降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

本当に鳴ること 驚きと内なる世界像の更新

岩倉英数研究会をされている。瀧セージさんのお話しを聞きにいく。4人で行き、2時間充実した対話の時間になった。

 


エデュケーションは、なかのものを引き出す、というのが原義だということを紹介してもらった。決まった知識を個々の頭に貯金でもするように詰めていこうとする教育観とは真逆のものだ。

 

引き出すということは、実際上はどのような関わり方になるのだろうか。
まず一つ重要だと思うのは、自分の内と外の世界が直接つながっているということの実感だと思う。

 

イリイチがラジオを例にとって、かつて素人が自分でケアできたラジオが新しくなって、安くはなったが複雑になり素人が手をだすことが困難になった事例を紹介している。

 

ラジオに自分で関わって調整できるというとき、自分と世界の間には隔絶がなく、自分が技能や知識をもつと、直ちにそれに応じて世界との関わりが広がり豊かになっていく体験がされる。個人内の変化が、自分の世界体験を直接変える実感がある。

 

安く複雑になったラジオは、ラジオ自体を聞く豊かさや利便性は増したかもしれないが、自分と世界との関わりに隔絶を生む。直接変えられる感覚を持てず、あてがわれ、よくわからなくても言われたまま従っていればいい世界。どうせ手作りしたところで、人が作ったものより劣ったものができるだけ。

 

ラジオは一例に過ぎないのだが、身の回りのもののほとんど全てが誰かによって作られた、自分はよくわからないもの、手が出せないものに囲まれてしまうと、個人内の変化が自分の世界体験を直接変える実感をもつ機会が奪われる。

 

重要なことは、ものを利用することより、自分と世界が直接繋がっていて、自分から出てきた動機により、体験される世界が変わっていくことへの信頼の獲得、あるいは維持だ。便利か便利でないかはその次のことであって、この信頼が疎外されると自信を失い、世界に圧倒され、不安から言われるままに依存したり、あるいは反動で暴走したりすることになる。

 

その逸話がどれだけ本当かどうか知らないが、個人の内と世界との関わりを端的に表現している話しに、ヘレンケラーが水に触れて、言葉と世界が繋がったエピソードがある。そのとき、言葉という手がかりによって、彼女の世界との関係は、受動から主体へと劇的に変化しただろう。何も手がかりもなく、否応無く影響されるばかりだった存在から、自分が主体となり、働きかけ、コントロールする存在へとなった。

 

他でもない自分自身によって世界体験は変えられる。世界は自分によって変えられる。この感覚がもし疎外されているのならば、まずはここから取り戻す必要があるだろう。
ラジオもたらすものがその人にとって重要なものである時、その作り方の知識を得て、初めて設計通りに組み立て、本当に鳴りだした時、本人は当たり前と思うだろうか? 思わないだろう。驚くはずだ。本当に鳴ったと。その時、驚きによって内面が作りかえられている。それまでのその人の世界像と、その驚きの後の世界像はもはや異なっている。

 

不安、自信の喪失、絶望、無関心。それらは、更新されない世界像のなかで強く人を圧倒する。自分の内にある世界像が更新されることが、世界体験を新鮮にし、元気と勢いをもたらす。人を再生させる。

 

世界像の更新は、自分の作ったラジオが本当に鳴ったという出来事によって遂行されている。単なる知識や技能の獲得ではない。それらは驚きという出来事を引き寄せ、世界像を更新するための整えに過ぎない。そしてこの驚きが世界と自分が本当につながっている、確かにつながっているという実感なのだ。この実感が能動的な主体としての自信の基盤でもあるだろう。

 

意図せずとも、この自分自身の驚きを奪われる環境、それがあまりにおこりにくいような環境は、自立的な主体にとって、何よりの疎外になるだろう。

 

世界との直接的な関わりの実感を可能にする環境、空間。学びの動機は、世界とのより一層豊かな関わりを作りだしていきたいというものだろう。

 

内なる世界像の更新は、自分にとって重要なものごととの関わりに置いて、もっともおこりやすいだろうと思う。そうでないと散発的に鳴り、持続的にもなりにくいだろう。自分にとってよりリアルなもの、より直接的なもの。そういうものが停滞を更新する力をもつ。

