降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

差し出すものの足りなさ ゲリラであることとエンパワメント

自給の目的は金銭的節約でもなく、サバイバルだけでもない。自給の第一義は、自分のエンパワメントだ。そこがブレると何をやっているのかわからなくなる。


僕が自給農法とその考案者の糸川勉さんに学びたかったのは、生きものの理屈。生きものの身体が持つ動機。そして自分を軸とするとはどういうことかということ。
糸川さんが作物の育て方や生態の話しをするとき、僕はそれを作物の話しであると同時に、むしろ人間の話しとして聞き、自分を軸とした畑での作業のデザインを自分が生きていくあり方のデザインとして聞いていた。

 

自分の軸からズレることによって自分は疲弊していく。軸とはエンパワメントの軸。自給農法を学ぶことは、その軸を再吟味し、軸に戻っていくリハビリになる。
社会で流通している理屈は一見もっともらしくまとまりを持っている。しかしそこには無意識に取り入れると自分を弱めていくまがいものが入っている。

 

畑の現実、作物の現実は一片の意図的操作も妥協もなく現実そのまま。誰が何と言おうと、何を肯定し、何を否定しようと現実はそこにある通りだ。そのとき現実に対照されて露わになったまがいものが破綻していく。

 

「〜であってはいけない」「〜しなければいけない」と無自覚に思い込んで自分を弱めていたことから自由になっていく。

 

自分に責任を持つということがどういうことなのか。それは自分のエンパワメントに責任を持つということ。

 

社会はギブアンドテイクで出来上がっているようにみえる。ギブするものがなければテイクされるものは少なく、それが自分の「商品」としての価値だ。自分の価値とは他者にとっての利用価値だ。

 

生きものの世界はそうだろうか? 生きものの世界は一人ひとりがゲリラの世界だ。どこにも自分のものはなく、ゲリラとして必要なものを世界から奪い、いただく。ゲリラであることによって生きることは構成されている。

 

そして人間の世界に帰ってみる。人間の世界も実はゲリラの世界だ。出来上がった世界に従っているようで、それぞれのものは間隙を抜い、自らの危機を乗り越え、また欲求を達成している。用意されているものとは、表層的な、にわかのものに過ぎない。

 

そのとき、どれだけのもっともらしい理屈が、絶対的に強いもの、あるいは相対的に強いものが自分の都合のいいように弱いものをコントロールしようとする動機に基づいているのが見えてくる。

 

それらは「人は〜あるべきだ」「人は〜しなければならない」と言いながら、それに従った人がたどる末路に責任をとるつもりなど毛頭ない。強いものは他人にギブアンドテイクを強要しつつ、実は自分はギブするつもりなどないのだ。力で自分で作った理屈を無効化する。

 

その時自分を弱めているのはギブアンドテイクだと気づくだろう。ギブしてもらうためにはテイクされなければならない。その取り引き、コントロールを無自覚に信じているからこそ差し出すものの足りなさにおびやかされる。

 

自分が生きること、自分のエンパワメントを誰かや何かに預け、放棄しない。生きることは本質的にゲリラであり、そこを否認することはできない。そしてそのことを知る時に戻ってくる力がある。

修復的司法講演録②『被害者と加害者の対話から生まれるもの〜個人から関係へ〜』を読む

修復的司法というのはどんなものだろうと気になって冊子を取り寄せる。

 

みんなで作り上げたテープ起こしの文章が冊子になりました : ピアサポートネットしぶや



「司法」という言葉から、まず国の制度の話しなのかというイメージを受けていたけれど、そうではなく真逆で被害者と加害者の処遇がすべて国家に管理されるところを当事者主体に引き戻し、被害者と加害者の対話によってお互いが納得する地点に向かっていくという考えのもとにある仕組みだった。


修復的司法は1970年代以降に西洋諸国で広がったもので、北米で少年事件の加害者が被害者と対話したことが最初の実践であるとされる。何度も窃盗を繰り返す少年が一人ひとりの被害者の家に行って、謝って賠償の約束をした。被害者の顔を見て話しをすると少年たちは真剣に自分の罪に向き合うようになった。ここから加害少年の更生には「被害者と対話すること」が役に立つと考えられ、加害者更生プログラムが生まれた。
ただし、世界各地ではこのプログラムだけでなく、刑事司法の制度の枠組みを超えるような考え方が広まっていった。それらは大きくは3つほどの考え方になる。

