降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

企画と自律性

企画者がこれをやろうと決めて募集するのもいいが、学びのプロセスを触発するものは、意識的に狙ったものより偶発的に現れることのほうが多い。

 

ここではこれをやると決めた場所ではなく、もう少し境界的な、どっちつかずの場所では、自律的なその触発が生まれやすいと思う。

 

昔の高野の月曜hanareのような場所、パレスサイドホテルのおかばーのような場所。そのような場所で、自律的なもの(協働や企画など)が生まれてくる。

 

 

自意識がああだこうだと決めたものは、文脈切断的で、その場の現実の動きをとどめやすい。持続的でもなくなってしまう。場の境界性の確保というような水準のデザインは意識的、詳細に吟味検討するが、しかし人を直接コントロールする働きかけはしないのがいい。

 

海のこの場所だと思ったところに沈船やブロックを置いとくみたいに、人工漁礁はつくるが、それ以上のことをしないというのがいいと思っている。

 

 

本当に信頼できるもの、面白いもの、持続的なものは、派生的なもの、スピンオフとして現れてくる。そのように現れてきたものは、自律的なエネルギーの流れを持っているため、展開する。

論楽社

論楽社の虫賀さんから昔の論楽社便りを郵送していただいた。中村晢さんや緒方正人さんなど、本当に様々な人を招いて話しをされている。

 


講座のための講座ではなく、虫賀さん自身がこの人に会いたいと思い、そして連絡をとって学びの場をシェアされている。そしてその出会いのなかで自分の問いを確かめ、自分が変化していくプロセスも書かれている。

 

学びの場を巡る対話の一番最初に論楽社に行けたことで、想像していた以上にたくさんのものをもらった。

 

どうして自分は話しをしたいと思ってここにやってきたか。率直に話した。それは単に必要な紹介だからそれだけのことと思っていたけれど、感じてくれることがあったようだ。意図せず、人に何かが届いたんだと知らされるとき、煤のように溜まっていた心の疲れが一掃されるような気がする。

 

この自分が何から何まで取り仕切り、最後までやるのではなく、自分がやることは、出会いがおきるまでの整えまでだと思う。出会ったあとはもう持っていた前提が変わっているのだから。

 

出会うとは、自分が解体されることでもある。出会いのためには、そこに自分のリアリティを間違いなく置いておかなければならない。体験というのは、自分をそこに賭けているときにおこることだ。そして、また出会っていくということを続けていけばいい。

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観察 

お世話になった人で、療養中の人に1年ぐらい連絡をとっていなかった。

 

お世話になったからお返しをしなければいけない、と考える。「お返しをする自分」を思考上では標準設定していて(これが問題なのだが。)、そうしない自分に後ろめたさを感じ続ける。しかし、体は動かない。連絡しなければなと思いつつ、それを忘れようとする。

 

「お世話になった=返礼をする自分」という自己イメージが成り立たない。そこで出てくる不安がある。人に自分の冷淡さを知られたら見捨てられる、態度を変えられるその不安。言うまでもなく、別に人を心配をしているのではなく、自分の状況が悪くなるのを心配しているだけだ。

自分のコントロールでどんな幻想を維持しているのか。身の丈をこえて、できないことを自分に課しているのは間違いない。自分はそんな殊勝な人間ではないのに。

 

「自分がやっている」から「今の秩序」が維持されていると感じる幻想。この幻想にのっとり日々の行動の調整をしているわけだ。

ダンジョン・マスターという古いゲームのキャラの肩書きにdawn keeperというのがあった。日の出を自分が見守るから、日の出はつつがなく毎日すすむという考え。

 

これはこれで深い意味もあるのだが、日々の幻想という卑近なところに話しを持ってくるならば、自分の力をあまりに大きく設定していて、それが本当は直結していないのに、世界の運行と直結しているととらえ縛られ苦しむ。


