降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

聞いた話し 学びの場としての大地の再生講座

知識や技術の蓄積は副次的におこるもの、あるいは学びがおこる過程を整えるものとしてあると思う。

 

 

学びとは自己更新であり、その更新は認識や世界の体験の仕方自体を変えるものだ。学びとは出会いであり、それがおこったとき、人の感じ方、行動の仕方は変化している。

 

 

大掛かりなものを揃える必要はない。しかし、学びがおこるために何が必要なのかを知り、環境を整え、人の関係性を整え、人を尊重する態度を整え、環境を醸成していくことが必要だ。 

 

 

大地の再生講座の話しをうかがっていると、そこがとても理想的な学びの場であるように感じた。

 

様々な経験を持っている人も謙虚であって、相手が素人であっても上から指示するみたいなことはしない。既にもう答えはこれだと決めていて人に伝える人と、その人と対話しながら、同時に自分の認識にあらゆる角度から吟味をかけている人は違う。

 

 

学びは、どちらかが教える人で偉く、どちらかが言われるまま教わるだけという場ではおこらない。自分の知識や経験で「正しいこと」を知りもう高をくくってしまえるということは、永遠におこらない。

 

 

徒弟制度とか、特殊な状況は知らないけれど、ある知識が正しかろうが、それをどう伝えるか、ということはまた全く別の次元のことだ。

 

 

普通の場で、自分が「教える人」になっている人は、結局「正しいからこうしろ」と押しつける。どんな有用な知識を持っていても、その態度、その関わり方が、もう全てを台無しにする。

 

そういう人の扱いがどれだけのものを閉じ、疎外し、終わらせているのかを知るというところからの整えが必要だ。

当事者研究3/4 状況→反応→工夫→結果→では問題とは何か、のサイクル

土曜日の当事者研究の集まり。

 

大事にしたいことはまずは実用的なこと。なので、気のめぐりの改善ということをまず考える。

 

あることを困ったことと感じ、その困ったことが心中で不本意に大きくなってくると生きることに滞りや支障が出てくる。その際、いきなり根本的な解決を求めてトライアンドエラーに向かってもいいけれど、その状況のなかで、根本的でなくてもいいので、少しでも気のめぐりがよくなるあり方をみつける。その繰り返しでもいい。気のめぐりが回復すれば、意識も冴えて、気づく力も強くなる。

 

その上で、どうやって研究を進めていくか、ということに戸惑っていたが、今回割とシンプルなやり方が見つかってきた。

 

1.<状況・シチュエーション>を端的に書く

2.<反応>状況に対してどのような反応が自分におこっているのかを端的に書く。

3.<工夫>その反応(大抵はネガティブなわけだけど)に対して自分がどのような対処や工夫をしているのかを端的に書く。工夫については、向谷地生良さんが例示するように、自傷行為であっても、生きるための工夫である。この工夫が世間的には問題であるとされるのだが、不十分なだけであり、この工夫や対処を悪、ダメなものとするのは問題解明に逆行する。

4.<結果>工夫をしたうえでどうなっているのかを端的に書く。そもそも当事者研究やっているということは、今の工夫で根本的解決はされていないということ。工夫にもかかわらず、何か不満足な状態がある。

5.<問題とは何か>を端的に書く。1から4まで来て、さて問題なのは何なのか。

 

3の<工夫>が世間では問題ということにされることが多いが、工夫は2の<反応>への対処として生まれてくる。反応がなぜおこっているのか、4の<結果>を踏まえ、それに対する十分な工夫とは何かが吟味されると、5の<問題とは何か>に書かれることが変化してくる。

 

5で出て来たものをさらに掘り下げていく。なぜそれが問題になるのか。問題として成り立つ基盤は何か。その基盤が成り立つ基盤は何か。行けるところまでいく。
<問題とは何か>とは、問うべきは何か、ということでもある。何を問うべきなのか。それを発見していく。

エンパワメント 内在化したものを取り除く

学びは、まず生きものが持っている自律的な更新の働きに基づくものであると思う。自律的な更新の結果としておこることは、エンパワメントだ。だから学びの結果、エンパワメントがおこる。