おとあそび工房ふりかえりの会

おとあそび工房のふりかえりの会に参加。準備するからだは後手後手にまわる、など砂連尾さんのお話しはやはり面白いなあと思う。メンバーのそれぞれのリアリティもかなり濃縮された知見で興味深い。

 

 

舞台にして観客にみせることと、自由さとか、パフォーマンスを通してその場にいる人たちが変容したり、解放されていく理屈は別々のものだろう。

 

 

僕は舞台の人ではないので、個人的にはそれをどう両立させるかよりも、実際にやってみてどういう設定だとどうなるのか、それを確かめる手がかりとして主に聞いているかもしれない。

 

 

おとあそび工房の公演のほうではなく、その前段階でもあるワークショップのお話しのなかで、あるメンバーは自分はどうなったら解放されるかなというところを頭においていて、それはかんちがいかもしれないけれど、ワークショップの場はそれぞれのかんちがいが多重になってそれが面白いというか、許されるというかという感じのことを言われていて興味深かった。

 

 

もし仮に全員がここは解放なり治療の場としようとしてその規律をもって場を構成したら、そのことによって場が死んでしまい、解放の逆行さえおこるだろう。何かをよいとすれば、そのよさにたどりつけない恐れが生まれる。すると場に解けない緊張が一つ設定され、そのことによって停滞するという矛盾が生まれる。目的はどうでもいいことを設定するほうが、結果として豊かなものが派生してきたりする。

 

 

べてるの家のわいわいがやがやというのもこういう感じではないだろうか。正しい一つの規範があるようなかんじよりも、それぞれ勝手なものがわいわいしていて、何が正しいとか、こうすべきとかが撹乱され、相殺されることによって自由になる。それは、破綻的な無秩序ではなく、それぞれの存在がそれぞれらしく喜んでいる状態の響きに満たされているから、それぞれの人はその自由を受け入れられ、味わえるのではないかと思う。

「止めるを止める」=「動かす」 吃音についての話しの会で思ったこと

吃音についてのお話し会。
止まるということについて話しを興味深く聴きながら色々と勝手な想像を巡らせる。

 

脳のある部分に障害がおこると、例えばメガネを目の前に提示されると自動的にかけてしまうときく。止められないということ。また歳をとって常時の手の震えがでてきたりする。

 

 

ビタッと止まった状態がコントロールが効いた状態といえるのだが、コントロールとは動かすことではなく、もともとあらゆる方向に動こうとするものを止めることなのではないかなと思う。

 

 

動かすとは、対象以外のものは止まったままにしながら、一部分だけ止めているものを止めるという二重の静止によって遂行されるのではないか。アルコールによる解放が、抑制の脳を抑制するということによっておこるように。

 

 

自意識のコントロールは、実際にはパフォーマンスを落とすことによって達成される。高いパフォーマンスは、おそらく、ゆだねること、なるべく自意識の「止める」という関与をさせない状態にすることによっておこるのではないか。

 

 

熊谷晋一郎さんの書いているものなどを読むと、脳性マヒにおいては、コントロールを意識しすぎると、かえって変な動きが現れるため、コントロールしないみたいな気持ちで、意識をずらすような間接的なコントロールが有効だという話しがあった気がする。

 

 

「動かそうと思う対象に対してはそこを止めているものを止める」と「対象以外に対しては元通り静止させたままにしておく」が動かすということであるならば、熊谷さんの場合の困難は、対象に対する命令のはずが、その周りの静止を止めるように働いていて、望まない部分が勝手に動き出す。意識すればするほどそうなるという。意識は強く止める力を働かせる。よって余計周りが動き出す。

 

 

吃音がメトロノームなどを媒介させると出ないというのは、それまで自分でしていたコントロールの一部をゆだねるからではないかと思った。熊谷さんの例とは違い、コントロールしようとするほど、対象も止まる。コントロールしない状態、ゆだねる状態にするとスムーズということは、もともとは動いているのだから、それがさらに止められている状態が作られているのではないだろうか。

 

 

「対象を止めているところを止める」=「動く」だったはずが、その上にさらに「止める」がかかっている。この「止める」はどこから来ているのか。「対象以外に対しては元通りに静止させておく」が対象に対してもかかるのではないか?話すということが、「止めるを止める」と「元々止まっているものをそのまま止めておく」の複雑な織り成しによって成立しているとして、後者の静止のままにさせておく機能が、カバーするはずの外のところまではみ出して効いてしまう。

 

 