今回の連絡しないケースもこの型だなと思う。実際は身の丈をこえた理想的なやりとりによって関係が維持されているという幻想があって、しかしそのやりとりを自分はできていない。よって、自分はその人のことを大切に思っていない(しかし大切に思わなければいけないのか? また大切に思うとは実際何をやることなのか?)。あるべき姿と乖離している自分に苦しみ、また関係性の悪化、見限られることを恐れ、エネルギーが減っていく。

 

どうやら最初に、自分は人間を大切にできないから、補わなければならないという信念があるようだ。自分が人と関係性を持つには、強い補いがいるという信念。だがこれが無理をよび、余計人との関係を遠ざける結果につながる。連絡が延び延びになるのは、現実との直面を避けるためだ。

 

連絡してみると、別に相手の方は気にしていない感じがある。連絡しないとはどういうことなんだとか、何だ今更、みたいなこちらが想像している反応はない。独り相撲だ。

現実とのギャップ。人が自分に対して優しいのは、自分の振る舞いが差し当たり成り立っている間だけで、長時間の関わりになると相手への無関心がバレて破綻する。長時間いるようなことにならないようにするとか、決まったことだけの関わりにするとかで対応するというのが、信念に根づいた行動パターンになっている。

 

生きていけるのは、自分として認められるのは、求められる適切な振る舞いに応えている間だけであり、生きることは、出題される課題に無理やり応対させられていくことという、主体を奪われた信念の呪い。当事者研究で、この辺りを見ていければいいか。

 

 

 

滋味

糸川勉さんが左京区元田中で「畑のみえるカフェ おいしい」をやっていた時、出してくれる野菜を食べると、体に沁み入ってくる感覚があった。

 


滋味、という感じ。単に必要とされる栄養素とカロリーを取るということ以上のことがある感じ。

 

生きる時に、心に必要なカロリーと栄養はこれと決めて、より効率的にそれだけをとろうとするよりは、それがどう働くものかよくわからないけれど、沁み入る滋味をとっていくと捉えるとだいぶ感覚は違ってくるんじゃないかと思う。

 

必要なものを決めてそれだけを効率的にとる意識においては、自分が大きい。自分が大きいと失敗とかうまくいかないとき、圧が自分に大きくかかってくる。一方、うまくいった時は環境に感謝せず、(人並み以上の)自分の努力と才能に高揚するのだが、この時「自分がやった」は「人はやってくれない」という裏の意味を同時に持っており、その恨みや怒りを今度は人にぶつけようとしているのを結構みる。

 

一方で、滋味をとるのを大事にする時、滋味は何からくるかよくわからない。いつも手探りになるだろう。同じことをしてもいつも同じ滋味が得られるわけではない。滋味がなくても差し当たりはたぶん全然生きていける。

 

だが滋味はたぶん、自分を知らないうちに変えていく。こうなるとイメージしてないところに連れていく。ゆだねる感覚、他力の感覚が強くなる。自分は小さくなり、感謝が大きくなる。得たものは取引の当然の結果ではなく、恵みを享受している感覚になる。

 

どちらかというと滋味を食べて生きていくには何をどうしたらいいのか。決まったもののなかで自分がより優秀なプレイヤーになり世界から当然のものを奪う意識よりも、自分の知らない世界の広がりから滋味がもたらせるものを感覚しながら生きるには。

 

もたらされた滋味を手がかりに、その滋味がどうやってやってくるのか、その通路の開き方に意識をもっていく感じだろうか。自分が直接手で掴むのではなく、通路をひらくことで、それが自然とやってくるように。

現代の学びの場

自分が考えてきたことは、つまるところサバイバルについてだ。この社会でどう生きればいいのか、どう生きられるのか。人の変化や回復について確かめていくことも、サバイバルのなかに入る。

 