 


それは試験後は忘れる丸暗記のような辛い作業をしていい結果が得られるという感じではなくて、やっていること一つ一つに意味(次への繋がり)が感じられ、その結果として何かがまた生まれてくる。それがまた次へつながる。その運動の中にあるとき、達成自体の重要性は薄まり、過程の充実がある。結果や達成は、直線的に向かうべきゴールとしてではなく、充実の自然な副産物としてある。

 


エンパワメントは生きている間終わりなく続く。刻々と変化する状況のなかで、気のめぐりを維持し、勢いを取り戻す。水路を整備していくようだ。自分のなかの水路、そして自分の周りの水路、そしてその周りの水路。終わりがない。だがそれは苦労ではない。現在の気のめぐりの状態が少しでも良くなることは、そのまま喜びとして感じられるからだ。

 

当事者研究、リフレクティング・プロセス(オープン・ダイアローグ)などの学びの場はエンパワメントのための場だ。自律的なエンパワメントの働きが回っていくようにする。自分たちで水路整備をする力、調整する力を身につけていく。

 

人間の場合は、内在化した規範がエンパワメントを阻害する。一旦頭の中に出来上がった反応のシステムは強い自己保存の動機を持つので、放っておいても変わりにくい。

 

本来エンパワメントのサイクルが最も自然にまわる状態で、反応のシステムもセットアップされるべきなのだが、そのシステムは、危機状況に対する防衛として出来上がっている。生きものには豊かに生きる理屈よりも、歪んでいようが何が何でも生き残るという理屈が優先で働く。よって、エンパワメントのサイクルより、単純な危機反応の集積になってしまう。

 

そのこんがらがった反応のシステムを解きほぐす。解きほぐしまでできたら、あとは気のめぐりがセットアップしてくれる。エンパワメントのサイクルが巡るもとで、再セットアップされる。

身をひたす

人に直接働きかけることによって、直接的な効果を得るのではなくて、働きかけたり調整するものは場の設定だと思う。


豊かなものとは派生的なものだ。そして派生的なものは自律的であり、自己展開する。派生的なものが持続的であり、派生的なものを発生させ、そこにゆだねられる状態になるために、場を調整する。

 

自意識がいちいちああしようこうしようと選択し続けている状態は疲れるし、持続的ではない。そもそも自意識、思考が優先になる状態とは、防衛が優先になっている状態だと思う。過去にしがみつく状態。

 

自意識で操作するのは、最終的に場に派生するものへのゆだねに持っていけるように環境を調整することであって、そのゆだねに入った時に、それまで投資したエネルギーは、払った以上の豊かさとなってやってくる。

 

作ろうとしている話しの場は、学びの場。日常の価値規範への一体化を一旦やめ、離す。距離を変えてみる場。喋った瞬間、直ちにいいとか悪いとかこうすべきにならない場によって、固まってしまったものがほぐれるために出てくる。

 

きっかけは外からのものであれ、無自覚であれ、自分自身によって抑圧していることが、状態を固定化させる。だが、固まったものは何度でも違和感や苦しみとして表れてくる。気のめぐりは、終わりなくその滞りを解こうとして働きかけてくるからだ。
気のめぐりは、自意識の価値規範や何かへのしがみつきに対しては、都合の悪いことを要求してくる。自意識は自分を守るために、その求めを遂行するための手間暇や代償を拒む。

 

だが、実のところ主体は気のめぐりだ。生きているの自分では自己更新できない自意識ではなく、気のめぐりなのだ。エネルギーや新しいものはそこからやってくる。どんな無理難題を要求されているように思えても、それを何とか調整して気を通すしか、生を充実させる選択肢はない。

 

抑圧が過ぎると、抑圧されたものは暴走して出てくる。破壊的になる。だから暴走の前に、場を整え、出てきてもらう。出てくるものが持つリアリティは、場の質をまた変える。場の質が変われば、また人から出てくるものが変わってくる。

 

