降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

オールマイティ

オールマイティなモデルになろうとしてかかるコストの高さ。効率の悪さ。そしてなお矯正しきれない癖。歪み。

 

 

コストと時間をかけて作ったオールマイティさをもって、多人数に一斉にアプローチしてコストを回収するのが経済の理屈。

 

 

だが物ならともかく、人間に対してそのアプローチは自然ではなく、質的な変容をおこすには不十分か、かえって停滞させるようなことも多そうだ。

 

 

人類学者ヴィクター・ターナーは、サファリング・コミュニティという概念を提示し、同じ苦しみを持つ人が集まり場を持つと、回復がすすみやすいことを指摘した。

 

 

当事者として援助されていた人が回復し、今度は自分もかつての自分と同じような人たちの回復をサポートしだす。

 

 

心の深部の回復には、自分と同じ、あるいは自分以上に自分だというとリアリティを感じる他者に対して、関わり、自分がそうされるべきであったケアを提供し、それによって回復した姿をみるという体験が有効であるようだ。

 

 

ただ社会生活ができるというだけでなく、心の深部から回復していくために、自分以上に自分のエッセンスを体現している他者に対して、本来自分が提供されるべきだったケアや尊厳を提供するという、とむらいのような行動が自律的に現れてくる。

 

 

そのようなとむらいは、もちろん相手にとっても恵みとなりうるものだろう。

 

 

自分と同じ苦しみを持つ人に対して、人は自然と共感的で、援助的であり、その人に本来自分が提供されるべきだったものを贈る。その贈りによって、心の深部が回復する。

 

 

オールマイティなプロ、専門家を育成することだけに意識を向けずに、人間のその自然な回復に向かう自律的な傾向、求めを生かすことが重要であると思う。

 

 

それぞれの人は、自分の苦しみの専門家であり、それを抱えて生きてきたぶん現実的な感覚を持つ。ただ孤立した個人ですすめられる回復には限界や制限もある。

 

 

共にあること、どのように共にあればいいのかを学ぶ。それによって、大きな資本の用意や、無理がくるような水準のエネルギーを支払うこともなく、学びと回復は進んでいくだろうと思う。

 

 

少数のプロが主体性をもたない疎外された素人を導くのではなく、それぞれの場所にいる当事者が自らのために学び、回復の場を構成することが、根本的な向き合いであり、深い回復とエンパワメントをもたらす。

 

 

問うべきは、そのような自律的な潜在性が展開できるようにするためには、どうしたらいいかということであると思う。

寝る前

寝る前にわりと毎度親のことが頭に浮かぶ。

 

両親とも一応元気だが、年はとっていくし、父は脳梗塞以来歩きにくくなっていて、熱など出ると自分でトイレに行けないらしい。

 

らしい、というのは姉から聞いた話しだから。

 

正月は帰るし、別に話さないわけではないけど、それ以上特に関わりもしない。

関わりたくないというわけでもないが、関わる強い気持ちもない。

 

寝る前は、なんか今日の自分の過ごし方が問われるような気になっている。


自分は面倒くさいものを放棄している。週に2日しかバイトしないし、特に何もしない日も多い。

 

寝る前は、全ての義務から解放された状態なのだなと思う。

もう寝るだけで、何もしなくていい。

 

義務や強迫から解放されるから思い浮かぶのだろうか。

 

自分を支え続けて、そして老いていく親。毎日仕事して、家事をして生きている。自分は、自分の今日は、そんな親の、自分に対する捧げに値するものだったろうか? 

親孝行しようとか、そういう殊勝な気持ちを持っていない。親のことを心配するとか、ない。心配するのは自分の都合だ。

死ぬ前もこんな感じなんだろうか。やってもらったことに対して、思いを持ってもらったことに対して自分は値しただろうか、となるのか。いつも人のことなど何も考えてないのに、最後だけ都合よく、いっぱしの人みたいに殊勝になるのか。許してほしい、となるのか。

 

義務から解放された時に、負債が残っていることに気づく。返そうとしていることに、気づかず、普段を過ごしているのかなと思う。

ちょっとあとで思い返してみると、恨まれるという感覚が近いかもと思った。沈みゆく船に乗っている両親、そしてまだ大丈夫な隣の船から見ている自分。まあこっちもいずれ沈むのだけど。

恨まれるのが怖いということで、殊勝ではなく自己都合だ。なんで恨まれることを恐れるのだろうか。もう少し見てみる。

 

