降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

本の作成9 四国遍路3 遍路の終わり

個人は一人では自他への疎外を止めることができない。

 

この認識になって、今まで自分が持ってきた「自分で自分をまともにしなければならない」という強迫がとれた。取ろうと思って取るというよりか、結果的に楽になったからそうだったのだなと後追いで判断したものだけど。

 

心のスペースが広がり、苦しい呼吸が楽になるような感じだ。するとこの状態が次を求め出す。常野さんのことが強いインパクトを持ったのも今の状態に対してのものだと思う。自分がやっている色々な活動に本当に満足しているのか。虚しさがよく感じられるようになった。

 

元々怠惰だが、だらだらSNSみている時に、本当につまらないなという感情が湧き上がってくるようになった。教養を身につけた自分を想像して、メリハリなくあれもこれもと注意が散漫な状態で読む。そういうのにエネルギーを注ぐのがより馬鹿馬鹿しくなってきた。人の関心をひくために動くようなことは結局あまり面白い体験がなく、疲弊をもたらすのだろう。

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 愛媛に入ると記憶にある場所も多くなった。多くの遍路者は徳島の第一番札所から始めるが、四国の人は自分の家から始めれば一周して家へ帰れる。僕もそうしている。愛媛は終盤だ。もう終わりのようで、やはりそれなりの時間もかかり、という感覚になる。ラストスパートと思って頑張っても、そんなにプラス20キロも30キロも歩けるわけではない。前に一緒になった自慢話の遍路さんにここは泊まれるよというお寺を教えてもらっていた。ガレージのようなところに歩き遍路を止めてくれるそうだ。電話してお願いしてみた。応じてくれた。夜、お寺に行くと、とても朗らかに案内してくれる。人にお願いして否定されるという恐れは強くある。だが全く想像していなかったような気持ちいい応対をしてくれた。揺り動かされた。

 

次の日は横峰寺というやや高い山にある札所だった。泊まった場所が近いので、朝早くから登っていくことができた。以前、父や家族とも来たことがある場所。そして通り過ぎていく。山道で一人になり、少し視界がひらけたところで思い切り大きな声を出してみたくなった。おおーと叫んでみた。思ったより声は出なかった。まあこんなものかと思った。少し残念だけれど、いつか今度はできればと思った。今自分はここにいるのだ。あともう一周ぐらいしたら自分が何か変わるような感じがあった。その案は採用しなかったが。遍路前はこれから生きていける気がまるでしなかったが、何とかなるんじゃないかというような気持ちになっていた。

 

あと4つの寺をめぐり、夕方に最後の寺も巡り終わった。日は暮れて夜になった。普段だったら夜歩いたりせず、どこかで泊まるのだが、家まで帰ることにした。8時か9時ぐらいだろうか。家に着いた。ついていた杖がだいぶ短くなったと父に言われた。ずっとリュックを背負っていたので、リュックがなくても前かがみ体勢になってしまって歩きずらい。足の裏はずっと痺れた状態になっている。次の日から一週間ぐらい他に何もせず、ずっとタクティクス・オウガというスーパーファミコンのゲームをやった。今までやった中で一番ストーリーがいいゲームだった。

 

大学に帰って後輩に会うと動揺されて、雰囲気が変わっているといわれた。そういったのは一人だけだったが。

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学びが疎外される社会で

6つの学びの場をめぐって活動のお話しをうかがい、その後全員で「学びとは何か」というテーマで対話をする企画の打ち合わせ。

 

 

kurahate22.hatenablog.com

 

仕事上で必要な知識や技術を身につける学びはしているが、それだけだと息がつまる。それを補うために知らない分野の人や活動に出会うという話しがでる。

 

学びという言葉は不幸な言葉だと思う。そのイメージは、学校でやること、仕方なくやらなければいけないこと、しんどいお勉強など。

 

建前上どんなことも学びであるともいっているのに、実のところは認められたり評価されたりする事柄は限られてもいる。ゲームをやっていて、より優れたプレーを探究していても世間的に評価はされないどころか、意味のない活動をしていると非難されたりする。

 

学びとは、役に立つ・立たないということが軸にあるのだろうか?

