降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

カーリングのように 4/1カフェスローのローカリゼーション・カフェ

東京のカフェ・スローで4/1に「おふくろさん弁当」の岸浪龍さんのお話し会。

cafeslow-even.jugem.jp


環境を整えて、ゆだねる。その認識が大事だと思う。「自分でやる」のは、整えまで。

 

ただただ整えていく結果、やがてゆだねられる環境ができる。

 

ゆだねによって、変化のプロセスはぐんとすすむ。最後まで自分でやると思うと、疲れるし、人は助けてくれないものみたいな前提を抱え込んだりするので、恨みが募り、人に厳しくなる。

 

自分、自意識が自分を変えたのではない。それは現実ではない。ゆだねた環境が変える。すると環境や人への感謝がおこる。それがまた基盤となって、人は回復していく。それが循環だ。

 

カーリングみたいなもので、人為はもともとのストーンが持つ力や動きを活かすことができるだけ。自分はストーンを発射するもの、だから動かさねばと勘違いしたり、ストーン自体に直接手を出して無理やり止めたり動かしたりしようとすることは状況をより停滞させる。

 

人間のストーンは自意識が動かさなくても自分で動いている。繊細にその震えを感じ、先の露払いしたり、障壁を整理していくのが自意識の仕事。自意識は王様ではなくて、調整役だ。身の丈をこえて、王様と錯覚すると、工夫は雑になり、力で知恵の輪の穴を開いていこうとして、出来ず、落ち込む。

人心地と学び

「先生」になる程の知識とスキルを身につけなければ学びの場は作れないのか。

 

 

もちろん、ただ集まればできるとか、とりあえず続けていったら成り立つとか、そういうこともない。

 

 

動機の強さは、その場でおこるやりとりの質の高低、場の持続性にも直接的に影響する。

 

 

「〜を勉強しないといけないと思っているんです。」という言葉それ自体は、「勉強」をすることの強迫を打ち消すためにしゃべられていると思う。

 

こうしなきゃいけないと思ってるんですよね、と言えば、その強迫の緊張がその場で一瞬消えるのだ。また人の前で言うと、自分がそれをやる人のように錯覚するので一時的に高揚する。実のところは錯覚によりその高揚感を得るのが無自覚な目的となっている場合もある。

 

 

強迫とやりたいは違う。強迫は恐怖なので、恐怖が薄まればそれ以上やる動機はない。なので、やりたいと言っていることではなく、恐怖が薄まる行動をずっとするという現象がおきる。

 

 

やりたいは、持続的な動機だ。世人に受けが良かろうが悪かろうが関係なくある動機だ。

 

それが感じられないのは、それがあったら日々を生きていくのに不都合だからだと思う。認めると生きる時の手間が増え、もしかしたら緊張するようなこともする必要が見えてきたりして、困るのだ。

 

 

今あるものが減るのは困る。安定が崩れるのは困る。その代償として、自分がより深く感じていることを感じないようにしていく。表面的な刺激で麻痺させ、その刺激への動機で自分をコントロールし、成り立たせようとする。

 

 

学びの場の意義の一つは、一旦そういう日常の強迫と表面的刺激の追い求め(それはよりより強いものを必要としてくる)から距離を取れることだと思う。サバイバルモードになっている状態に人心地を戻すためには、普段と別の理屈で成り立っている場が必要なのだ。

 

 

人心地を回復していくと、それまで自分が妥当だと感じていた強迫が本当に妥当なのかという目で見る余裕が戻ってくる。他人の多様な視点や考えが程よく入ってきやすくなる。

 

 

強迫に距離を持って観察し、強迫に突き動かされていること自体が苦しみなのだと気づいていく。よく見ると、その強迫に従うのは、結局割に合わないということが見えてくる。表面的に浮かび上がってきた苦しみの下に見えなかった今まで知らなかった苦しみ、見えなかった苦しみが見えてくる。

 

 

意識すべきは、まさにその下の苦しみなのだと自覚した時、やりたいことは変わっている。恐怖に見えなくさせられていた「やりたい」は、実は、下にあるより深い苦しみを認め、それを救っていく動機なのだと思う。それは持続的であり、生きる手応えをもたらす。

 

 

