降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

本の作成過程1

これまで考えてきたことをまとめようと思う。

 

大きく章立てし、それを細分化していくかたちにして、それでできたものを人に見せて基本的な意味が通じるか確認しつつやってみようかと思う。

 

自分の経緯と考えを連動させながら書く。章立ては問いのように書いてみるとわかりやすいかもしれない。

 

流れとしては人の変化、回復とは何かを考えてきた。変化に必要な環境を確かめていくとある場において強迫が打ち消されると更新作用が動き出しやすいことがわかった。また自意識はそもそも防衛規制であるようなのでそれが何か価値づけしているとそれが強迫になって変化が停滞するようだというのも感じられた。

よって、「成長」とか「発展」とか、一見ポジティブそうに見える価値を打ち消し、生きることを捉え直す必要がある。自意識が最も強迫的にならない生の捉え方とはどういうものか。

「人生」というと長い時間が前提されている。昔、14歳の金メダリストが「人生で一番嬉しかった」というと世間に笑われていた。まだ「人生」など体験してないだろうというわけだ。長い間生きることが前提の言葉は、短い生しか生きられない可能性もある人間の存在を無視している偏った言葉だ。

そういうそもそもおかしな言葉は一個一個実態をより適切に表していると思える言葉に変えていった。ピラミッドの頂点に登っていくような「自己実現」という上昇の言葉を、降りていく「とむらい」の深化と考えるように。

この社会で生き残り、回復していくにはどうしたらいいか。それを考えてきたのであるけれど、回復は自意識の強迫が打ち消されるところにある。だから生それ自体には意味はないというところに自然とやってくる。何かやるから自分に価値がある、何かであることによって自分に価値があるのではない。何かを良いとしてしまうとそれになれない強迫が生まれ、変化が滞る。一見ポジティブに見える言葉はそのまま強迫なのだ。だからそういう言葉を相対化して、別の言葉にし、そこから世界をみるということも同時並行でしてきた。

まあでも生それ自体に意味はないというのは最後に書けばいいか。サバイブするためにどう変化と関わっていくかということが主に書くことになるかと思う。

仮のタイトルは「疎外と回復」、あるいは「当事者研究 回復とは何か」にしてみようかと思う。

人は自身の根源的な苦しみを無自覚に別のもので塗り隠してしまう。それによって自分を疎外する。底で苦しみながら一方でそれを覆い隠して感じまいとする。その疎外は他者や世界によって傷つけられ痛みを与えられることによって、向き合わざる得なくなる。そのことによって人は深く回復していく。一人では、傷つけられることなければ、深く回復していくことができない。個人の深い回復は周囲や社会の回復にも繋がっている。苦しみを感じなくなることは自己疎外に陥ることと等しい。人はそのような存在だ。「幸せ」に達したらそれをなるだけ保持すればいいのではない。「勝ち組」は負けているし、スタートのだいぶ手前にいる。「負け組」も何も持ってないし苦しみのなかにいるが回復の契機をもつものもいる。

 

とりあえずのたたき台の章立て
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当事者研究 回復とは何か』
1フラッシュバックがはじまる
2苦しみの軽減は「成長」によって変わるのか
3人間関係の変化による自分の変化
 →演劇部のメンバーとの交友

4フラッシュバックが弱まってもただ何もできないまま取り残されただけだった

5生きづらさはどのように軽減するのか

6根源的苦しみに対する反動としての生きる力 なぜ学生が自分の問題を卒論にするのか →踏み出す力はどこにあるのか 

7心理カウンセリングへの疑問

8四国遍路へ 適切な環境と媒体があれば人は自律的に回復行動をおこしていく

9糸川勉さんの自給農法との出会い 生きものはどうエネルギーを展開していくのか

10自給 サバイバルとエンパワメント 
 →イリイチのコンヴィヴィアリティ 自給とは自分にエネルギーをもたらす軸に近づいていくためのリハビリ →このリハビリをずっとやっていくことが充実