 

(1)市民による紛争解決
法律家に頼らず、市民が自分たちで紛争解決をしていこうという考え方。問題に直面した市民同士で「トラブルを起こした人をどうすればいいのか」「自分はどう関わるのか」を相談していく。

(2)癒しのための紛争解決
刑事司法では被害者は蚊帳の外に置かれがちで心の傷も放置されてきた。また加害者も刑務所に入れられても自分の罪になかなか向き合えないとい状況があるなかで、被害者の心の傷を癒し、加害者が心から反省して謝罪することを重視。被害者と加害者の対話の中での心理的な問題に取り組もうとする考え方。

(3)伝統的な紛争解決
マオリ族は、トラブルが起きた時に集会場で対話することによって紛争を解決してきたが、植民地支配によってその文化が破壊され、刑事司法にとってかわられた。元々あった文化を活かすという紛争解決の考え方。
以上の考え方は、どれも専門家でなく当事者が主導で紛争を解決をめざそうとすることで共通している。もちろんいきなり被害者と加害者を対話させるのではなく、あくまで当事者の気持ちを尊重したうえで入念にスタッフとの対話を繰り返した後に対面での対話が行われるとのこと。

 

修復的司法では、犯罪やトラブルは個人の問題に帰するのではなく、コミュニティや周りの人との関係の問題と考える。ある人だけの問題として片付けるという見方はしない。

 

個人が自分の責任で自分の権利に干渉してくる他者と交渉しながらやっていく個人主義と助け合いがあると同時に縛り合いを生んでしまう要素をもつ共同体主義という観点からみると、修復的司法はどちらかというと共同体主義に属するようにみえる。

 

共同体主義主義は、時に全体のためと称してマイノリティの声が抑圧される傾向や同一でないと認められないことがおこりうる。修復的司法はそこに対話という仕組みを設定し、共同体の既存の規範と外れる個人がいるならば抑圧ではなく、相互に納得のいく着地点を探すということを組み入れたものと考えられる。

 

ドイツの哲学者ユルゲン・ハーバーマスは、人はそれぞれ大事にする価値観が違い、コミュニティのなかでもそれぞれが違う価値観について語り、対話していくなかで「妥協」するための能力をもっていると考えた。すべての人が発言し同時にそれが尊重される機会をもち、相互理解に至ったうえで「妥協案」として出てくるものを重要視し、それを「対話による正義」とした。この時この正義は絶対的なものではなく、規範を破るものがいればまたコミュニティのメンバーは対話して合意に至ることを繰り返す。修復的司法は、このハーバーマスの考えを実現しようとするものともいえる。

 

修復的司法の実践例として紹介されたのが車泥棒の14歳の少年と車を壊された被害者の事例。被害者は当初少年に賠償を求める意思があった。だが対面したときに思っていた以上に小さく不安気な少年に対して怒りの気持ちは変化し、賠償費用をとるという気持ちが消えていった。

 

一方、少年は責められるつもりで対話に臨んだが親身になってもらい驚き、感情を揺さぶられる。その後対話は、少年の母親も参加することになり、少年がもう犯罪を繰り返さないために今の環境から引っ越すことが決まった。

 

これは上手くいった事例ではあるが、被害者と加害者が隔絶されることによって、被害者は加害者の貧困の状況など関係なく賠償を求め結局は意味のない無理な要求を押し通し、それは社会からは妥当なことと判断されるかもしれないが、大きくみれば状況の根本的な解決にも理解にもなっておらず、人を追い詰め、犯罪が繰り返される可能性は高まる。

 

また心理的な面についても、相互の赦しということも生まれず、単に損しただけの時間があり、そこから人が回復の契機がおこるということもないだろう。そこには「処理」しかない。

 

冊子をみながら思ったのは、紛争の当事者やその周りの人が共に話し合うという点など、オープン・ダイアローグのやり方とよく似ているということ、対話はやはりお互いの認識と関係性を変えていくということ、先日投稿した「個の尊重と調和」の場で検討されたことと共通するなということなど。