 

結局、誰かが認めたことしか学びではないのだろうか。選ばれた人だけが言及できる特権的なものとしての、あるいは流通しているような何もかもごっちゃにされて敬遠される「学び」の解釈から、そのエッセンスの部分だけを取り出せないか。

 

学びとは、世界の見え方、感じ方が実際に変わることであり、いくら現実的に有用な知識や技術を身につけたとしても、世界の見え方や感じ方が変わらなければ学んだとは言えないと捉えるほうがすっきりする。

 

もちろん知識や技術を身につけたことで、世界への関わり方が分化し、そのことによって新しい感覚を得るのではあるけれど、それはその後にやってくるかもしれない学び、つまり認識の更新の準備や誘発状態を導く段階だととらえたほうがいいように思う。学び自体は、「起こる」ことであって、誘発はできても、意識の操作自体で更新を遂行することはできない。

 

仕事だけだと息が詰まるので別の分野の人や活動に出会いに行ったという先ほどの話しは、新しいものに触れることで世界の見え方、感じ方が実際に変わったということだと思う。

 

メリーゴーランドのように決まった同じ風景を見続けていると、息が詰まっていく。息とは外のものを取り入れることであり、身体の状態を循環させ、更新するものだ。息は意識していなくても自律的にされるものだが、息が詰まると循環と更新ができなくなる。「仕事だけで息が詰まる」と感じるならば、その時は精神の自律的な更新が滞り出しているということなのだろう。

 

生きているということは、体が物質的な循環と更新をし続けているということだと思う。だが人間の自意識は自然ではなくて文化的に作られたものだ。生きていないので出会いがなければ放っておいても自律的な循環更新をしない。

 

自意識による世界の認識の更新は、呼吸のように放っておいてもできず、わざわざ更新がおこるように意識的な状況設定や整えをすることが必要だ。それによってようやく世界の見え方や感じ方が変わり、世界はまたしばらく新鮮さを取り戻し、息が詰まった状態から息ができる状態になる。

 

この定義であれば、学びたくない人はいないと思う。学びとは、自分自身に対して生きていることの新鮮さを与えることがそのエッセンスだと考えるならば。

 

嫌なものやしんどいものとして植えつけられた「学び」ではなく、特権的な人に認められた「学び」でもなく、自分自身が生きていることを新鮮に体験するためにそれぞれの個人が勝手に、自律的に行なっていることこそが学びだと思う。その軸を奪われずにいる。あるいは自分に取り戻していく。

 

新鮮さを自分自身に与えることは、活力を生む。更新するべきだからしなければいけないのではなく、自分は生きている新鮮さを求めているのだからそれに応答していくということだ。そしてまた同じように感じられていく世界をもう一度新鮮にする。

 

学びへの欲求、更新への欲求は、裕福な人や時間のある人よりも、矛盾のなかに生き、苦しみ、抑圧されている人のほうが実は強い。

 

それは教育哲学者林竹二が被差別部落の生徒たちが通う定時制湊川高校の授業で体験したことだ。同じ授業をしても他のどんな学校の生徒よりも変わったのは湊川高校の生徒たちだったという。林は当時の文部省に支配されるようになった教育システムに絶望していたが、湊川高校の生徒たちとの出会いによって再生した。

 

学びが自分とは縁遠いもののように思わされるような社会かもしれないけれど、むしろ逆だ。学びはそれぞれの人のなかに最も自然なものとして取り戻される必要があると思う。

4/11 星の王子様読書会 

毎月第二水曜日の星の王子さま読書会。

 

今回読んだところは王子がパイロットに激しくぶつかるところだった。

 

パイロットは命がかかっている不時着した飛行機の修理が思ったようにならないことに苛立ち、王子の質問にいい加減に応じる。

 

花のトゲはヒツジに食べられることを止められないのになぜ花はトゲを持つのかと尋ねる王子に対して、パイロットは花にトゲがあるのは花が意地悪だからだと答える。

 