ただこれは、多分サバイバルという言葉がよく使われている文脈、つまり短期間の特殊な状況や危機的状況をやり過ごすサバイバルではなくて、人間の作った社会、この文化圏のなかで、ある程度長い時間生きていくという仮定の上でのサバイバルだ。

 


人間の社会では、短期間さえなんとかやり過ごせばあとは大丈夫、というわけにはいかない。しかし、だからといってすり減っていくわけにもいかない。状態をより整え、だんだんとエネルギーやできることを増やしていくということまでできて、サバイバルが成り立つと思う。短期間のやり過ごしでは不十分で、エネルギーを蓄え、状況を変える力を増やしていってようやく主体的な生を維持することができる。

 

このようにいうのは、例えば自分が何らかのマイノリティになっている時、社会で用意されているものは全く不足していて、自分で自分の生を作りだしていく必要があるからだ。文科省がなおLGBTについて教科書で取り扱うことに向き合わなかったように、待っていても与えられない。

 

性的マイノリティでなくても、人はちょっとしたことで、いつでもマイノリティになる。実のところ、個々人の個性に対して社会が支援的などということはない。個々人の特性を生かすには、個々の必要を満たすための手づくりの自分たちの環境がいる。

 

子ども食堂を例にとるなら、本来行政がやるべきところなのに行政が能わないため、その場その場の人がやらざるを得ないからそれは生まれてきている。

 

行政は、今後色んなところでますます能わなくなるだろう。過労死ラインがおよそ80時間だとされているのに、残業時間100時間がOKになる現状。年金支払い年齢は繰り上げが検討されている。行政に対し、今後も強くあるべき姿を課していくと同時に、自律的に自分たちの生存圏を作っていくことは、今や不可避なのだと思う。

 

エネルギーをため、行政の不能や不作為に関わらず生きていく力を増大させていく自律的な人間関係。自分たちで自分たちを回復させていく場所。そういうものが必要だと思う。自分たちのエンパワメントベースを。自分たちがより良い生を生きるためのサバイバル。一般の人に対するエンパワメントは、別にやってもやらなくてもいいようなことではなくて、それぞれがサバイバルとしてやる必要があると思う。

 

多くの生きものは、どんな時でも死ぬ可能性があるのが前提なので、刺激に対する反応は、長い生存を仮定した行動を取らずその場その場をやり過ごして生きようとする。
ところが、ある程度長い時間を生きるとなると、その場その場をやり過ごすために身につけたことが、逆にマイナスに働く場合が多い。

 

人間の場合、ケアがなされず放置されていれば、幼い時に危機的状況にさらされるほど、現実にある様々な文脈を汲み取ることができなくなり、その場その場の細切れの文脈に対する反応(多くの場合長期的な人間関係を構成する上ではネガティブなもの)が優勢になる。

 

ある程度長い時間を生きることを仮定するなら、この一度身につけたものを解きほぐし、新しい反応や認識のあり方に再編される必要がある。

 

だが生きものが危機に対して一度身につけたことを捨てるというのは、かなりハードルの高い作業だ。個としての尊厳と安全が提供される場が必要となる。個々人はどのようにお互いに尊厳を提供し、守りあうことができるのか。学びはこの土台づくりからはじまる。

 

その土台を作りながら、現状のなかで、新しい状況を作りだしていく。自分たちに必要な新しい状況を検討し、実現していく。現代の学びの場は、そのような場になればいいのではないかと思う。

オールマイティ

オールマイティなモデルになろうとしてかかるコストの高さ。効率の悪さ。そしてなお矯正しきれない癖。歪み。

 

 

コストと時間をかけて作ったオールマイティさをもって、多人数に一斉にアプローチしてコストを回収するのが経済の理屈。

 

 

だが物ならともかく、人間に対してそのアプローチは自然ではなく、質的な変容をおこすには不十分か、かえって停滞させるようなことも多そうだ。

 

 