 

鈴鹿コミュニティの「話し合いのできるお互いになりあうこと」が重要だなとあらためて思う。「お互い」ということが大切でどちらかだけの「傾聴」とか、「専門家」の調停がありきでは決定的に不十分だと思う。

 

僕は鈴鹿でいう「話し合いができるお互い」を「対話ができるお互い」と言い換えられるのでは思っている。対話とは相手が自分と全く違う価値観をもっている他者であること、そしてその相手に自分の理屈や価値観を強制せず、お互いの存在を尊重しながらやりとりすることによって両者は変わっていき、既知の答えや状況ではない、第3の場所に向かうと思う。

 

専門家でなく、対話できるお互いになれるかという点が問われる。オープンダイアローグを実践しているケロプダス病院では、全ての職員が対話のトレーニングを受け、対話できるお互いになっているため、職場では上下関係や職種による隔たりが消えていき、組織は有機的で即興的であるようだ。

 

僕は「オープンダイアローグを実践するため」でなく、対話できるお互いになるためにオープンダイアローグの実践というものが利用できるのではないかと考えている。自分の周りの関係性をケロプダス病院の人たちのようにしたとき、暮らしのあり方はどのように変わってくるだろうか。

 

斎藤環さんによると、フィンランドでは、オープン・ダイアローグにピア制度というのが作られていて、医療従事者以外の人がオープン・ダイアローグの場に入っているという。それが日本に導入されるかどうかは全く保証がないが、この指とまれの人たちとともに、その場に入れるピアに勝手になっていくというのは面白いんじゃないかと思う。そんな「たいわのがっこう」を考えている。

 

『開かれた対話』フィンランドにおける精神病治療への代替アプローチの (Open Dialogue, Japanese subtitles)

投稿させてもらったSTAGE1号が出る

STAGEという雑誌に投稿させてもらった。完成した本をいただく。

家で本が読みにくいので夜外に行ったが出てみるとあんまり遅くまでやっているカフェなりの場所がなく、次の日の朝に出る。ほんやら洞に行こうと思ったけれど休み。カレー&cafeアリーナというところに初めて入って読む。


読みやすそうなところから読む。僕と同時にしゃべり声の大きい人が店に入ってきてデコメで携帯代が高くなるとか言われたとか話しをしていて、ゆったり読むというよりは頑張って文字をたどらないとという感じになった。

 

それぞれがそれぞれのあり方で生きることを生きているなと思った。何であろうがその場所からしか生きられない。場所というのは、呪いのようなものでもあるなと思った。ここで暮らしていること、人として生まれたこと、この自分であること。全部場所だなと思った。

 

全部読むのは諦めて家に帰りながら、どこであれ自宅というのが苦手だなと思う。自宅に耐えかねて仕方なく気を逸らす。既に決まったところ。檻。放浪するたくましさもないけれど、本当は自分のものではない世界が家なのだろうと思う。
既知のモノ、既知の認識、過去に閉じ込められた亡霊としての自意識とそれを更新していく自律性。

 

弔いをする人は有意味性から解放されている。もはや損得ではなく、救われるか、救われないかということを生きている。弔いは、いつまでもやってくる明日を前提した有意味性、生き延びる合理性に支配されている生にあらがう力を持っている。

 

心に有意味性を干渉させず、かつ有意味性の世界で生きる。この二重性の獲得が救いということになるのだろうと思う。僕の弔いは、いつまでもやってくる明日を前提した世界のなかで生きていることを終わらせることだなと思う。連続性という幻想の完全な否定。別にやることなど何もないけれど、終わらせるということにはやる気が出るから。

 

『STAGE』のブログ 〜紙の上のライブイベント〜: 『STAGE』1号発売と今の気持ち。極楽カリーでの販売決定。

 