11環境に働きかけて環境を変えていく 対話的存在としての自分 対話の反映としての自分

12 自意識はOSのようである メリーゴーランドとしての生 
→ 私は過去(記憶)を通してしか世界を把握できない

 →よって更新がなければ私にとって世界はどんどん古び退屈になり崩壊していく

 →更新の動機が生まれる →更新は古い世界にとっては死 →揺れながら踏み出していくことが学び →世界の見え方、感じ方を変わる 

12.1言葉の強迫をとる 別の一貫性で世界を見る 「成長」や「発展」というかたちではなく

13気の通り道としての心 →気のめぐりを阻害しているものをとっていく→とむらいもその作業 →循環する気のめぐりが自律的な行動をおこす 循環する気のめぐりが本体

14移行状態 回復とは回復し続けること(上岡陽江
→安心安全信頼尊厳が提供される場で回復に向けた活動がおこる 回復して元気になる 潜在していた苦しみに気づく また回復へ向かう 迷惑をかけられること傷つけられることがないと人は自己疎外に向かう →上岡陽江

 

学びと回復の違いは? 完全に切り分けられないが学びは更新をさし、回復は受容を深めていくことか。

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感想:自分のこと、回復について、学びについてなど、幾つかのことを分けて書きたいのだが、今まだごちゃ混ぜの状態ですっきり分けれていない。

お題「イリイチ」

家族模様替えプロジェクトvol.2へ

ダンサーの砂連尾理さんと佐久間新さんのご両親が来られる場に参加。野村さんも今回から参加される。家を一定程度に社会に開くのが住み開きならこの取り組みは、親開き?になるのだろうか。

 

参加者それぞれの父母や祖父母の話しもでる。
ここでは言わなかったけれど、自分の実家の父親母親も台所は別々だが一つの家に同居しているおじと父の関わりに問題が出てきた。父は82歳で脳梗塞をやって以来動きにくいのだが、自分の家を置いて引っ越しすることになった。おじは友人に貸したお金が返されなかったのを契機に実家に戻り統合失調症を発症。おばが自分の判断で薬をやめさせた結果、自殺未遂。少し歪みを持ったおば(おじの実姉)と家計を一緒に暮らして、だいぶ社会的孤立状況にある。

 

ストレスが溜まっていって怒りが出るようになり、父のベッドを窓から庭に放り投げるなど暴力的になり措置入院、一度大人しくなるものの、また怒りが高まってきた状況だった。おばはおそらく軽い知的障害だが軽いゆえに難しく、ほぼ自分の思うことだけがあり人の意見や常識はまるで通じないし、行動を押し通す。

 

おばからは自分が小さい頃、他の大人がいない時に嫌がるのに無理やり組み敷いてキスされるのを他の家族もやめさせられず、屈辱的な時間が大きくなるまで続いた。積極的におばを助けるようなことをする気持ちはないが、とはいえ父母に影響を及ぼす現状に向き合う必要も出てきた。

 

家族の問題の膠着に対しては、第三者がそこに入ることの意義はとても大きいと思う。家族内関係だけだと同じ関わりかたしかなかなかできない。それは昨日の場でも感じた。そして高齢の人が当たり前にそこにいることは、その場をやさしくする。

 

親開き、誰もみんながやる必要はないけれど、やれる人がやると周りの人にとっても家族のことを話せる場になるだろう。またそこに親の友人もくる。このことの意味も大きいだろう。親開きは家族周りの人との関係を再編し、ちいさなコミュニティを形成するだろうと思った。

 

 

<砂連尾さんの投稿>

昨日、茨木市玉櫛公民館にて「家族模様替えプロジェクトvol.2」無事終了。
このプロジェクトのオリジナル曲である「見えないはみえる」の1番、2番を佐久間さんの珍指導の元、戸惑いと爆笑の中みんなで歌うことからスタートした昨日、野村誠さんのアレンジで、この曲がみるみる内に輪郭がはっきりしてきて、鍵盤ハーモニカに合わせてみんな納得の大合唱。曲に合わせての佐久間、砂連尾のデュオダンスを挟んで、会は後半へ。


砂連尾、佐久間両親のリクエストに応え、野村さんの「母さんの唄〜結婚行進曲メドレー」、「サザエさん」、「ひな祭り」を鍵盤ハーモニカによる圧巻の演奏の後は一息入れて、会の参加者からそれぞれ自己紹介を兼ねた一言タイム。昨日は両家の家族の他、神戸、京都からの参加者もあり合計何と20名に!皆さんのそれぞれの家族の話に心しみた後に、野村さんの掛け声ならぬ掛け音からその場は即興音楽、ダンス、朗読が渦巻く踊り場に早変わり。最後は参加者皆んなでマイムマイムの大円団。父は青春時代に戻ったようだと顔をほころばせ、会は熱気のなかお開きに。嗚呼、楽しかった!