王子は傷つき、強く反発する。君はまるで大人のような話しかたをする。そう言われたパイロットも痛みを覚える。そして王子はパイロットが助かるためにやっている「まじめなこと」などふくれあがった自尊心のかたまりのような男の金勘定のようなものだとパイロットを非難する。

 

王子は死なないことより重要なことがあると考えている。

 

死。

 

また常野雄次郎さんの生き方を思いおこしていた。現実に折り合いをつけ、論文を蓄積していったり、今後に続く活動を組織化していくことを常野さんはしなかった。学校の完全な廃絶、社会が不登校の醜さを醜さとして受け入れること、ローザ・パークスをあげてそのように革命に向かいあうべきだと主張する。

 

僕は、常野さんがそのようにしたのは、彼はあまりにも大きかった苦しさ、虚しさ、報われなさを生きるしかなかったからではないかと思った。闘い、直接世界とぶつかることしかもう彼にとって自身を動機づけることができなくなったからではないかと。


勝手な想像。いや、もともと自分の姿を他人や世界にみるものなのだ。本当の常野さんなど知らない。だが自分も常野さんのようだと思う。現実に折り合いをつけろと言われても、ただ生きるだけのために、「現実的」な生き方をして、苦労して我慢して生きることができない。ひとかけらのやる気もない。選んでいるのではなく、動員されるものが本当に空なのだ。

 

生きていけない恐れはある。だんだん行き詰まって、苦しんで死ぬのは嫌だと思う。しかし、もう嫌なことをしてまで生きていたいと思える気持ち、自分を奮い立たせるような甲斐がどこにもない。

 

それが欺瞞であると言われても、正直なところ、僕にとって死はいまだ逃げ先としてとらえられているところがある。フラッシュバックがきつかった頃、本当に耐えきれなくなった時に死んでもいいと思って、それまで耐えようと思ってしのいでいた。本当に耐えられないほど苦しくなれば死ねばいい。

 

やがてフラッシュバックは弱まっていった。だが残っていたのは、逃げることに条件づけられた自分だった。苦しくなれば死ねばいい。つらく嫌なことするぐらいなら死ねばいいじゃないか。かつて耐える手段だった死は、苦手そうなものをすぐ否定し、そこから逃げ、耐えないための理由になっていた。

 

虚しく、踏ん張るためのものが自分にない。すると、衝動的にやりたいことをやり、場当たりにしか動機を発生させられない。もちろん自分にしても、そのような状態がいいとは思っていない。騙し騙し、なるべく整えていく。落穂拾いをしていく。それを今までやってきた。そして今もやっていることだ。根本的な変化が訪れているわけではない。落穂を拾い、それをもってできるだけ自分の軌道を整える方向にずらしていくだけだ。

王子はパイロットに怒りをぶつけた後、しくしくと泣き出す。そして沈黙する。パイロットの気持ちはまるで一転する。喉の渇きや死の不安など、もうどうでもいい。ここに慰めなければいけない人がいるとパイロットは思う。

 

涙とはどういうものだろうと進行役の西川さんから問いが向けられる。

 

涙は緊張が解けた時にでる。とても我慢していたことから解放されたりしたときにもでる。緊張があるときは出ないのではないかと思う。

 

涙を我慢するときがある。何かのプロセスを終わらせないようにするとき。

 

ロバート・レッドフォード監督の「普通の人」や、「グッド・ウィル・ハンティング」のカウセリング場面を思い出す。

 

「普通の人」で最後にカウンセラーは主人公に思っていることを吐き出すように働きかける。主人公は他人に対して、思っていてもそれまで決して口に出せなかった否定的な悪口、そのカウンセラーの個人的な要素に対する嘲りや罵りを思いつく限りありとあらゆるものをぶつける。そして泣き出す。

 

「グッド・ウィル・ハンティング」では、決して自らの惨めさを認めない主人公に対して、カウンセラーは「それはあなたのせいじゃない」と繰り返す。わかっている、やめろと苛立ってくる主人公。だがカウンセラーは主人公の静止を無視して何度でも繰り返す。繰り返すのをやめない。怒りだし、攻撃するそぶりすらみせる主人公だが、もはや耐え切れず気持ちが極限に達して泣き出す。何があろうとすがっていた強い自分が破綻する。それは赦しであり、始まりだ。