【『STAGE』1号 出演者と作品タイトル紹介】
いよいよ発売まで4日となりました。
ここで出演者と作品タイトルを紹介させていただきます!
内容については触れたい所ですが、それはお手に取っていただいてのお楽しみということで。
1.なやカフェ ゆうき
 「わたしくしごとですが、おいしかったにんじんのお話です。」
2.加藤わこ
 「おいていく」
3.赤阪まゆ
 「STAGE」
4.米田量
 「生きる力を探して」
5.青木秀光
 「混沌のライフストーリーを語るということ」
6.Pyracantha店主
 「恋のバレエ団 仔犬バレエ団」
7.下司潔
 「美味しい魚を食べたい。という点から家を考えてみた。
  最近余呉湖の湖畔にある料理宿に行った時に目の前の余呉湖で採れたものやその周りの山で採れたものが出てきて本当に美味しかったから。」
8.おくむらまさなり
 「即興合奏と熱拡散方程式」
9.青松としひろ
 「手作りおにぎりのいいところ」
10.赤阪正敏
 「ダンス」
以上です。
(僕が人生で大変大きな影響を受けた「ある人」が特別寄稿をしてくださっています。これも、手に取ってからのお楽しみ♪)
僕が35年生きてきて、今、人生がリンクし「つきぬけてくる」と僕が感じた人たちと作品たち。
ぜひじっくりと味わってみてください。
そして、そこから続いていくみなさんの人生にこの本が在ることを幸せに思います。
STAGE出版
赤阪正敏
✩1号のご予約について
1号にご興味のある方は
「お名前・ご住所・ご連絡先・ご希望部数・『STAGE』をどこでお知りになったか」
をお書き添えのうえ、 下記のアドレスまでメールでお申し込みくださいませ。
stage.live.info✩gmail.com(✩を@に変えてください)
また、「うちのお店に置くよ」という方もご連絡ください。
詳細はメールにてやり取りさせていただきます。

 

孤を終わらせる動機 人間と演劇研究所「からだとことばのレッスン」に行ってきた

人間と演劇研究所の「からだとことばのレッスン」に参加。
リードする瀬戸嶋充さんは、野口三千三、竹内敏晴、林竹二に師事されたということでお話しをきいてみたかった。

 

林竹二は僕も立命館大の長橋為介さんに教えてもらわなければ知らなかった。卒業研究みたいに関心ある一点について文献を追っていくということをしなければ、価値ある情報も出会わないままなのだろうかと思った。そう思ってもやらないけど。周りに出てきた情報を少しだけ追ってみるだけになってしまう。

 

大村はまさんもそうだけど、吟味され、既に到達してくれている知見があるのにそれが後世の常識になってないのはどういうことだろう? むしろ常識は後退しているのではと感じる。世間も僕のようなものだからか。

 

教育に関する林竹二、言うことの次元が違う。引用する。(今はリンク切れで元ブログアクセスできず。)
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「林氏は授業の核心は発言ではなく、その吟味であると言う。
 吟味とは、「何かを教えることではない。問題をつきつけて、子ども自身にこれでいいのかということを考えさせる作業」であると言う。「学問というのは、カタルシスだといっているのです。吟味がその方法です」林氏は子どもが変わるのは、吟味し真の否定が行なわれた時であると言う。「学んだことの唯一の証しは、なにかが変わること」」
http://www.chiba-fjb.ac.jp/masao_n/jikiden/shugyou(10)/bunseki2.html
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「真の否定が行われる」という言葉、その視点はなかなか聞けない気がする。僕は自分のなかでは棄却という言葉を使っていた。もう二度とその考えでぐるぐるすることをなくならせること。理解とは既にもっているもの、曖昧だからこそかたちをもち残っているものを完全に終わらせることのほうに近いのではと思う。

 

竹内敏晴は、大学の学部の時のテキスト『人間関係トレーニング』で知った。関心は持ったけれど関西付近でワークショップなり体験できるところが見当たらなかったまま、そのままになった。ある時橋本久仁彦さんと野村香子さんのワークショップを受けて、ダンサーの人の感性すごいなと思ったのがきっかけで、コンタクトインプロの定期レッスンに行ったり、ダンスのワークショップに行ったりしだすと、アイスブレイク、ウォームアップ的なところで竹内敏晴や野口三千三のワークがそれと銘打たずによくされているようだなと思った。名前は出てこないけれど、その断片が日常のものとしてそれぞれに受容され浸透している感じがした。そして林竹二と対談している本『からだ=魂のドラマ』に出会って、二人が共に活動していたんだということを初めて知った。