それにしても参加者が少し増えるだけで、模様替え出来る家族もどんどん増え、蛙の親は蛇だけでなくリスや、はたまた妖怪の親にも変わり、親も色々なキャラクターになりたい、否、成れるのだなと強く実感出来た1日となりました。


次回は初夏の頃かな?この会は今後も引き続き継続していきますので、興味関心のある方はどうぞお気軽にご参加ください。

 

NPOそーねの当事者研究へ

NPOそーねさんの当事者研究へ。


スタッフあわせて15人強の場で、自分たちの少人数制との規模感の違いがまず印象的。人数が多いと、ある困りごとに対して別の人が近い経験をしていたり、それへの対処をある程度工夫していることがあり、それがシェアされる。

 

 

この規模の人数でやることによって、ある事象を検証していく最初の基盤を得ることができるだろうと思う。

 

 

たとえば、幻聴さん(べてるでは幻聴や強迫を擬人化して認知し対話的に関わる)へお茶を供えたり、優しい口調で対応したりすると、幻聴さんがより優しくなったり、相談にのってくれるような存在になったりする。

 

 

当事者にとってはこれがどういうことなのか学問的に証明されるのを待ってられないし、特に他への実害がないのなら、それを普遍的な真実だなんて大冗談(上段)に主張したり吹聴したりするつもりはないし、ここに何かの構造があるとして、部分的検証的にすすめていくことには大きな意義と生産性がある。

 

 

もし強迫観念や幻聴との対話は、やがて祈りのようなものとなり、次元が変容していくようだ、というぐらいの仮説を立て自分らで色々実験して検証していくならやがてかなりすごい発見が生まれるだろう。これはこれで学問とは違った知のあり方として発展させればいいと思う。

 

 

この営みを繰り返すことでむしろ健全なリテラシーみたいなものは生まれると思う。国営放送でやってたから信じるとか、ツイッターで拡散されているから信じるとかではなく、自分が検証的に何かに関わるということがリテラシーを生むだろうと思う。得た知見は文脈によって変わる部分的なものなのだ。「正しいもの」(つまりそれは権威の強さなのだ)を鵜呑みにすることのほうが個々の発達しうる検証能力を疎外する。

 

 

話しは戻って、多人数、短時間でやる場で抽出されることは、次にはそこに関心がある人たちによって別枠で場を持つことによってよりその構造を明らかにできるだろうと思う。

 

 

そしてそれをまた多人数の場で発表する循環。この発表の場はあるいは当事者研究やっている本人以外にも開かれた感じでやるとさらに面白い流れと循環がおこってくるかもしれないと思った。

 

 

あと、そーねさんは当事者研究のあとにその場で軽いお茶会をしていた。その人たちの間にインフォーマルな関係性が育つので、大人数(自分たちと比べて。)でやる大きな意味は、そこにちいさな社会が生まれていくことだなと思う。

 

 

僕はつまるところ重要なことは、個々の場や技法自体よりもそれらが「漁礁」となり、普通の日々のインフォーマルな関係性の質が変容し、多様な生が成り立つ豊かさが生まれてくることだと思っている。たくさんのことは、実はそこでやられている。今あるものも「漁礁」だが、個々の「漁礁」を生かす「漁礁」もつくれるはずだ。それを考えてみたいなと思う。

移行状態としての生

腸内細菌の二割が良い方に傾けば七割の日和見菌も良い方に働きだすし、悪い方が二割に近づいていけば日和見菌もそれにならうという話しなど、菌の話しは面白い。

 

 