 

涙は何かが終わっていく時に流れるものなのかと思う。何かが終わっていくという事態にであって、涙を見た人の意識は、今現在よりも、その人が紛れもなく背負っていたであろう過去の重さへと向けられる。そしてその過去へ投影されるものは、見る人自身がその涙に相当する思い出を呼び起こしているのではないかと思う。

 

また思い出したことがあった。パイロットの気持ちが一転したような感じ。自分にとってのものは何かと考えていたら思い当たった。

 

ある人が職を離れる前に聞いた同僚の心無い言葉。そこは重要で立派な機関であり、そこに勤める人たちは世間から認められている。素晴らしい人もいる。だが、その言葉を聞いた瞬間、その場所はもう何の価値もないところだと思った。たとえ世界平和を導こうが、今後どんなことを成し遂げようと全く関係なく、価値がないと思った。その言葉を取り返すために見合うものなど何もないと思った。

 

僕には、王子は生きることに追い詰められ、疲れて死んだ人の魂のように感じられる。傷ついていること、純粋なこと、自分の言いたいことしか言わないこと、自分の深い傷つきをパイロットとの間で再現すること、バオバブが生えてくるはずなのに自分の星を後にしたこと、そういうことが合わさってそのように感じられる。

 

山岡徳貴子作の異星人という演劇を見たことがあった。自殺を誘いあったメンバーが自殺を画策する。しかし後からその場所にやってきた人たちによって、彼らは実は既に自殺を遂げていたということが判明する。自らを死んだと認識できず生きているものとして振る舞う亡者。このテーマは、「シックス・センス」や「ゾンゲリア」などにもあった。

 

最初に二人が出会ったとき、王子は星を滅ぼすバオバブを食べてくれる機能をヒツジに求めていた。王子が求めたのは、ペットとしての、愛着対象としてのヒツジではなかった。最初にパイロットに機能としてのヒツジを求めるほど切実だった王子は、自分が生きていくために必要だった機能を持てず、それによって生を追い詰められ、奪われた人だったのではないか。

 

そしてトゲがあっても関係なく花を食べてしまうヒツジは、生きものの無慈悲さや機械性を表しているようにも感じられた。ヒツジは無力さや無垢さ、純粋さに加え、生きものや生それ自体の罪深さや機械性を表現しているのではないか。花はそれに対して、生という檻から抜け出たもの、あの世のものとしてあるのではないか。

生きるために必要だった「機能」を持ちえず、追い詰められ、疲れ、死んだ人の魂が星々をめぐる。彼はそのめぐりのなかで、生自体の機械性や意味のなさをもう一度確認する。彼は生きることの空虚さや非人間性に絶望しながら、それでも地球に降り立ったとき、まだヒツジという「機能」を求めていた。その機能によって自身の生を成り立たせようとしていた。既に死んでいて、もう戻れはしないのに。

 

地球で五千本のバラに出会い、唯一のバラに出会っていたという自身の幻想も打ち砕かれた王子だが、しかし失われた片割れであるパイロットとの出会いによって「機能」への執着を超えた他者との関係性を見出す。

パイロットは生きる機能は備えているが、元の心を見失った自分であり、彼は元の心を求めている。王子は生きる機能は持っていないが、元の心を失っておらず、しかし機能への囚われを超えられずにいるという葛藤を抱えた状態だ。王子はむしろ生の機械性、無意味さをもう一度突きつけられ、はっきりと見ることによって、バラの価値に気づき、自身の閉じた幻想の檻、終わりのない漂いから抜け出すことができたのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ずら研 常野雄次郎さんについての話し

大阪で月に1回行われている当事者研究会、ずら研に参加させてもらった。

 

 

いつもは割とフリートークが多いとのことだったが、今回は3月30日に亡くなった常野雄次郎さんのインタビューを読みながら常野さんの思想や各自がそこから受けた感想、インタビューのなかからいくつかのテーマをピックアップして話し合った。