 

リアリティをひっつける

話しの場では何がおこっているのか。

 

 

言葉を使うので、言葉が作用することをやっているんだろうと思うけど、言葉を使う以前に表現するということでもある。

 

 

表現一般とは何なのか、そういうことはわからないけれど、自分が自分に関心に基づいて確かめてきた人の変化、更新というところにおいて思うのは、人は自己更新するときに世界と新しい出会い方をしようとすることが一つあると思う。

 

 

今まで言わなかったようなことを言うとかも、その出会い方の一つだろう。体は、その出会いに賭け、変わろうとする。自意識は恐れるのだけど、その人にとって整った環境では、言おうと思ってないこと、やろうと思ってないことに自然と現れてくる。自律的に現れてくる。予想していなかった自分がある。

 

 

そもそも予想していた自分、イメージしている自分を現実と思い過ぎていて、何かやる前から自意識は結果を決めている時もあるのかなと思う。結果を決定すると、体験される世界が決まる。

 

 

決定とは、自分で物語の結末を書くことだ。次に、その決定に基づいて世界が体験される。自分で書いた絵本の物語に閉じこめられるようなものだ。絶望や悲嘆、虚しさがやってきたりするけれど、自分が結論づけたから世界がそのように体験されるとは思わない。世界がそうだから、自分は・・と体験される。

 

 

苦しみが高まる。高い圧がかかってくる。苦しみのなかで、その圧が逃げるあり方が模索される。小手先のことで変わらない場合は、根本的な向き合いを始める。圧力は、たくさんの水が自分で流れやすい水路をつくるように、次の水路になりそうなところをノックしてくる。

 

 

新しい水路は、自分より先に、その水の流れが決めているようなところがある。支持的な、整えられた環境では、圧力は破壊的にならず、既に周りにあるものと共同作業をしながら、新しい水路を開発する。新しい水路、めぐりの通路ができた状態で、全体としても整う。

 

 

圧力があまりに高まり過ぎたり、整えが不十分な環境だと、圧力は暴発し、破壊的な成り行きになりやすい。

 

 

人の変化更新において、表現とは、出会おうとすることであるのかなと思う。出会いから疎外されている状態から踏み出し、物語を更新する新しいものに出会うことなのだと思う。

 

 

整えられた話しの場では、自律的な変化がおこる。自分にとってのリアルを表現することは、元の物語に留まることではない。リアルさは、更新をおこすために欠かせない要素ではあっても、それ自体は完成物にはならない。リアルさは、体験をひきおこし、心のなかに出来上がった世界を揺り動かし、更新するために必要なものだ。

 

 

逆にいえば、リアルさを引き起こすものを使って、心のなかの世界を更新することができる。言葉でも、身体を使ったことでも、自分にとってのリアルさを「ひっつけ」て、ひっつけたものを動かすと、いつもは静止している心のなかの世界が変わる。

 

 

本当に思っていないこと、感じていないことに沿ってされた体験は、更新をおこす体験にならない。自分にとってのリアル。リアリティ。それがどんな時も基盤になる。

 

 

だから話しの場は、まず自己一致の状態が整ってくる場である必要があるだろう。その自己一致のもとで、気のめぐりは次の状態へのノックをはじめる。あるいは既にあったノックが気づかれる状態になる。

 

 

変化更新とは、古いものの死でもある。だから恐れも抵抗もある。と同時に、その古いものに倦む気のめぐりがあり、新鮮さを回復する求めがある。その気のめぐりが求める方向に自分を差し出す。そちらの方向へ踏み込む。

 

 

踏み込みを止めると、またもう一回高まりがくるまでの一周がやってくる。自意識の前には、生きる(維持する)ために死ぬ(停滞する)のか、死ぬ(終わらせる)ことによって生きる(再生される)のか、の二択がいつもある。

話しの場

何かが始まるということは、何かが終わったということだ。
始まりはその派生的、必然的な結果にすぎない。

 


何かが本当に終わる。

そのことをみたい。

 

話しの場での気づき。

 

言葉を一つ一つ、そのリアリティをなぞるように置いていく。

 

リアリティに少しでもかする言葉をみつけ、またそこを基に近づいていく。
そしてある時、妥当な言葉が現れた。

 

その言葉にくらべると、今までの言葉は、半分ぐらいは満ちていても、あと半分は空であるようだった。

 

その言葉は、何気ないのに、満ちすぎでも不足でもなく、必要は全部満たしていた。ポンと現れてきた。

 