 

今回の参加にあたって、ここでは「ことば」という言葉の使い方が独特だなと思った。身体に重きがおかれるところで、ことばといえば「言葉=思考=動きやプロセスをとめるもの」「考えるな感じろ」的な距離感がありそうなところなのに「ことば」と使うのはなぜなんだろう。使われている言葉から考えてみる。

 

ーーー
長年の実践を経て「からだとことば」そして「いのち」への眼差しが、私の中で開かれてきました。両氏(→野口三千三と竹内敏晴)の語っていた「からだ」とは「いのち」のことであり、「ことば」は「いのち」の現れそのものであったことに気づき、同時に「からだ」=「いのち」が私にも諒解されてきました。

・・・

ものごとをありのままに見るはたらきを妨げる「からだ」と「こころ」のこわばりをときほぐすのが「野口体操」のレッスンです。
深く広い集中によって、ありのままの自分を生き、他者とのつながりの中に「ことば」への信頼と「ことば」の豊かさを取り戻していくのが「竹内からだとことばのレッスンです。」

「からだとことばのレッスン」ワークショップパンフレット
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「からだとことばのレッスン」で、私が求めていることは、自分の「からだ」を「ことば」に明け渡してしまうことです。「ことば」に明け渡すということは、物語の戯曲のセリフなど、「ことば」に内在する、感情やイメージに自分の「からだ」を明け渡すことです。

この場合、障碍になるのが、自分(自意識)です。・・(略)・・
自己の表現に対して、常に自意識の監視がつきまといます。

「ことば」に「からだ」を明け渡すとは、自分の表現を作り出すことに、責任を持ちません。表現の主体(本体)は自分では無くなります。「ことば」に触発されて身内から生まれる感情やイメージが表現される主体となって、自己を衝き動かす。意識はそれを妨げない。そのためには表現を受け取る側(相手役や観客・対象)へと、途切れることなく向かい続ける、開けっ放しの集中が求められます。

いまこの場に生まれ自ら衝き動かしている表現に、自意識が善悪好悪の評価を加えようとする瞬間、注意(集中)は自らの「からだ」と「こころ」に囚われ、外部に向けて開け放たれていた集中は蓋をされ、「ことば」(イメージや感情)の表現の道筋は閉ざされてしまいます。

この場合の表現において、責任を持つとすれば、それは自分の「からだ」を開き続ける努力(深い集中)に対してです。その時々に、自分の内側から表現されてくる結果に対し、自ら評価を下してはならないのです。

「ことば」自体が目的を達成します。自分の目的を持ち込んで達成感を目指せば、物語や戯曲自体の持つ「ことば」の「いのち」は葬りさられることになります。

人間と演劇研究所ブログ
http://karadazerohonpo.blog11.fc2.com/blog-entry-235.html
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「からだ」とは「いのち」の現れそのものであるとある。その「からだ」を「ことば」に明け渡す。「いのち」の現れそのものを「ことば」に明け渡す。

 

間違いを承知で自分なりの言い換えを探してみると、明け渡すというときの「からだ」は、自意識の支配下にある「からだ」という感じがする。「いのち」の現れとは、生体に不断に働いている動的なプロセス、更新作用そのものだとしたら、自意識はそのプロセスが動き出すことを阻害する。「ことば」とはプロセスが自律的に提示する道筋ともいえるのかと思う。自意識は自分の崩壊の危険を避けることを明け渡し、兆しとして現れてくる、保証の無い浮き石に運命をゆだねて渡っていく。


「からだ」そのものであり、物語や戯曲の「ことば」がもつ「いのち」とは。「からだ」が個人に属すものと受け取られるのに対して、「いのち」は物語や戯曲にもその範囲を広げている。

 

ここにきて、「からだ」「ことば」「いのち」はひとつのものを指すのではないかという気がしてくる。それは、全てが一体となった関係性のなかに存在する自律的で動的な更新プロセスではないだろうか。

 

「からだ」と「ことば」の自律的が自意識によって阻害される。個というものも恣意的な区切りに過ぎないが、その区切りの範囲内だけで限定するなら自律的プロセスは阻害を越えることが出来ない場合がある。

 