熊谷さんは動かそうとすればするほど余計な部分が動くのに対し、吃音は、動かそう(話そう)とすればするほど止めなくていい部分まで止めてしまう。止める機能の過剰の表裏なのでは。だからどちらにしても意識しないという状況に持ち込むことによってスムーズになる。

 

 

自意識によるコントロールは反動を生む。精神的な面では、わざと高揚状態をもたらし、維持しようとすれば、そのあとにコントロールできない落ち込みがくる。コントロールとはそもそも無理やりのものなのだと思う。もともと無理やりだから、人によってはそういったおもてうらの過剰な静止がおこってしまうのでは

コミュニティを更新する仕組み

べてるの家発の集まりや当事者研究とも関わっている方がブログを見てコメントをくれ、やりとりをした。

 

場を単に人のコントロール下にあるものと考えず、どうあれば自律的な何かが浮かび上がってくるのかという視点を持っていて、何が「いい感じ」なのか、直観的に把握する感覚を持たれている感じ。

 

木村敏べてるの家の人たちの対談をそのやりとりのなかで紹介してもらった。そこにオーケストラの例が出る。自分が周りの人に影響されて出した音がまた周りの人を影響する。それが栄養の循環のようになって、バラバラにならず、一つの音楽になる。

 

 

べてるの家の話しの場がまさにそういう場だという。わいわいがやがやという言葉がでる。そのわいわいがやがやのなかで、自分の苦労や言えなかった本当の気持ちがおのずから出てくるという感覚。

 

 

わいわいがやがやは単にうるさくバラバラなものなのではなく、発せられる一つ一つの言葉やそれが直接に指す意味内容そのものが「音」や「曲」なのでもなく、言葉は単におこっていることの表面をかすったものにすぎず、そこでは耳では聞こえない音楽、何かの現れをもって間接的にしか把握できない一つの音楽があるのではないかと思う。

 

 

木村敏はいう。
私が生きているということを包み込んでしまうような非常に大きな「いのち」があり、それが私のなかに流れこんで私の「いのち」になっている。その大きな「いのち」をみんなでわかちあっている。それを実感することが「生活者の仲間になる」ことだと思う。何人かがいるとき、そこに大きな「いのち」が働いているというのか、生きているというのか、その時にみんなはそれに乗っかってわいわいがやがやになるんだろうと思う、と。
(※木村敏は治癒や寛解ではなく、私たち生活者の仲間になることが治療の目的だと考えている)

 

 

野村誠さんや沼田里衣さん、エスコーラの佐々木さんの場や音楽についてのお話しを思い出す。音楽をやはりもうちょっと体験しようと思っていたら、Ave Covoの公開練習の投稿があったので早速参加させてもらう。シンプルなパターンでも、なかなかできない。いろんなところに集中してない意識が散らばりすぎていたけれど、たまに、言葉のない演奏のなかで浮かび上がってくる何か震えるものがあったような気もする。

 

 

演奏後、店のFBをチェックせず、佐々木さんとソルに行くと臨時休業だった。でもとりあえず場所はお伝えできた。佐々木さんは秋に行われる東九条マダンに関心ありとのことでぜひソルのヤンさんに会っていただきたいなと思う。

 

 

佐々木さんと別れ、エスコーラへ。純さんとめぐみさんが話している。パンとかスープとか申し出のままに色々いただいてしまった。

 

 

純さんと話す。僕は、学びは環境を作り出すものであり、作り出された環境はまた学びを促進すると考えている。この循環関係にあるものを停止したり終わらせたりせず、持続的に育てていくことが重要だと思う。学びは自己更新であり、エンパワメントでもある。それぞれの場所で、エンパワメントのコロニーをつくる。そのことによって、多様性や人が人として生きられる環境は生み出され、作られていくだろうと思う。

 

 

ある程度の人間関係ができれば多くの人はその環境のなかで日々を送るようになると思う。特に出かけていかなけれいけない必要性が基本的にはなくなる。エンパワメントのコロニーをコミュニティと呼んでもいかもしれないが、あるコミュニティと別のコミュニティの間には、そんなに交流したいという欲求はないと思う。自分たちのなかである程度の自己充足ができてしまうからだ。

 

 