人類学者ヴィクター・ターナーは、サファリング・コミュニティという概念を提示し、同じ苦しみを持つ人が集まり場を持つと、回復がすすみやすいことを指摘した。

 

 

当事者として援助されていた人が回復し、今度は自分もかつての自分と同じような人たちの回復をサポートしだす。

 

 

心の深部の回復には、自分と同じ、あるいは自分以上に自分だというとリアリティを感じる他者に対して、関わり、自分がそうされるべきであったケアを提供し、それによって回復した姿をみるという体験が有効であるようだ。

 

 

ただ社会生活ができるというだけでなく、心の深部から回復していくために、自分以上に自分のエッセンスを体現している他者に対して、本来自分が提供されるべきだったケアや尊厳を提供するという、とむらいのような行動が自律的に現れてくる。

 

 

そのようなとむらいは、もちろん相手にとっても恵みとなりうるものだろう。

 

 

自分と同じ苦しみを持つ人に対して、人は自然と共感的で、援助的であり、その人に本来自分が提供されるべきだったものを贈る。その贈りによって、心の深部が回復する。

 

 

オールマイティなプロ、専門家を育成することだけに意識を向けずに、人間のその自然な回復に向かう自律的な傾向、求めを生かすことが重要であると思う。

 

 

それぞれの人は、自分の苦しみの専門家であり、それを抱えて生きてきたぶん現実的な感覚を持つ。ただ孤立した個人ですすめられる回復には限界や制限もある。

 

 

共にあること、どのように共にあればいいのかを学ぶ。それによって、大きな資本の用意や、無理がくるような水準のエネルギーを支払うこともなく、学びと回復は進んでいくだろうと思う。

 

 

少数のプロが主体性をもたない疎外された素人を導くのではなく、それぞれの場所にいる当事者が自らのために学び、回復の場を構成することが、根本的な向き合いであり、深い回復とエンパワメントをもたらす。

 

 

問うべきは、そのような自律的な潜在性が展開できるようにするためには、どうしたらいいかということであると思う。

寝る前

寝る前にわりと毎度親のことが頭に浮かぶ。

 

両親とも一応元気だが、年はとっていくし、父は脳梗塞以来歩きにくくなっていて、熱など出ると自分でトイレに行けないらしい。

 

らしい、というのは姉から聞いた話しだから。

 

正月は帰るし、別に話さないわけではないけど、それ以上特に関わりもしない。

関わりたくないというわけでもないが、関わる強い気持ちもない。

 

寝る前は、なんか今日の自分の過ごし方が問われるような気になっている。


自分は面倒くさいものを放棄している。週に2日しかバイトしないし、特に何もしない日も多い。

 

寝る前は、全ての義務から解放された状態なのだなと思う。

もう寝るだけで、何もしなくていい。

 

義務や強迫から解放されるから思い浮かぶのだろうか。

 

自分を支え続けて、そして老いていく親。毎日仕事して、家事をして生きている。自分は、自分の今日は、そんな親の、自分に対する捧げに値するものだったろうか? 

親孝行しようとか、そういう殊勝な気持ちを持っていない。親のことを心配するとか、ない。心配するのは自分の都合だ。

死ぬ前もこんな感じなんだろうか。やってもらったことに対して、思いを持ってもらったことに対して自分は値しただろうか、となるのか。いつも人のことなど何も考えてないのに、最後だけ都合よく、いっぱしの人みたいに殊勝になるのか。許してほしい、となるのか。

 

義務から解放された時に、負債が残っていることに気づく。返そうとしていることに、気づかず、普段を過ごしているのかなと思う。

ちょっとあとで思い返してみると、恨まれるという感覚が近いかもと思った。沈みゆく船に乗っている両親、そしてまだ大丈夫な隣の船から見ている自分。まあこっちもいずれ沈むのだけど。

恨まれるのが怖いということで、殊勝ではなく自己都合だ。なんで恨まれることを恐れるのだろうか。もう少し見てみる。