そこに物理的存在としての他者(他人)があると、むろんこの場合も自意識の阻害の影響を受けるのだが、自律的な動的プロセスは自分と目の前にいる人とを「融合」させ、この二人をして全体・総体として自らを展開させていく力を得る。

 

「いのち」と表現される自律性の強い響きは、大きな力を持つ。人の深い部分を揺り動かす強度をもった物語や戯曲は、その自律性の質の強度は、自意識の強力な保守性に干渉し、揺り動かし、塗り替える力がある。

 

自律的で動的なプロセスは個として区切られたあらゆるところに存在し、同時に全体としても存在している。

 

それは、自らによって自らの目的を達成する。限界ある人間としてできることは、そのプロセスがプロセスとして進むための環境を整え、プロセスをつないでいくことではないだろうか。

 

そしてこのプロセスをすすめるための条件や動機は何かと考える。自意識の強力な保守性、自身への固執を越えるものは何なのか。もちろん、自律性自体がその力を持つものであるのだが、僕はそこに個体としての動機を重ねることが有効なのではないかと思う。

 

それは弔いだと思う。自意識は死に切れない業を持つがゆえに存在としての苦しみを持つ。作用に反作用があるように、死に切れない苦しさを持つがゆえに、そこから解放される強い願いを不可避的にかかえている。

 

弔いは、死に切れないものを死に切らせるための祝祭の空間で遂行される。その空間は自意識が死なないために同一化している価値が無になるところ。自意識はその空間の支えによって、同一化している価値から離れることができる。

 

そしてその弔いの動機とは贖われることのない孤独であると思う。個として持った存在の根源の苦しみ。個は孤。個(孤)として区切られたゆえに否応なくもたされる世界からの絶対的な隔絶、孤立、遺棄。深く孤に突きつけられたものがその苦しみを動機として、死に切れない生の業に拮抗することができる。

もはやごまかしきれない生の業に直面しそのなかにいるものが、抗い、個を終わらせる動機をもつと思う。施設に入れられた子どもが、成人後同じ立場にある子どものための施設をつくるドキュメンタリーを観たことがあった。苦しみへの向き合いは、弔いのかたちをとるようにみえる。終わらせるためにもう一度そこに苦しみの本質を現前させる。そこに自ら対峙することは、根源的な苦しみに対する防衛反応として死なないことを引き受けていた自意識の役割を解き、消滅させていく。

遊び 揺り動かし、意味から解き放つものとして

遊び。

先の投稿で哲学カフェについて書いたけれど、僕は哲学書の一つも読んでいない(それがいいとも思ってないが。)。既にある体系ももちろん重要なのだけど、さらに重要なことがある。それは何かの権威よりも自分のなかにある自律性を優先させるということだ。この自律性の優先がまずあって、そこから聞く耳をもつのが大事なのであって、はじめから権威に従うのは本末転倒だ。それは自分を駄目にして力を奪っていくことに等しい。軸が失われ、身体に一致してない行動によっては学ぶことはできず、更新はやってこない。


自律性というのは、遊びというかたちをとって出てくる。あるいは遊びという場のなかに出てくると思う。哲学カフェで「哲学」を銘打っているのは、既にある価値観とか、しがらみを持ち込ませない「真剣な遊び」にするためだ。「哲学」と銘打つことによって、日常の価値基準がキャンセルされた場、ゼロになった場をつくる。そうしないと、自律性は遊び出さない。

 

邪魔しているのは、日常の価値基準。何が上で何が下なのか、何が正しく何が間違っているのかなど、決まった価値観の檻のようになったところで遊びはおこってこない。日常の価値基準の支配を無力化することが必要だ。

 

真剣な遊びにならないなら、やる意味がない。発想されて価値あるものは、動きだした自律性からのインスピレーションであると思う。それは真剣に遊ぶときに出てくる。

 

遊ぶことは揺り動かすこと。固まった認識や関係性、内在化した規範を揺り動かす。ここには状況に変化を起こそうとする動機がある。固まったものが邪魔なのだ。それがエネルギーの流れや展開するプロセスを阻害する。その状況を変えるために遊びの動機が生まれてくると思う。そこには純粋な主体性がある。「わたし」が主体性を持つ/持たないのではなく、主体性は自律的に存在しており、それに「わたし」が向き合えるかどうかというのが実際問題だと思う。