今までうろちょろしていた平面とは、違った位相から出てきたようであったけれど、自然な言葉だった。

 

話し手は、もうこれでいいと、自分から言ってくれた。

 

帰り際に荷物をまとめようと横に体をひねった時、自分の体の震えに気づいて驚いた。5分ぐらい、それは続いていた。

 

劣化していく歪んだコピーの再生産で出来ている世界に住んでいるようで、うんざりして、カスカスになる。

 

繰り返しはもういいから、本当の変化がみたい。本当の終わりを共に体験したい。

終わりない学びの場はつくれるか

話しの場の可能性、当事者研究、リフレクティングプロセスの場などを通して共に探りたい。

 

 

話しの場、エンカウンターグループにしても、傾聴やカウンセリングみたいなものにしても、治療者、聴き手、ファシリという役割がある。

 

 

その役割抜きに話しの場は成り立たないのかと考えると、いや全員がファシリになれる状態になってたら成り立つのではないかと思う。

 

 

漁師が海を読むように、それぞれの人が、場に対する感覚を育て持ち、それを生かすことができるならどうなるだろうか。

 

 

素人に対して、専門家がつき、導き、その場を構成する型から、それぞれがある程度、人や話し、場に対する感覚を育てながら場を構成する型、育ちあうピアというかたちができないか。

 

 

畑でたとえるなら、それぞれの人が別に自給する必要がないけれど、作物づくりの講座に教えてもらいに来ているようなかたちから、それぞれの人が作物を毎年自給しつつの協同の学びの場を構成しているようなかたちへいく感じ。

 

 

鈴鹿にいって、観察という視点を得た。一人一人が自分の反応を観察することを身につけていくと、やりとりや場の質は大きく変わる。今の僕は、観察は除くことができない要素だと考えている。

 

 

次にリアリティ。奥底から出てくるその人の凝縮されたリアリティは、場を変える。人は場の状態に大きく影響されるが、そのようなリアリティは、場自体の性質を変え、おこることの質を変える力を持っている。

 

 

当事者研究のような、個人の深い苦しみの一端が現れるような場は、そういったリアリティの力を使っていると思う。

 

 

自我の自動的機能は逸らすことであり、緊張が高まるようなことは、そもそも選択肢として思い浮かばなかったり、どうでもいいことへと向かおうとする。

 

 

その逸れをこえるために必要なのは、その人がはじめから持っている強い興味とのつながりだと思う。その興味とはその人が持つ根源的な苦しみであると僕は思っている。

 

 

人は無意識であっても、その根源的な苦しみをこえるあり方を模索している。強い興味関心は、その人の苦しみと関わっている。その苦しみを終わらせようとする力こそ、持続的なエネルギーの源であり、充実を感じさせる背景なのだと思う。

 

 

人は整った環境では、自律的に変化更新への動きをおこす。尊重するとは、その整いを用意することだ。どのような状態が整いなのか、そこから探し確かめ、感覚として知っていく必要があるだろう。

 

 

話しをするということは、時間とエネルギーを投資してより追究したあり方を身につけていっても何も無駄がないと思う。自分の整え、話しの場の整えをずっと学ぶ。そういうことをこの指とまれで、周りと共にやっていきたい。

死を避ける生と死によって生きる生

誰かの描いた物語を生きる。

 


そこに寄る一体感と高揚、安心感は大きく、自分の望みとそれが同じであると信じたい気持ちは、小さく発信されている違和感を圧倒するには十分なのだろう。

 

ウィニコットは、幼児は母親を見ているのではなく、母親の瞳に映る自分を見ているといっていた。物語はさしづめ自分に意味をもたらす母親の瞳なのだろう。どのような母親の瞳であれ、それを失うことは、死と同じなのだ。

 

そしてその死はただの終わりではなく、それを避けるためならどんなことでもするような、世界が根底から破綻するような恐怖そのものとしてあるのではないか。そこから外れることは、立っている場所が支えを失い、底の見えない闇へと落ちていくような恐怖をともなう。

 

その恐怖は既に経験されているのかなと思う。

 

奪われる前に、与えられた状況がある。与えられた状況は、どれだけ奪われるかを作り出すために設定されている。

 

二度と経験したくない恐怖の再現を避け、元の与えられた状況に戻ろうとするのが、生であるのかなと想像する。生き残るという主体の意思による積極的な動機ではなく、堪え難いことを何がなんでも避けるという受動に駆られることのほうが生の本質に近いのではないか。生きることは、変わることより留まることのほうに重心があるようにみえる。