人心地をつける。そして気づきを誘発する場を用意しておく。記憶やデータを現在の状態にそのまま蓄積するのではなく、現在の状態の解きほぐし、更新していくための場を設ける。

 

 

でも、まずは自分の人心地をつける場を一人でも二人とでもいいから、自分のデザインで作ることが始まりだと思う。人心地をつけるところから学びのプロセスはスタートしている。

 

 

やがて求めが見えて来れば、また自分でその求めを遂行していく枠組みを考える。その繰り返しが学びのプロセスであり、学びの場なのだと思う。人心地をつけ、自分に戻るということを抜きにした知識やスキルの集積は、古いOSにアプリをいっぱい入れていくということだと思う。

 

 

既知のことの繰り返しでないのでお茶の子さいさいというわけにはいかないけれど、人は自分というOSを周りとの関係性において、更新していくことができる。そしてそれは自律的な体の動きや求めとしてある。

 

学びは、まずその自律的な生きものとしての動機やプロセスを前提に位置づけるべきものなのではないかと思う。

リアリティ 「明日」に支払う代償

「成長」した暁に、本当の自分になり、本来あるべき体験ができるという考え方がある。自分なりに人の変化を確かめてきた結果、僕はそのようには思わなくなった。

 


深刻なトラウマを抱えた人が「回復」に長い時間かかる。その回復までの期間は、どちらかというと残念な時間なのか。

 

「成長」途中で死ぬのは残念なことなのか。一般論ではそうかもしれない。しかし、個人の生の充実は生きている時間が短いとか長いとかは関係ないのだ。

 

生の実体は死ぬまでずっと途中にある。その過程において、深いリアリティと繋がり、そのリアリティを生きるならば、心は充実する。

 

今自分が生きているリアリティがある。生が虚ろに感じるなら、今知っているリアリティでは不十分になったということだ。より深い実感、より深いリアリティを探していく。より実感を伴う言葉、体験を探し、確かめ、意識に汲み上げ、より深いリアリティにつながっていく。木が根を下ろすように、深いところに水はある。

 

前にも書いたけれど、心臓の弱かった遍路さんが歩けた2キロと、ハンディが少ない人の2キロのリアリティの深さは違う。それぞれの人にとってのリアリティがある。限られていれば限られているほど、潜在的に体験できるリアリティの感覚もまた高まる。

 

深いリアリティを失うのは、目先の利益や恐怖の代償として、自分の実感の深さを犠牲にし、差し出ていくからなのだと思う。だから逆のことをやっていけばいい。より深いリアリティの方を大事にしていく。それを感じ、そのリアリティで動く。そのことは、多分、世間一般的な「幸せ」を安定させ、不動のものにしていくこととは、矛盾することが多い。

 

生きるために死にながら生きる。リアリティを引き換えにすればするほど、心は死んでいく。うまくいっているときはそれでいい。だが、潜在的には誰もが、些細なことで、人生ゲームのマス目の外に出てしまう。マス目の外に出たとき、もはやリアリティの深さ以外に割りに合うものはない。

 

より深いリアリティを確かめ、探しあて、それを生きていくことによって、生は充実する。明日、来週、来月、来年まで待つ必要はない。どこかへいく途中のこの生のひと時ひと時に自分で感じられる限りの最も深いリアリティとつながり、妥協なきリアリティを生きる。それで心は救われていく。

 

自分の本当にやりたいことは、考えつく限り最悪の死に方をするとき、何が後悔されるかでわかると思う。死は他者であり、コントロールできない。にもかかわらず、ギブアンドテイクで、コントロールしようとする代償が、リアリティなのだ。

 

明日の生、10年後の生、50年後の生まで「安全」「確実」に幸せしようとするとき、リアリティは失われていく。だが、その意図が全く裏切られた時、死のコントロールができないことに直面した時、リアリティはまた顔を出す。

 

あと10秒しか生きられないなら、その10秒に最も深いリアリティをぶつけ、生きる。心はそれで充実するだろう。「成長」まで待つ必要はない。「達成」も過程を充実させるための方便でしかない。今、この過程に自分のより深いリアリティを汲み上げて生きる。奪われたものが多くても、その分だけリアリティの凝縮性は高まっている。