 

前の記事にも書いたが、常野雄次郎さんという人の存在を知ったのが、山下耕平さんのツイートだったはずなので、3月22日以降。で、亡くなったのを知ったのが4月の頭だったので知った途端に亡くなられたのだった。自分より2歳若いのもまたインパクトを強くしたと思う。


僕は中2ごろから不登校で、その後も全日制に1年行っては合わず、通信制の高校に行って、結局大学入学資格検定をとって、また1年浪人して、という具合だったが、不登校という括りのコミュニティや場には関わったことがなかった。

 

話しが合う人は求めていたが、どうやったら人間というものは回復していくのかということが興味であり、不登校の人だったらその話しが通じそうというふうには全く思っていなかった。不登校経験がある人たちと話しが合わないだろうと予想していたのではなく、そもそもそういう対象として思いも浮かんでなかった。出会いたかったのは自分と同じように探究している人、あるいは必要なヒントや知見をくれそうな人だった。

大学時代はそうだったので、改めて、不登校というテーマがあるところに話しに行ってもいいかもしれないと思った。始まると、場は話し手の言ってる言葉がわからなければその場で実際にどんどん訊いている感じだった。

 

自分は自由に訊いていいと言われていても、周りの人が実際にどのように振舞っているのかをみてその場の許容度とか自由度の具合を様子見しているなと思った。ベラベラ喋るところは喋るが、と思えば変に言い出せないままでいるみたいな状態が混在している。

常野さんは、本や論文を書くなり、業績を積み上げていく力があるのに、それをしないのは何故だというネットなどの評判もあった。

 

インタビューをあらためて読んでみたりして思うのは、彼が自分の苦しみを言葉にしようとすると、シューレの枠組みでは表現できないというくだりがある。

 

私が有名大学を出たということは否定できませんが、自分の苦しみを語ろうとする際、シューレの語りの枠組みではフィットしなかったんです。その言葉では、自分の苦しみを表現しようとしてもできない。本を書いた時点でも生きづらさを語っていますが、いまから思うと、あのころはまだマシで、いまの状態のほうがずっと悪いです。

 

僕は、彼は苦しみを表現すること、苦しみをぶつけるものを欲していたのではないかなと思った。彼が東浩紀さんの番組に乗り込んだり、ヘイトスピーチのカウンターとしてその身を投げ出したこと、不登校を醜いものとして受け入れさせるとというような、世間と厳しく対峙するスタンスをとること、展開していった思想は、彼にとって必要な、極度に強い身体的・精神的実感をもたらすためにあったのではないか。

 

常野さんは強烈に対象と激しくぶつかり、闘うために生きていたのではないかと思った。思想自体を探究し実践しようとしたのではなく、思想はいわば常野さんが強烈に闘う必然を提供するものとしてあればそれでよかったのではないか。そういうふうに感じた。

 

また彼は大学に進学することを出身コミュニティへの裏切りだと考えていたという。

「あれ、自分は高校も卒業しないと言っていたのに、この学歴社会にこのまま入ってしまっていいんだろうか」と悩んで、ノートに「大学に行きたい。でも、大学に行くことは自分の出身コミュニティへの裏切り行為だし、学歴社会で特権層にまわることだからまずいのではないか」といったことを、いろいろ書いてました。

 

仲間意識、帰属意識の強さがある。彼がキャリアを積むような営みをせず、現在の社会をマシにするような地味で積み上げていく活動をしなかったのは、そこで助けられる人がいても、それと同時に必ず取りこぼされる人がいて、その取りこぼされた人に常野さんは自分自身を重ねていたからではないかと思った。激しく世界とぶつかること、そしてこの世界に存在する自分自身と同じような人たちと共にあること。それが彼の生きた姿だったのではないかなと思った。

 

 

 

 

ネガティブなほうに基準をとる方が実際的に妥当な距離になることがあるなと思う。「薬」なり「栄養」を毒の一形態だと考える。「薬」や「栄養」にはいい意味しかない。しかしそんなものはない。そういう言葉自体が実際と乖離していて誤った行動を導く。毒と思えばバランスが取れる。