だがその自己充足ではコミュニティは弱っていく。外のものとの循環がなくなり、同じパターンを繰り返すことでは更新していけず、老化していく。青年協力隊か何かの活動に参加していた人が、ある村の個々の家庭に電気水道など生活インフラが完備されると途端に交流がなくなるという話しを聞いたことがある。自己充足は、他者と関わるきっかけや必然を奪われることでもあるようで、循環と更新を停滞させる。

 

 

一つ一つのコミュニティがそれほどは交流の欲求は持たないのなら、循環をおこすためにはどうしたらいいのか。僕はコミュニティとコミュニティを巡る人の動きをつくることによって、それを補うことができないかと考えた。四国八十八か所めぐりのように、巡る人の存在がコミュニティの循環をおこす。巡る人がいるところに様々な派生があり、出会いがあり、何かが生まれ、世界が再編されていく。

 

 

人は、生活に必要なもののために動く。それが満たされれば基本あまり動かないようだけれど、それぞれの人が持つ自己更新の欲求とつながれば積極的な動きをはじめる。だからコミュニティとコミュニティとを巡ることの必然性は、自己更新の欲求、つまり学びの欲求によって担保できるのではないかと思う。学びを媒介にすることによって、コミュニティ間の交流や循環が派生する。派生こそが豊かなもの、持続的なもの、信頼できるものを生み出す。

 

 

巡ることによって生まれるもう一つの大きなものは、限定的なコミュニティ内に限らないインフォーマルな人と人との関係性だ。行政がつくる公共は一次元的なものだ。そんな一つの主体がつくるようなものは結局いびつで行き届かない。

多種多様な人たちと友達になっている友人がいる。

 

何か問題があったりしたら知っている人のなかである程度色々と取り組めるような。何か面白いことを思いついたら、その友人たちの誰かが一緒にやろうと反応が来るような。ビジネス上の関係ではなく、極端な話し、深夜であっても困ったら連絡できるような、融通がきき、しかしお互いに自由で、主体性があるインフォーマルな関係を持っている。

 

 

それはその友人がもつ特別な才能による、特別な状態で、特殊な事例であるに過ぎないだろうか。僕は必ずしもそのようには思わない。もちろん何の仕組みもなければそれは特別な才能や個性によるものであるかもしれない。

 

 

だが、エンパワメントのコロニー、コミュニティとコミュニティの間に、学びを媒介させて巡る人の流れをつくる仕組みができれば、個人と個人のインフォーマルな関係は派生的に多様化し、重層化していくのではないかと考える。

 

 

人の流れは、個々のコミュニティを随時更新し、巡っている各人は、巡るなかでそれぞれにインフォーマルな関係を増やしていく。友人としての信頼関係だ。

 

個々人がその関係をつくることには、別に何らそれ以上の目的はないし、自発的に行われる。一個一個の関係性はそのようなものに過ぎないが、それがどんどんと重なっていく状況を作ればどうなるだろうか。学びを媒介とし、インフォーマルな信頼関係のネットワークを個々人の水準で増やしていく。

 

 

するとある問題がおこったときに、つてのつてぐらいまでの間で、信頼できる人と繋がることが可能となり、即応できるようなことが増えてくる。何かやりたいことがあれば、一緒に応じてくれる人と出会う可能性が格段に増える。この状況が作れればいい。

 

 

学びの欲求(自己更新の欲求)を媒介とし、コミュニティとコミュニティを巡る人の流れをつくる。このことが個々のコミュニティの硬質化や定型化による停滞を防ぐ。巡る個々人は自然とインフォーマルな信頼関係のネットワークを個々につくっていく。その状況で、学びの環境は育ち続け、人が自立的な主体となっていくことが可能になっていくのではないかと思う。

緊張感

スマホにいれていたゲームが面白くなくなって削除した。

最後の方は義務的にやっていた。今までやっていた分の蓄積があるから勿体無いというのがあるので少し削除するのが延びただろうか。飽き飽きしてたのはそれまでもあったけど、もういいやとふとやってきたタイミングで。

 

あらためて、必要だったのは何だったろうかと考える。普段の緊張感の高まりを逸らすのが理由だろうなと振り返りながら思う。

 

松本大洋の作品、好きなものが多いけれど、サニーがなかなか読めない。マンガ喫茶行ってもなかなか手に取れない。東京喰種とか進撃の巨人とかアカギとか、アイアムアヒーローとかは手に取れる。一歩とかも手に取れる。バイオレンスが必要なのか。でも戦闘シーンが長いとさっさと終わってほしいと思う。生と死の限界状況でおこるようなことが見たい気がする。