この循環にたどり着けば、「仕事」は場がやってくれる。

 

理論ではなく、身を浸し、このような循環の感覚を共有してもらうことが重要であって、この感覚が根づけばいちいち考えなくても、開ける方向性ややったらおかしくなることが感じられるようになる。その感じに照らしながら、考えや行動を自然と調整していくということができるようになると思う。

手をつけてなかった自由

いかにも春という感じの草が庭にも生えてくる。

 


庭のミツバは去年の夏の干ばつで全滅したのか、芽は見当たらない。ミツバかと思った発芽はセロリだった。セロリも一旦タネが落ちれば野良生えを繰り返すタイプ。コリアンダーも出てきた。

 

畑では腹にたまるものを作る、というのが糸川さんの自給農法の哲学。作ってたら作っていたで別に畑のハーブを見ても何か言われることもなかったけれど。

 

糸川さんが何の重要性を指摘しているのかと考えると、やはり、自分の暮らしのあり方を規定している外枠に働きかけようとするのか、それとも今の枠組みはそのままで内側でやりくりしようとしているのかということなんだと思う。

 

芋や豆など腹にたまるものを自分でまかなうならば、いわばお金への基本的な依存具合を調整することができる。生活のあり方全体を自分の最適状態にずらしていきやすい。

 

ハーブ、香りのものなど、ちょこちょこしたものを作るのは、お金の節約にはなり、その節約分を他に使うということができるけれど、生活の外枠を変えるというよりも、決まった外枠のなかでのやりくりという感じだ。

 

自給の意識としては、自分の暮らしのあり方を規定している外枠自体に働きかけるということが重要だ。そのときの生きている感覚は、決められた枠組みの中で従わなければいけないと思っている状態とはまるで変わっている。

 

岩倉の畑の実習、5年目にもなると、年間参加者だった人たちが技術を身につけ、それぞれ別の畑を持つようになってきて、独立し、次にタネのシェアやコラボのあり方などを提案してきてくれる。

 

自分はもう決まっている枠組みの「参加者」なのか、それとも枠組み自体を自分がデザインする主体、戦略的に必要なものを得ていく狩人なのか。実のところ、作物づくりがある程度できるようになること以上に、その意識の変化が重要であると思う。

 

働きかけ次第で、状況はまるで一変する。自分に最適化した状況をつくることができる。誰かの枠組みでやっているときは、働きかけについてもその枠組みの範囲内でしか融通が効きにくい。だが、ある程度独立し、自分の枠組み、自分の媒体をもっていくと、二次元だったものが三次元になるぐらいの変化がおこる。まるで手をつけてなかった自由の存在を知り、その未開拓の資源、可能性の大きさに驚く。

話しの場 自給的学びの場


なぜ今の形の話しの場をやるのかと訊かれて、話しができる環境をつくっているからとこたえた。長いスパンで見たら環境を育てていく、つくっていくということが伴わないと結局自分の状態も停滞するのは個人的な感覚では明らかだから。

 


一般的には6人ぐらいの集まりでも少人数にはいるだろうけれど、今のこの集まりの最適人数は3人から4人。6人は多い。その半分ぐらいでようやく話しがある程度できるという感覚。

 

そして僕は自給型の場づくりを常に目指している。長期的に目指すところがあっても、その過程が退屈だったり作業のための作業になるなら意味はない。完成されてからその後に人にシェアするのではなく、自分が内発的な動機と繋がり、どこかにいく途中の熱、そのプロセスから生まれるものが、場にいい刺激を与える。この熱を使う。

 

自分も進みながらその過程を共にシェアするという学びの場。一人一人が口を開けて餌が入るのを待つ学びではなく、狩りをしているモードでその場にいる。場を作り、学びが展開しないのは、内発的動機とつながってないためだ。本当にやりたいことをやるのが重要。

 

昨日、めぐりについて書いたけれど、めぐりは外からやってくる。自分のことを本当に真面目に考えるなら、周りの環境を良くするために働きかけるのは、いずれ必然になる。個に閉じる、小さなグループだけが幸せであればいいという考えは、不十分な自助であり、実は既に追い詰められているからこそ浮かぶ考え方なのだ。