 

人が人を疎外することを聞いたり見たり、やったりやられたりすると、葛藤をひきおこされる。人が人を良くするということを前提にしているからだ。だが関係というのは、損ねることを本質とすると考えるならどうだろう。社会でおきていることはどれも本質通りだ。

 

支援したり、助けたりすることも、そこで両者が納得したとしても、それをもって「良い」と人間が決めることができるだろうか?「良い」と思ったことも、それがその代償に何かを損ねずに成り立っていることがあるだろうか? 損ねることの違いはあっても、否応無く何かを損ねていく。

 

どのような損ねであれ、その損ねは罪だ。ある損ねを別の損ねに換えることができても損ねであることは変わらない。その損ねを否定するとき、大きな欺瞞が生まれ、闇が生まれる。避けられない罪を重ねることをもって生きると考えるとき、逆に自暴自棄ではない、救いと自由が生まれないだろうか。

 

いずれにせよ、その場で考えられるだけのことはやるのは変わりない。「良い」は存在しないのに、それが人を縛り、苦しめ、歪ませる。

 

速度制限を守っていた優秀なベビーシッターが子どもをはねて、子どもは死んだ。誰もが罪を犯し続けているのに、彼女だけ人より過分に苦しむ必要があるだろうか。

www.bbc.com

 

彼女と他の人は何も変わらない。万人が見えない罪を犯していてもその責任を引き受けることはない。万人が蓄積したものは見える罪を犯した人に負わせられている。

どのような選択も罪だ。そしてその罪を自覚しないことは、世界を一層歪ませるより深い罪だ。松岡宮さんの詩「謝れ職業人」はその欺瞞を暴いている。

d.hatena.ne.jp

 

ジャンル難民学会

コムニタス・フォロの明日の催しを今日だと勘違いして大阪の天満橋まで来てしまった。不登校問題の本を書いていて最近若くしてなくなった常野雄次郎さんのことを話す会。

僕も不登校だったけれど不登校であることよりもその時期にはじまったきついフラッシュバックにどう向き合っていくかが切実で、そのあり方を探してきた。

 

生きている当事者にとって、探究と実践が実際に自分の生に変化をもたらさないと意味がない。限られた手持ちでは関連諸分野に関わりながらも、そのことによって自分に活力と循環更新をもたらす「生きる軸」をより明確にしていくことが必要で、その軸が曖昧になることは本末転倒だ。

 

不登校問題自体は自分の軸ではない。けれども不登校50年のサイトの内容の濃さを鑑みるにこの周辺には確実に何かある。

 

大学にいっていた時は、自分の軸と一致する分野は見つからなかった。もっと能力があれば別だったかもしれないが、自分の求めや相性に対して効率が悪い。当事者からみたら分野ごとに閉じる閉鎖性や馬鹿げた前提へのこだわりをまだ崩せずに保持しているように感じた。自分に必要な知見や体験は自分が直接確かめに行って見つけないと間に合わない。そう思った。

 

関連諸分野に横断的に関わって落ち穂拾いのように必要なものを取り入れていく。しかしこちらのやり方の難点は、個人作業になり、人から得られるものが得られないことだ。

 

ジャンル難民のサロンみたいなものがあればいいのにと思う。絶対確実なようなことを積み上げていくようなアカデミズム流ではなく、基本的にはある知見や仮説が妥当かどうかはそれぞれの実践者が吟味すればいい。アカデミズム流よりももっと大胆な仮説、分野横断的な探究ができる場。探究は社会に還元するためでなく、探究者自身が妥協のない納得に向かうためのもの。

 

ジャンル難民学会でも作って開けばいいか。

 

名古屋の応用哲学会はいい感じみたいだった。ジャンル迷子、ジャンル難民が集まり、考えていることを発表できる場所が欲しい。

 

 

 

本の作成8 四国遍路2

常野雄二郎さんが亡くなった。

常野さんはつい最近に「不登校50年」というウェブの企画で知ったばかりの人だった。

futoko50.sblo.jp

 