 

 

Sunny 第1集 (IKKI COMIX)

Sunny 第1集 (IKKI COMIX)

 

 

 

今いるリアリティから自分を連れていってくれるのは限界状況ものが多い。

 

普段、だんだん高まってくる緊張感が苦痛で、それを何かに没頭することによって、感じないようにしたり、逸らす。サニーは、日常のだらっとした感じが続く感じがして、緊張感の高まりが逸れない。

 

緊張が高まったからといって別に大声を出し始めるとか、どうにかなる水準ではないけれど、ただ苦痛だ。緊張感の高まりがあるから、なかなか落ち着いてぼおっとしたりできない。寝るときも緊張を感じないように、すごい眠気になるまでなかなか寝ないとか、そういうことになる。

 

文章を書いているときは、割とそこに集中しているから緊張感の高まりは感じない。2時間ぐらい平気で過ごせる。畑も行ってしまえばやりたいと思うことができるので緊張感の高まりという苦痛はない。

 

本を読むのが、中学ぐらいだろうか、あるときからしんどくなった。本はよっぽど集中できるものでないと、緊張が高まってくる。マンガの方がまだ緊張が逸れる。

 

この緊張に向き合うということで、このいたたまれなさをずっと感じるということもできる。何となく逸らそうとして逸れないより、仔細に感じとりどうなっているかをみる方がしんどくはない。基本それをやっていればいいのだろうか? 適当な逸らしに走らずに。

 

パーティーや飲み会の場とか苦手なのだけど、やることがないから緊張が高まる。人と話したらいいと言っても、割と話したいことは決まっていて、何かについてのテーマトークをしたいのだが、自分が最も関心を持っているポイントなどは、なかなか共通の話題とかにならない。読書会なりをした方がまだ話せるので、パーティとか飲み会の意味というのは、緊張感の逸らしというところではあまりない。

 

まああと、あらかじめ持っている疎外感とか、惨めさとかそういうのもあるから、人とやりとりできず困っている自分みたいな図が苦痛というのも大きい。

 

逸らそうと思って、フェイスブックツイッター見るけれど、あくまで代替行為という感じでいまいち。

 

 

魔女の宅急便を今頃 飛べなくなったキキ

友人が竹林で手製のほうきを作った記事へのコメントを見ていたらなぜキキが飛べなくなったのか気になってきた。

ジブリの作品というのもあって、すぐに検索候補が表示されてくる。

 

matome.naver.jp

 

宮崎駿は、聞かれてもこれが理由だと答えていないようだ。確かにあれが理由だとか言ったら面白くもないし、がっかりする人もいるだろう。それぞれが受け取ったものがあって、それが作品の狙いかどうかとかと関係なく、自分として受け取ったものに何かの意味がある。

 

さて、その上で自分はどう受け取れるだろうかと思う。

飛べなくなった直前におこった出来事は、一緒に頑張って作ったパイが届け先の少女ににべもなく必要ないのにと言われたことだ。雨で濡れねずみのキキ、しかし気持ちとしては肯定的な展開への期待に溢れた状態。自分のパーティに遅れることを覚悟してやったこと。労働者と裕福な家の子。ボロい服と高価な服。

 

キキの揺れ動きは、自分のコミュニティではみんなにとって称賛や憧れの存在である魔女という、自分が信じられていたステータスが、都会では古びていてもう求められないという現実への直面からのものではなかっただろうか。魔女である自分の価値とは、実は周りからの評価だった。

「魔女は〜するものよ!」と無邪気に誇らしくいうキキは、魔女というイメージと自分を同一化させることに高揚していた。魔女という称賛される役割を演ずることと、自分自身であるということは、都会に出るまで分けられておらず、矛盾したまま同時に成り立っていた。だが今やそれは破綻し、自分を高めていた魔女というイメージ自体がもう下がってしまった。

 

トトロは大人になったら見えない。トンボを助ける時に飛べたということは、飛べる条件は大人と子どもというカテゴリーに起因することではないだろうと思う。

 

