「先生」になる程の知識とスキルを身につけなければ学びの場は作れないのか。
もちろん、ただ集まればできるとか、とりあえず続けていったら成り立つとか、そういうこともない。
動機の強さは、その場でおこるやりとりの質の高低、場の持続性にも直接的に影響する。
「〜を勉強しないといけないと思っているんです。」という言葉それ自体は、「勉強」をすることの強迫を打ち消すためにしゃべられていると思う。
こうしなきゃいけないと思ってるんですよね、と言えば、その強迫の緊張がその場で一瞬消えるのだ。また人の前で言うと、自分がそれをやる人のように錯覚するので一時的に高揚する。実のところは錯覚によりその高揚感を得るのが無自覚な目的となっている場合もある。
強迫とやりたいは違う。強迫は恐怖なので、恐怖が薄まればそれ以上やる動機はない。なので、やりたいと言っていることではなく、恐怖が薄まる行動をずっとするという現象がおきる。
やりたいは、持続的な動機だ。世人に受けが良かろうが悪かろうが関係なくある動機だ。
それが感じられないのは、それがあったら日々を生きていくのに不都合だからだと思う。認めると生きる時の手間が増え、もしかしたら緊張するようなこともする必要が見えてきたりして、困るのだ。
今あるものが減るのは困る。安定が崩れるのは困る。その代償として、自分がより深く感じていることを感じないようにしていく。表面的な刺激で麻痺させ、その刺激への動機で自分をコントロールし、成り立たせようとする。
学びの場の意義の一つは、一旦そういう日常の強迫と表面的刺激の追い求め(それはよりより強いものを必要としてくる)から距離を取れることだと思う。サバイバルモードになっている状態に人心地を戻すためには、普段と別の理屈で成り立っている場が必要なのだ。
人心地を回復していくと、それまで自分が妥当だと感じていた強迫が本当に妥当なのかという目で見る余裕が戻ってくる。他人の多様な視点や考えが程よく入ってきやすくなる。
強迫に距離を持って観察し、強迫に突き動かされていること自体が苦しみなのだと気づいていく。よく見ると、その強迫に従うのは、結局割に合わないということが見えてくる。表面的に浮かび上がってきた苦しみの下に見えなかった今まで知らなかった苦しみ、見えなかった苦しみが見えてくる。
意識すべきは、まさにその下の苦しみなのだと自覚した時、やりたいことは変わっている。恐怖に見えなくさせられていた「やりたい」は、実は、下にあるより深い苦しみを認め、それを救っていく動機なのだと思う。それは持続的であり、生きる手応えをもたらす。
人心地をつける。そして気づきを誘発する場を用意しておく。記憶やデータを現在の状態にそのまま蓄積するのではなく、現在の状態の解きほぐし、更新していくための場を設ける。
でも、まずは自分の人心地をつける場を一人でも二人とでもいいから、自分のデザインで作ることが始まりだと思う。人心地をつけるところから学びのプロセスはスタートしている。
やがて求めが見えて来れば、また自分でその求めを遂行していく枠組みを考える。その繰り返しが学びのプロセスであり、学びの場なのだと思う。人心地をつけ、自分に戻るということを抜きにした知識やスキルの集積は、古いOSにアプリをいっぱい入れていくということだと思う。
既知のことの繰り返しでないのでお茶の子さいさいというわけにはいかないけれど、人は自分というOSを周りとの関係性において、更新していくことができる。そしてそれは自律的な体の動きや求めとしてある。
学びは、まずその自律的な生きものとしての動機やプロセスを前提に位置づけるべきものなのではないかと思う。