 

ある物語から抜ける契機は、事故のような、どうしようもない不条理さであるのではないかと思う。信じていた物語を破綻させ、もはや成り立たせなくするもの。そうでなけば、恐怖に駆り立てられている生が、物語から抜けることができるだろうか。
だが、そんな生のありようと真逆に、「生きる」という言葉が使われている。生の支配に従うのではなく、生きながらにして生をこえていく反逆に対して「生きる」という言葉が使われている。

 

生き続けるための生とは、対極にある生。瞬間の生。同じ停滞を終わらせ、生の質を更新する生。それがおこる時に生きているといえる生。
留まり、静止したもの、構造として安定したものを生と呼ぶのをやめ、動きそれ自体、動くものそれ自体を生と呼ぶなら、生きている主体は、自分という記憶とその反応ではなくなる。

 

動きとしての生は、自分という記憶ではない。自分というシステムにとって他者であり、動きそのもの、エネルギーの流れそのものと出会い、それによって作り変えられることが、主体を生きることになる。

 

死を避ける生と、死によって生きる生。動くものを殺して生きる生と、動くものに自らを捧げていく生。固定的なものを自分とみる生と、動きや流れ自体を自分とみる生。

生きること学ぶこと

なぜ今のようなことに関心を持ち、今のようなことをやっているのか。

書いたこともあったけど、2年半前なのでまたあらためて。

 

kurahate22.hatenablog.com

 

 

そもそもは中学時代に始まったフラッシュバックがことのおこり。

 

いじめや嫌がらせをしてくる同級生を強く軽蔑し、気持ち悪いとも思っていたのだけれど、ある時その彼の性質を自分も持っているとわかった時があった。

 

すると今まで彼に向けていた強い軽蔑や憎しみは全て自分に向かってきた。ある種、自分は筋を通して生きてきたと思っていて、そこにすがっていたけれど、真逆だった。

 

不意に襲ってくるフラッシュバックは強烈だった。それをマシにすることしか考えられなかった。将来に幸せになるとか、この苦しみの前でもう割の合うものではなかった。

 

緩和していくにはどうしたらいいか。それだけを考えてきた。「成長」したらいいのか? フラッシュバックは何年も経っていくうちに、強烈さは薄らいでいった。しかし、それが弱まったところで、人への恐怖や緊張も強く、人と合わない。今更どう生きていったらいいかもわからなかった。

 

河合隼雄の本を読んでいて、ここにまともな大人がいると思って心理学に興味を持った。人の世話をするつもりなどなく、自分の苦しみを終わらせるヒントを得ようと思って臨床心理学科に入った。

 

学科に入ってみると、心理カウンセラーの人が不適応ぽかったり、対人緊張強そうだなと感じた。心理学を何年も学んだところでそのあたりは変わらないんだなと思った。

 

カウンセリングは社会不適応になった人を社会に戻すような働きをしている。しかし、社会に歪みがあるから、患者が生まれているのではないか。また臨床心理学は、心のことを扱うといいながら、カウンセリングという一技法以外への関心がまるで欠けているように思えた。


そんななかで、映像作家の坂上香さんを知った。終身刑者たちが作る自助グループの取り組みを扱った「ライファーズ」を観た。人間の回復とは何かに迫っているのは、臨床心理学じゃなくてこっちのほうだと思った。


ライファーズ映画予告編

 

カウンセリングでは、治療者と患者という役割関係がある。だが、その上下関係が変化を滞らせている面もある。どのようにしたら人はスムーズにある状態から次の状態へ移行していくのか。そのことに意識的になったカウンセラーたちは、例えばプレイバックシアターなどの演劇的手法に向かったり、自然のなかでの回復を探ったりした。しかし、そういう人たちはメインストリームから外れる。

 

多くのカウンセラーが、心が何か、人間にとって回復とは何かという問いを追究するよりも、カウンセリングという技法は前提で、そこを追究する。そのこだわりは、僕には馬鹿馬鹿しかった。

 

人の変化に関わる周辺分野を探った。自分の関心にダイレクトに応えてくれる分野はないようだった。文化人類学科に移籍し、四国遍路を研究テーマにした。四国遍路において旅人たちは治療者の存在なく、変化や回復をおこしていた。四国遍路において、旅人は旅の途中の人に支えられながら、自然や旅の厳しさに揺り動かされ、変化していく。