性善説とか性悪説とか自己利益か他者貢献かとかいう受け取り方は可変的な移行状態を無視していたり、自分と他者をあまりに単純に分けすぎていて、こういう言葉を使った瞬間に導かれる結論が決まるので、こういう言葉の前提に疑義が生まれる対話でなければ話す甲斐がない。

 

 

自分自身を本質的に良いとか悪いとか、何だかんだと規定してはじめる考えるより、現在の状態は常に移行状態であり、何らかのプロセスであると考え、ならばどういう状態なのか、という探究状態、感じとろうとする感覚を保持することのほうが状況を開いていくだろう。

 

 

 

自分をもう変わらないロボットのように考えるのではなく、たとえば腸内環境だと考えてみればどうだろう。自分というのは状態だ。状態は常に変わり続ける。負担をかければ状態は悪くなるだけだ。

 


そしてやることは、もともと一定数いたその二割の菌をよい勢いにもっていくこと。ゼロからはじめる必要はないし、全体を変えようとする必要もない。マイノリティである二割のほうにアプローチすれば、七割の日和見菌の働きが変わる。

 

 

自分じゃなくて、社会へのアプローチにしても七割にアプローチすることより、改善すべき二割にきっちりアプローチしていくことで、むしろ社会は変容するのではないだろうか。

 

 

あるコミュニティは形成途中は多くに開かれているが一応の状態が決まれば閉じる傾向が強くなり、全体も減衰状態に向かう。腸内環境がある時点でよくても、そこに入る食物がまた不適切になったりすればまた悪くなる。

 

 

形成途中は健康というのは、豆乳ヨーグルトなどもそうだと思うけど、形成途中は菌の勢いが強いから腐敗菌を抑えるけど、出来上がってしまうと腐敗菌のほうが強くなる。

 

 

この形成途中の状態、プロセスにある状態を導きうる環境設定とはどんなものか。ある「達成」は結果的なもの、派生的なものとしてあるし、「達成」したら腐敗の勢いが強くなる。工夫する価値のあることは、この移行状態にもっていく設定、移行状態を保持する設定だろう。

 

 

個人内の「腸内環境」を考えたら、次にその個人の周りの環境を含めて「腸内環境」と考える。そしてさらにまたその周りを含めた「腸内環境」を考える。アプローチする二割の焦点はどこか。

 

 

個人が変わればその周りが変わる。周りが変わればまたその周りが変わる。と同時に、変わった周りの影響でまた個人が変わる。もちろん閉じた「自足」で欺瞞を厚塗りして自己疎外してしまう人の宿業はあるだろうけれど。

 

 

政治の腐敗や、沖縄の選挙が負けて、大きな社会に対する絶望感が吐露されたりもしている。しかしホームレス支援の方たちの話しなどを聞いていると、そこに希望があるのではないかとも思える。

 

 

深い傷つきをした人が回復していく時、社会が回復する。自分の痛みを厚塗りして感じなくさせることがもうできなくなった人たちが、それができる人のかわりに、自分を変えながら生きることに向き合う。そのことが周りを質的に変容させる。

 

 

彼らが自らの痛みに向きあうことをサポートする。彼らへの向き合いは、自分自身の痛みへの直面を伴うだろう。厚塗りが剥ぎ取られて、取り繕っていた虚しさと惨めさがまたやってくるだろう。しかし、ここが回復の始点なのだろう。

 

 

大きな社会がたとえ自分が生きている間変わることがなくても、個人は自分の深い回復に向かうことができる。そしてそれは周りの回復を伴う。生きることの充実は「達成」それ自体ではなく、現在の世界の見え方や感じ方が変わっていく移行状態のなかにあることによるのではないだろうか。

 

 

マッドマックスで権力者の子孫をつくるための女性たち、ワイブスは支配された生から逃走し、求める理想の途中で死んだものもいた。だが到達点ではなく、この現実に足をつけ、救いに向きあいつつあるとき、人は満足しているのではないだろうか。

 

 

「達成」はいつでも全体的なものではなく、部分的なものであって、それがプロセスではなく「達成」である限りはそこからまた腐敗がはじまる。生という終わりのない移行状態のなかで、また自分にも回復への移行状態をつくる。そのことで旅は支配されたものから、生きられたものになるのではないだろうか。