尽くすことと学ぶことの違い

大学の学部は心理カウンセリングの学科にいたけれど、人の悩みをずっときく仕事につきたいと思ったことはなかった。自分が聞いて、その人が楽になるなら聞きたいという気持ちもなかった。

 

 

一方、年間を通した当事者研究の集まりをやっていくなかで、参加者が日常で何かひっかかりがあったり、この事を考えたいということになったら、随時追加で話しの場を設けたいと思っている。

 

 

「問題解決」自体に関心はない。あることへのひっかかりや葛藤がどのようなからくりでできているのか、そして話しの場でおこっていることとは何なのか。それを自分なりに明らかにして、掴んでいきたい。まずその動機がある。

 

 

当事者研究に参加する人は、受動的な「被害者」ではなく、学ぶ人だ。ひっかかりや葛藤の仕組みをみていく。問題解決が目的なら「問題」が解決した瞬間にやることは終わる。ひっかかりや葛藤がどのようにおこるか、それを各人が学びたい、面白いと思うとき、「問題解決」というのは、学びをすすめる過程のとっかかりや副産物に過ぎず、学びは続いていく。

 

 

そして、話しの場で、気持ちの解きほぐしや、「問題」となっていることの解きほぐしが、共にできるようになっていくことをやりたい。「問題」が観察され、気づきがおこるための場の整いとはどのようなものか。それを体感で共有する。何が邪魔していて、何が状況を展開させるのか。その感覚を各人が掴む。

 

 

僕は当事者研究を通して、環境をつくる、という事をやっているつもりだ。個々の「問題」を逆手にとって、学ぶ人になり、話しの場をそれぞれがつくれる人になる。そういう人たちが周りに普通にいるという環境を作りたい。僕の認識では、自分が求めるような話しの場は作らないなら自然には存在しない。

 

 

僕はそこまで揃ってはじめて、いわゆる「人の悩み」を聞くというかたちが負担ではないし、学びになる。日常でやれる。週に何回やったとしても、疲れなくなる。むしろ充実していく。

場の整い

こころゆく話しの場は、どのようにできるのだろうかとずっと試行している。

 


自分の求める感じが成立するために必要な要件の一つは、発散の場ではなくて、学びの場であることだと思っている。

 

更新していく場であること。自分の捉え方、考え方、反応の仕方ということを含めて、見ていける場所であること。それによって、場が健康的に持続的になると思う。

 

前も書いたけれど、相手の話しを受け取った瞬間の初動の反応、認識を観察することを大切にしないと、話しが聞かれている状態にならないなとも思っている。

 

年間を通した当事者研究やオープンダイアローグ研究会は、同じ話しの繰り返しにならないため、そして自分の自動的な反応や認識に観察を入れるための設定だ。

 

心が本当に満足するのは、聴かれたということ自体ではないかもしれないと思う。聴かれている、尊重されているという場の整いがあり、その上で気づかれたり、流れ出てくるリアリティがあり、より深いリアリティに自分がたどり着くことによって、満足しているのではないかと。

 

聴くということは、場の整いを手伝うということで、「聴いている自分」が直接場を変えているわけではない。「私の聴き方」に意識が行きすぎるけど、場の整いと考えるなら、もう少し自分のあり方についての意識が変わってくるのではないかと思う。

 

どんな場所でやるか、どんな時間にやるか、どんな人とやるか、何人でやるか、全てが場の整いに関わることだ。

 

そしてその人の信念ですら場に影響する。「話しを聴かなければならない!」と自分に強く課している人は、その雰囲気が出るし、それが場にそうじゃないといけないような空気を漂わせもする。

 

実は違和感を持っていて顔に出ているけど、そのことに本人は気づかないということもある。自分に意識を持ちすぎると、多分、場の整いというところからはどちらかというと外れていく。

当事者研究のプレゼン準備

当事者研究の集まりを京都の3箇所で始める。

どういう趣旨でやるかを考える。A4の紙のプレゼンで紙芝居的にやろうと思う。

あと1時間後に発表する準備を今からやってみる。

 

なぜ当事者研究をやるか

そもそも当事者研究とは

→北海道の浦河べてるの家で始まった手法

 →浦河べてるの家精神障害のある人のための施設。「苦労を取り戻す」「三度の飯よりミーティング」「手を動かすより口を動かせ」など既存の発想を超えた革新的な考え方や取り組みで注目されている。