 

人の肯定的な変容には、支えられながら、同時に揺り動かされることが必要だ。問題は、自分のなかにできてしまった反応のシステムをいかに終わらせるかだ。反応のシステムは揺り動かされない環境では、変わる必要がないので、自己保存の力が優先し、変われない。また危険すぎる環境でも自己保存、過去へのしがみつきが優先される。旅は、人に支えられながら揺り動かされもする媒体であり、変化に適している。

 

四国遍路において、旅で何をやるか、どのように旅するかという程よさを各人が自己調整できる。適切な環境と適切な媒体があれば、人は自律的に変化のプロセスに必要な選択をし、行動をする。治療者は必要ない。いかに適切な環境と媒体が調整されるか、それが問うべきことだと理解した。

 

心の内奥や無意識を把握する必要もない。適切な場づくりができるなら、人は勝手に変化のプロセスに入る。変化に必要な場はどのようにつくれるのか。市民が無農薬米づくりに参加する企画をしたり、心理学のワークショップのようなことをやってみたりした。

 

だが、何か疲れていく。人が交流する場をつくるのはある程度の面白さや刺激はあるが、十分ではなかった。そんな時自給の哲学に出会った。百万遍で自給自足の畑と田んぼで取れたものを定食にして出しているカフェがあった。オーナーは、自給という視点から一貫した農法を確立していた。

 

自給農法は、有機農法と自然農法の中間に当たる。どちらも無農薬無化学肥料の農法だが、自然農法は、土を耕さなかったり、あまり堆肥をやらない独特のやり方で土作りをする。自然農法は、しかし、センスや感性が必要で、ただの放任だと作物が取りにくい。主に雑草を用いて、堆肥をわざわざ作らない自給農法は、有機農法より自然農法に近いが、確実に作物を取るということを重要視してデザインされている。

 

オーナーは農業が市場や国の貿易の理屈に支配されていることに絶望していたが、試行錯誤の上で、それらに左右されない自給というあり方を見出した。農業は、利益を得るためにある程度以上の規模がいる。規格にあわせないとお金にならないので、その分堆肥や管理も増える。

 

しかし、農の苦労とされているものの多くは、実のところ、商業農業の苦労なのだ。自給という規模なら、市場に合わすための無理や矛盾が消える。肉体的・精神的疲労が明らかに違う。そして、単に自給農は負担軽減なのではなく、楽しみ、充実そのものとして関わることが可能だということがわかった。

 

苦しい労働をした対価で遊んだり、いい時間を買うのではなく、はじめから疲弊しない充実した時間のなかにいる。食べ物を直接生産するので、その状態を続けていける。労働や資本主義の矛盾から「イチ抜けた!」ができる。そしてこの実践は、自分が生きていく暮らしの外枠を自分がデザインする主体になっていくリハビリになる。

 

人が交流する場づくりをするだけでは自分に足りなかったのは、自分自身がリハビリする場であり体験だったということがわかった。

 

生きていくことは、終わりなくリハビリをしていくことのようであるなと思う。そのリハビリは、苦痛なリハビリではない。今の自分の状態に適切なリハビリを用意すると、時間は充実として感じられる。そして人は更新され変化する。変化をすれば、またその状態に対して、新しいリハビリが存在している。それを探し、たどり着く。その繰り返しだ。終着点はないともいえるし、リハビリの状態を探し、たどり着くプロセス自体が既に終着点であるともいえるだろう。

 

当事者研究、オープンダイアローグなど、話しの場をつくること、学びの場をつくることは、そのリハビリをする場を作っているといえる。

 

変化のプロセスは、恐怖や緊張によって停滞させられる。何かを義務として感じたり、想像上のあるべき姿と自分との乖離が恐怖や緊張をおこす。変化を停滞させるようなものを見つけ、整備・メンテナンスして、停滞を無くしていく。

 

思考や自意識は機械であるというのが僕の認識だ。それらは、更新していかないとずっと同じことを繰り返し、それが停滞の原因になる。更新するためには、そのシステムを一旦破綻させ、新しく再セットアップする必要がある。それが学びだ。機械は生命ではなく、気のめぐりでもなく、生きていないから自己更新しない。

 

固まった反応と認識のシステムに対し、それが破綻をおこす新しいものとの出会いを整える。それが学びだ。既知のものの延長ではない新しいものと出会う。そのことによって、システムの更新がおこる。