傷つけること傷つけられること

伴走型支援士認定講座2日目。

 

子どもが刑務所の母と和解する話があった。小学校入学式の時、上履きをもたすのを忘れて子どもはとても辛かった。そのことを10年たってもずっと母親に言えずにいた。

 

手紙を用意してそのことを書き、母親と面会して、それでも言いだせない様子なのを付き添いの人にうながされて、ようやく、小学校の入学式のとき・・と言い出したとき、母親はもうそれだけで「上履きじゃろ」と言ったという。

 

母親もずっとそのことはわかっていたけれど、お互いにずっと言いだせなかったのだ。もう薬物は使わないからもう一度母親としてやり直させてくれと母親は言ったという。

 

この講座を主催しているNPOは、人は健全に傷つけあうことが必要だという。迷惑をかけないという自己責任論の美徳のもと、助けを求められない大人の姿が子どもや若者の高い自殺率につながっているのではないかと。

 

釜ヶ崎NPOをされている方が、弱い人がさらに弱い人に絡んだり、暴力をふるったりする、ということをいわれていた。その方もカフェの客に暴力をふるわれるときもある。

 

弱い人に向きあうときは、自分もまた同じように傷つけられることを覚悟しないといけないのだろうかと思った。



 

人は自分の傷や受け入れがたいものの上に何重も膜を張って麻痺させることができる。いや、というよりも選ぶという意識もなくそれをやってしまうのだろう。

 

幸せや充実を得ようとして、その膜をさらに重ねる。そうして自分を失うことができる。

 
人は自分を疎外することなく、自足することができるのだろうか。もし「自分の生活」に閉じられるなら、個々人は自分の底にある痛みを感じるよりも、それを何か別の膜で覆い、塗り込めてしまう勢いをうるほうが強いのではないだろうか。

誰かに迷惑をかけられるということ、誰かに迷惑をかけるということ。その回路を持つことによって、個々人は自分自身による止められない自己疎外の円環を破綻させるのではないだろうか。

傷つけられることによって、よみがえる自分自身の痛み。その痛みを避けるためにあらゆることを意図しているのに、同時にそれを破綻させるものに無意識に近づいてもいく。

手塚貴晴さん講演 伴走型支援士認定講座

東京に来て民間資格の認定講座を受けている。

 

そのなかで昨日は、建築家の手塚貴晴さんの講演があった。

 

建築家の手塚さんの講演。手塚さんの作るものは、人を「そそる」。そこでつい何かをやりたくなってしまう。

 

人のうちにあるもの、しかし既存の環境がそれを押しとどめているものを読みとり、この世界に引き出す。すると引き出されたものはコミュニティを形成するような派生的効果を持ったり、人を自然にたくましく健康にしていったりする。

 

 

雑音を遮断したり人為的に無菌状態することなどが、かえって人間に備わるノイズキャンセリングなどの自然な機能を失わせ自閉症者を混乱させたり、共生菌が行き場を失って人体に攻撃するようになる話しなども大変興味深かった。

 

人が持つ自律的な環境形成の働きかけを引き出すことは重要だなと思った。

 

7000のベンチの話し

https://note.mu/masakimosaki/n/n0bb98b9c0070

 

7000脚を置くことによって、人がそこにやってきてそこから未来につながるものが生まれてきたベンチの話しもそうだけど、まず大事なのは人間に本来的に備わっている、環境形成しようとする自律性を引き出す「漁礁」の設定なのだと思う。

 

 

手塚さんには障害を持つご兄弟がいらして、作品にはその影響も大きいかもしれないと言われていた。

 

勝手な想像だけれど、色々な気持ちや衝動があっても多くの可能性がその発現する前に阻まれてしまうこと、制約があるために失われた可能性を別のかたちでこの世界に現しておられるようにも思えた。

 

 

http://www.homeless-net.org/docs/20180202chirashi2.pdf

スナフキン

スナフキンの名言集、前に一度見たけれど久しぶりに見てみた。

 