→専門家に問題解決をお任せず、問題を持った当事者同士が集まり、自分で自分の問題を「研究」し、そのからくりや対処法を研究し、発表する学びの場。

 

効果

→問題に対して受動的に苦しめられるだけだったのが、逆転し、問題があたかも人とやりとりする「ネタ」のようになり辛さが激減する。

→専門家でも思いつかないような対処法が編み出される

 →当事者間の関係性が育つ 

 →弱さを認め育てあえるお互いになっていく

 

なぜ当事者研究をここでやりたいか

→「専門家」が「患者」を治療することから生まれてくるものが少ない

→「素人」が自分たちで自分たちの困りごとを話し、自ら答えを見つけられる環境の方が重要だと思うこと

→必要なことを自分たちで満たしていくことが、人と人の関係性を育て、自己効力感を増大させていくと考えること

自分の当事者研究

→最近オープンダイアローグのワークショップ行ったりして、他人に対する怒りがどのような時に出るのかパターンのようなものが感じられた

→パターンは、正しくあらなければならない、無自覚であってはいけない、などの「べき」という自動反応する信念によって現れているようだった

→生育歴などを振り返ると、無自覚な大人への怒りや、あのようにあってはいけないという強い反発が内在化したように思える。

→また叔母から親がいない時、無理やり組み敷かれてキスされるということが続き、叔母のような存在への嫌悪感、汚されたものとしての自分というものができた

→叔母のような「キモい」存在になってはいけないが、自分が「キモい」という感覚が払拭できず、その反動として、過剰な正しさや我慢するべき、みたいな信念が内在化した。

初動の認識 対話が成り立たない理由

アズワン鈴鹿コミュニティは、「当事者研究」で、対話の成り立たなかった状態から対話が成立する状態をつくりだすことに成功した。

 


一旦コミュニティ的な集まりを作っても、距離が近くなって他人行儀に限界がくると、途端に人の行動や言動が許せなくなる。一旦こじれれば解きほぐすことはもうできず解散や停滞、がよくあるパターン。

 

これを乗り越えるためには、人にあった瞬間、言葉を聞いた瞬間、状況に出会った瞬間に、自分の認識のプロセスがどう働いたかをみる観察が必要だということがわかった。「〜は、〜である」が自動的に頭のなかで決まり、その時もう結論が出ていて、反応がきまってしまう。そしてその反応は、一旦出たら後はストレスを抱えたまま我慢する程度が精一杯。

 

そもそもの反応が出るからくりが観察されると、頭のなかできまっていた「〜は、〜である」が成り立たなくなり、初動の反応自体が消える。

 

鈴鹿コミュニティから京都に帰り、普段の生活をしていると、自分がそれをできているというわけじゃないけど、観察を日々の営みに取り入れている鈴鹿の人たちとの違いの大きさがよくわかる。

 

相手が何か言った瞬間、ただちにそれは自分の頭のなかのそれであると認識し、感情的な反応がおこり、自分の認識の話しをはじめる。

 

ちょっと待とうよと思う。自分は相手の言葉をどう認識したのか、相手はどういう意図で言おうとしていたのか、まずはそこからいかないと、反応は観察されず、いつまでも繰り返される。

 

この初動の反応に対して意識を持たないと、話しはお互いを変えていくキャッチボールじゃなくて、同意のない千本ノックを受けている感じになる。

 

鈴鹿の人たちは、その観察に間を一拍置く。話しをしていても、ただちに否定に入るとかしないし、それはこう思うべきだとか押しつけない。延々とした持論の展開にもいかない。

 

聞かれた話しは、話したほうにも観察される余地を残され、不完全燃焼のための沢山の一酸化炭素が出てくることもなく、消化されていくプロセスに入る。

 

鈴鹿は、この観察が日常的に続くように仕組みを作った。コミュニティ内に合宿ができるスクールをつくり、平日夜もゼミがあって、興味関心が持続する環境が作られている。

 

これからやる当事者研究の集まりは、そこまで大きな仕組みを整えきれない。限られた条件でどこまでできるのか。

 

オープンダイアローグの手法や、演劇的手法など、有効な手法を自分たちのカスタマイズでやっていくというかたちを探る。