山下 ご自身のなかで、何がそんなにworseなのですか。

常野 精神の病が問題ですかね。あと、バイトは再開するかもしれませんが、現時点で無職で、障害年金はもらっていますが、将来の経済的な心配があります。

 
「将来の経済的な心配」という言葉が残った。インタビューは2017年の8月3日だった。亡くなられたのは今年3月下旬。僕も自分自身、今後どうなるかとも思うけれど、常野さんのように予期もなく1年をまたず死ぬかもしれない。その直前、意識があるならそれまでの自分の今後の心配というのは一体何だったのかと思うだろう。それに悩んで日々思考や行動が影響されていたなら、それは何だったのかと。

 

自分が本当にやるべきは何か。

 

 

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四国遍路2

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高知のその宿で二泊させてもらい、足の調子はだいぶ良くなった。それまでは強迫的に歩いてしまうのを止められなかった。

 

その宿を後にし、駅で野宿しようとした時、虚言癖がありそうな遍路者にあった。訊いてないのに自分は托鉢していくら貰ったとか、1日に何キロ歩いたとか、大げさなことを話す。缶コーヒーをすすめられ、この人からもらうのも嫌で、「寝れなくなるからいらないです」といったけれど、何度も何度も「いや寝れるから」とすすめてくる。とりあえず今日だけ自慢話を訊いて明日は別れればいいかと思って、ずっと続く自慢話を聞いていた。朝に彼と別れ、その日はいつもより長く歩いた。そしてたどり着いた宿にまた彼がいた。縁があるものだとババを引き当てたような気分になった。彼は自分は本当はもっと歩いていたのだが、ここに帰ってきたというようなことを言っていた。

 

次の日別れたが思い返すとムカムカしていた。だが、さらにしばらく経つとあの強迫的に自慢しなければ自分が持たない彼のような性質をどこか持っているような気がしてきた。自分の心のありようを極端に表現したかたちが彼のようだと思った。四国遍路する者は、旅のなかで未来の自分と過去の自分に会うともいうけれど、彼は今の自分の姿だったから出会ったのかなとも思った。

 

そういえば、旅の途中で明るい性格の高齢の遍路者に会った。その人は病気で腸を大部分摘出したという。僕の亡くなった祖父も腸を大分摘出して、余命があまりないと言われていたが、はったい粉を練ったものを作って食べるなど、消化にいいものを摂取することを気遣って長生きした。祖父は経済的なことに細かかったので、他の家族からは少し敬遠されていた。戦争中、軍隊ではある程度の地位にあったからかなのか、人のために行動しても、人の気持ちは考えられず、自分の考えを押しつけてしまうところがあったので僕もやや苦手にしていた。出会った高齢の遍路者とは割とすぐに別れたのだが、別れた後でまるで祖父に出会い直したような気持ちになった。決してこんな気さくな性格ではないけれど、祖父は今はこのように僕に出会いにきてそして自然にお別れした。そんな感覚が残った。

 

遍路は一期一会の世界だ。一箇所にとどまらず、通り過ぎていく世界では、自分の心の世界がわりとそのままのかたちで外界に投影され、そのリアリティが体験される。祖父と出会い直したような体験は多分そういうことだろう。心の中で取り残されたように浮遊し、落ち着く場所を失っているイメージが外に投影され、弔われる。そういったことが旅のなかではおこりやすい。

 

高知は四国の県なかでもっとも遍路道が長い。そしてその大部分が海沿いだ。太平洋から打ち寄せる波の勢いの容赦のなさにはうんざりした。ダダーン、ダダーンとずっとそれだ。僕は愛媛で生まれ、自分にとっての海は静かな瀬戸内海だったのがわかった。高知から愛媛に入ったとき、野宿しようとしたところの裏に若者がたくさんきてわいわい話していて眠れなかった。まだ夜の2時とか3時とかだったが、起きて歩くことにした。ずっと歩いているとだんだんと空が白んでいく。日が昇りはじめた時に瀬戸内海が見えてきた。空のオレンジ色が映る海の穏やかさに強い感銘を受けた。こんなに違うのかと思った。

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