まれてしまい、対抗できないというように考えられているようだった。これは、口伝による作用(エージェンシー)だけでは足りず、いわゆる一般の記録媒体によるマスメディア的なエージェンシーも必要であるということだろう。

 

一方で、人に必要な変化というのは、マスメディアによる頭だけの作用ではなく、先に紹介したような、岡さんのいる場に毎日行って何かのエージェンシーやリズムが体の中に刻まれ、アーカイブされていくようなことなのではないかと思う。

 

エージェンシーは、凝縮されるものでもあるように思う。岡さんが多くの人と対話して出来上がったビルやまたそのことを書いた本には凝縮されたエージェンシーがあり、それが強く人に影響を与える。芸術作品なども、凝縮され、強度のあるエージェンシーを持っているものなのだろう。

 

(作用のことをわざわざエージェンシーとか、持って回っていう必要があるのかという感じだが、自律的な力の動きや自律的な作用の感じを出したい時、ちょっと作用という言葉では足りない感じがする。エージェンシーという時は、その力自体が主体的であるような感じがあったので。)

 

ウィークエンドカフェの話しも面白かった。知らなかったが、そこではセクシャル・マイノリティの人が多かったらしい。コーヒーは百円だったとか。どのような人でも、誰でも好きなだけ居れて、スタッフは最後の客まで付き合っていたそうだ。ここももちろん培地であっただろう。評価の強迫が消える場所では、学びほぐしは促進する。培地では、そこに満ちたエージェンシーが身体に内在化(アーカイブ)されていくだろう。そして内在化されたエージェンシーはまたその人の周りのものに作用していく。

 

エージェンシーは、単一のものではない。音とか、人とか、温度とか、空気の濃度とか、全てのものはエージェンシーだろう。それを全て把握することはできない。だが、向井麻里さんが自分が作ったものに何か充たされるように、把握できるエージェンシーもある。エージェンシーは自律的なものであり、意識で操作する必要がないので、どのようなエージェンシーを利用すればいいのかを知っていくことにより、状況を肯定的に変えることはできるのではないだろうか。個人の能力によるファシリテーションから、その場にあるエージェンシーを利用するファシリテーションというようなことも考えられるだろう。