ただパートナーを見つけたジジとは言葉が通じなくなっている。ここは、身もふたもないが、幻想のなかで成り立っていた関係性、キキの心が違う現実を生きられるようになるまでを支える幻想が必要なくなったということなのではないか。林明子の「こんとあき」を思い出す。どんな時も自分の味方になって暖かく励ましてくれる存在。この幻想の存在が必要なくなったのは、飛べるようになった後であり、トンボの救出という出来事という達成によって、アイデンティティの更新がおきたからではと思う。ここにおいては、ある意味、大人/子どもという分類もあてはまるように思う。

 

 

こんとあき (日本傑作絵本シリーズ)

こんとあき (日本傑作絵本シリーズ)

 

 

それがよりシニカルに描かれた岡崎体育「FRIENDS」

 

話しは戻って、飛べなくなったのは、大人/子どもという区切りではなく、本来キキが持っている力が出ないような状態にされたということであるように思える。具体的には、キキが今まで知っている理屈の上では自分にはもう価値がないという状態だ。

森の画家、ウルスラとの対話が転機となる。ウルスラは原作にはいないらしい。ウルスラは自分でも気づかず器用に誰かの真似をして評価を得ていたが、ある時そのことに気づき、絵が描けなくなった。そしてやがて誰かの真似、想定する誰かの評価によるものでなく、自分として描くということにたどり着いた。

 

キキはこのことを聞き、そしてトンボの危機というきっかけを得てようやく誰かの評価のためではなく、自分として生きるということができるようになったのだろう。「紹介もなく初対面の女性に話しかけるなんて失礼よ!」と誰かが決めたイメージや役割を、自分に当てはめてプライドを高め、維持していた状態から、何でもない自分として生きることができるようになったのだと思う。

 

無邪気に無自覚に信じこんでいた自分のイメージが失われ、そして新しく再生していく。後者のハッピーエンドというよりは、前者の喪失が共感を生むものなんだろうなと思う。ハッピーエンドは、喪失を受け入れやすくするものにすぎず、薄っぺらだ。しかし、お客さんを元の状態に戻してあげるということが、多くの人がみる作品に必要なケアでもあるのだろうなと思う。

学びとコミュニティ

学びに適した環境とは、そこにいる人たちが防衛的にならずにすみ、自分の揺れ動きを安心して表明できる場だと思う。

 


こうしなければいけないとか、こう考えるべきだ、と強制されるところでは、変化へのプロセスはおきにくい。OSは更新されず、小手先のアプリが増えて不効率にエネルギーやメモリを消費していく。更新のプロセスへの直感的把握がおぼろげになり、向かえばいいところが見えなくなってくる。

 

お互いに規制を掛け合うこととと自由であることは違う。自由とは阻害のない状態のことであるだろう。ないものをやることで生み出すことはできない。既にある阻害物をとるということはできる。

 

完璧な状態をまず作らなければいけないのではなく、プロセスが進んでいくための必要最低限の環境を整える。環境が整えばプロセスが展開し、次の状態に移行する。また次に行くために必要最低限の環境を整える。基本的にはこの繰り返しでいいはずだ。以前に環境を整えるために必要だったものと、次に環境を整えるために必要なものは引続くものものあるだろうし、新しいものもあるだろう。

 

問題が起こった瞬間が学びはじめであり、それが更新のプロセスだ。プロセスは本人を変えるだけではなく、その人が関わる周囲も変えていく。

 

問題を解決する力を全て外部に任せることは、この更新のプロセスを捨てるに等しい。更新のプロセスを捨てれば、人は変わらず、信頼感は低く、鬱屈したエネルギーは無理やりでも放出されるところを求めだす。

 

この自意識としての私が何をやれるかではなく、プロセスが事をなすことが実感されていけば、私にしがみついて低い自信を奮い立たす必要もなくなってくる。既にあるものを生かすにはどうしたらいいのか。この発想になってくると、考えで自分を追い詰めることはだんだんしなくなってくる。

 

自分にとって学びとは何かを問い、学びのための環境を整えていく。終わりなく成熟させていく。それはやるべきことでもやらなければいけないことでもなく、そう動こうとしている自律性に気づくことだ。

 

学びは、コミュニティを派生させ、自ら学びに適した生態系、人と人との関係性を作る。学びは自己展開する自律性によるものだ。私は、それが動き出せるように通路を作ったり、阻害しているものをのけたりして整える役割だ。古い私が何かを蓄積していくことが学びなのではなく、古い私が更新されていくのが学びだ。私は学ばない。学んだ私はもう古いものとは質的に別のものになっているから。終わったとき、ただ新しい状態がある