息とめぐり

日曜日はからだとことばのレッスンへ。

 

一ヶ月あいて久しぶりに行くと二ヶ月前にお会いした人の雰囲気が結構変わっている。
座った状態で息の入りをお腹まで通す。この時は自分でやるのではなくて、講師の瀬戸嶋さんが手で直接顎を押したり、背骨と胸を押したりして調整する。自分ではまっすぐ座っているつもりなのだが、息が通るようにはなっていなくて、またそれを全然自覚もできないので。

 

腹に空気が入るのを感じるのは重要とのこと。確かにそれを意識すると力を入れたりとか、何かへの反応で腰がすぐ反ってかたまるのをまた少し緩められる。
息の重要性をまだ実感していないけれど、息とはそれ自体がめぐりであり、他のものをめぐらせるものであるなあと思った。

 

この前、熊倉聡敬さんがエスコーラで、エネルギーが生体に実際にどうやって生まれ、どのように流れるのか、という最近読まれた生物学の本の話しを紹介してくれたけれど、生命の主体を、物質的な身体ではなくエネルギーの流れとして捉えるならば、人間イメージはだいぶ変わるだろうなと思う。

 

体のバランスは、割と固定化されていて、野口晴哉さんなどの考えでは、風邪のような、あえてバランスを崩すものを体に引き入れ、経過させるぐらいのことをして、ようやく再構成される。『無意識の発見』の著者エレンベルガーは、歴史上の人がクリエイティブな活動をする前段階で、長い神経症的状態を患っていることを指摘し、それを「創造の病」とよんだ。

 

心というものも、聞こえは自由そうだけれど、実は割と堅い、物理的構造に固定されているように思える。その不自由な、固定化された状態を持って、自意識や物理的身体を主体であると考えるより、風邪をひき入れ、自身を再更新するような、他者を含めたまるごとの環境をもって一つの主体と考えたらどうだろう。

 

他者とのやりとりができなければ、自身の再更新ができないのなら、他者や環境を含めて、一つの主体なのではないだろうか。小児科医ウィニコットが「ひとりの赤ん坊などというものはいない。いるのは一組の母子だけである。」と言ったみたいに、人は単独で自己更新する能力がないのだし、自己更新を可能とする環境まるごとふくめて一つという見方が実態に即しているのではないかと思う。

 

既にある物理的構造ではなくて、そこに流れ込み、更新させるもの、巡ってきて、変化を派生させ、通り過ぎていくもの。そちらの方が生命、という感じがする。

 

そういうものが主体であるとき、自分の能力の多寡とか、限界とか、自分の変わらなさとか、足りなさとか、そういうものはあまり重すぎるものではなくなって、ただエネルギーや生命の通路としての身体や心があって、それを更新していくものへの不思議さや感嘆があるのではないだろうか。

 

その時、物質的な身体や心は仮のものであり、更新をおこす自律的なエネルギーのめぐり自体が本来的な自分であるというアイデンティティの移行があるのではないだろうか。

 


エネルギーのめぐり、気(持ち)のめぐり自体を軸に置くほうが、人の回復や変化は速い。問題解決自体よりも、問題によって停滞させられている状況の気のめぐりを改善していけば、問題は派生的に解きほぐされていく。

 

だから息というめぐりにより近づいていくならば、そのめぐりによって、身体なり、心なりという後のものが変わっていくのだろうと思う。

 

畑も空気のめぐり、水のめぐりというめぐりの環境の整備があって、健康になる。めぐりの構造が健全であれば、作物は自然に健康に育つ。

 

既に自律的な気のめぐりがある。生きるという刻々の変化のなかで、どうすればそのめぐりを健康に維持できるのか、あるいは詰まりや停滞をとっていけるのか。元の勢いに戻すことができるのか。それが問うべきことなのだと思う。

 

人は別に特別な自分にならなくても、めぐりの勢いを本来の状態に戻せば、十分満たされご機嫌になると思う。