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所有することについて。

何でも自分のものにして持って帰ろうとすると難しいものなんだよ。
ぼくは見るだけにしてるんだ。
そして立ち去るときにはそれを頭の中へしまっておくのさ。
そのほうがかばんをうんうんいいながら運ぶより、ずっと快適だからね。

ありがとう。でも、いまも考えたんだけどもちものをふやすということは、ほんとにおそろしいことですね

『花も宝石も美しいものは見て楽しんで持って行かない。また見に来ればいいし、持って歩くなんて荷物と心配を同時に持たなければいけなくなる』

『何でも持ち帰ろうとするのは難しいことなんだよ。僕はどんなにいいものでも見るだけにしているんだ。そして立ち去るときには頭の中に閉まっておくのさ。そのほうが、かばんをウンウン言いながら運ぶより、ずっと快適で楽しいからね』

ものは 自分のものにしたくなったとたんに あらゆる面倒が ふりかかってくるものさ 運んだり 番をしたり

 
「見ること」「愛するものと一体になること」

僕のものではないよ、だけど僕が見ている間は 僕のものなのかもね

自分できれいだと思うものは、 なんでもぼくのものさ。
その気になれば、 世界中でもね。 

 

ここのところ、見ることとは何かに関心が出てきた。見ることは自意識としての自分と対象としての相手を分けることのようにも思える。対象と一体化しているときは、それを対象として見ることができない。対象と離れているからこそ見ることができる。見るとき、自意識は分離され、切り離されている。だが、自意識が自意識として意義をもつことは見ることだけなのだ。


しかしここでのスナフキンの見るというのは、関係をもち、自分が変えられる事態のことをさしているようにも思える。最初は対象として見ただけかもしれないが、対象は見られることをこえて自意識の壁を壊し、そこに変化をおこす。「きれいだ」というのは自分が開かれている状態なのだろう。

いくつかの言葉は福本伸行のアカギっぽいなと思った。こんなに素直にはアカギは言わないだろうけど。アカギはそこにある潜在的なエネルギーを最大限に自分に引き入れ、自分をエネルギーの流れそのものにするようなところがある。

そのうちなんてあてにならないな。 今がその時さ。

自然を感じるだろ…? 強い風の前に立って、 自分達に向かって進んでくる雨を感じるのは、 なんて素晴らしいんだ


そしてメリーゴーランド 。最近この例えをよく使うようになった。他人と自分がそのままで関われなくなった状態。四国遍路をしていたとき、うどん屋のおばちゃんに接待でうどんをもらい、親切にしていただいた。面白い話しをたくさん聞いた。遍路が終わったあと、もう一度店を尋ねると、今度は客と店の人としてしか関われなくなっていた。あの時の感覚を思い出す。役割は奪ってあげないといけない。人と人が関わりそこに変容がおこるためには。役割を奪うとは、弱みもさらけ出した水平関係の人になるということでもあるだろう。

有名になるなんて つまらないことさ 初めは きっと面白いだろう でも だんだん慣れっこになって しまいには嫌になるだけだろうね メリーゴーランドに乗るようなものじゃないか

 
スナフキン名言の別のブログでは、これはスナフキンの父のセリフとして紹介されていた。

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人は世界を対象化して把握する。しかし対象化された世界は時が止まった世界であり、変わらない風景を延々と見せ続けられるメリーゴーランドに人は乗っている。その変わらなさは疲弊と鬱屈を蓄積していく。その景色を更新するものが出会いだ。学びともいえる。学びとは出会いだ。それは次の風景に自分を連れていく。

僕は物心がついたときからたった一人で旅を続けてきた。
多分、これからもそうするだろう。
それが、僕にとっては自然なことなんだ。

 

人とは何だろうかとあらためて。

あの人のようになりたい。あのような生活がしたい。 それらは一人であることから逃避しようとしているのだろうか。一人であることとは、誰かのようであることを諦めることでもあるのだろうか。この意味のない今を認めないことなのだろうか。何かのようなそれ、何かのようなこれで孤独を埋めること。あるべき姿とはまさに、わたしを置きざりにして、真似るべき他人であり、一緒にいるべき他人なのではないだろうか。何かになろうとすること、一人とはそれを拒否するあり方なのではないだろうか。