 

遊びは異空間をつくっていく。日常とは違う価値基準や関係性で織りなされた空間をつくり、そのことによってまた潜在していたものが呼び覚まされていく。

 

findhappiness.jp

 

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ギブアンドテイクが破綻するところ

経済的な効率性や合理性に回収されないものがある。必ずしも肯定的な現ればかりするものでなく、犯罪のような破滅的方向にも向かう。この力は世間一般的なギブアンドテイクに手なづけられない。そんなものではもはや割りが合わないのだ。
 
 
逆に言うならば、ギブアンドテイクによっては生きることはあがなわれない。世間に従うことによって世間が提示する「幸せ」や「保証」を得るのでは割りにあわなくなった人たちは、その向き合いを生きざるを得ない。
 
 
多くの人が向き合いたくないことは抑圧される。その抑圧は無自覚に、自然と少数者に割りを食わせる。多くのために犠牲になれと多くに属する自分のために言って押しつける。
 
 
駅のエレベーターは、国や鉄道会社が善意からつけたのではなく、障害のある人たちの運動によってできたと聞く。少し前は障害者が出歩くこと自体がわがままとされて白眼視されていた。
 
 
今では駅で健常者が普通にエレベーターを使う。誰かが代わりにやってくれたことの利便性を享受しながら、時には障害者が車椅子でエレベーターを利用するのは、あまり人が乗れなくなるから迷惑だと言わんばかりの目で見る。
 
 
フリーライダーであることを知らず、あるいは開きなおって抑圧に加担する。ごく自然に。
 
 
既に出来上がっているものとは、誰かにとって都合のいいものであり、その誰が1人であれ多数であれ、力を持っているからこそ維持される。そこにある根本的な欺瞞を明らかにしたり、変えようとすることは、力を持つもの、そこに乗っかっている者にとっては、わずらわしく、認めたくないもの。
 
 
少数者の告発は、それが妥当かどうかという議論や意識化に発展する前に、取るに足らぬ愚論、おかしな話しとして退けられる。自我の自動的な防衛機能は「逸らす」ことにあり、まともに考えるものとしてそもそも意識にのぼらせようとしない。
 
 
少数者が自分が生きるためにやらざるを得ないことは、必然的に多数者の欺瞞を明らかにすることとつながる。悪意すらない無自覚な無視と開きなおった抑圧に少数者は人間として反逆する。
 
 
その反逆によってもたらされた利益は、エレベーターのように、また力を持った多数者に当然のように持っていかれるのだけど。
 
 
反逆の代償は、特許のように固定化できない。ギブアンドテイクにならない。世間的にはやり損なのだ。それによって弔われるのは自らのうちと、同じ抑圧に泣いていたものの心のうちだけだ。だけれど、何かをもらう引き換えのためにやっていたのではない。自身として生きるために贈り続ける。

哲学カフェ@本町エスコーラ 「自信とは何か」

12日は、本町エスコーラにて小さいお話し会という名で哲学カフェをする。

 

浜松のクリエィティブサポートレッツのフライヤーが簡潔に満遍なく哲学カフェとは何かについてまとめてくれているので、スムーズに導入できた。

 

テーマは「自信とは何か」。
そもそもそういうものが本当にあるのかというところから話しを始める。

 

「自信」という「肯定的なもの」が自分に加わるといいのか?
または「否定的なもの」、自分の価値を積極的に下げるものが取り除かれればそれでいいのか。

 

現実的な行動をするという意味では、いちいち自分というものに対して価値判断をいれて、自分が好きだとか、嫌いだとかの状態にもっていくよりただあるもの、ただあることをニュートラルにとらえるほうが滞りがないようにみえないか。

 

能力や容姿などの資質、環境、財産など「もっていること」と「もっていないこと」がなぜ否定を自己価値に侵入させるのか。

 

所有と「自信」との関係
「〜をもっているから私には価値がある」

 

何も持っていない人には「自信」はありようがないのか?

 

乳幼児に関わる仕事をした方が何もできなくても「ありのままで素晴らしい」と実感したという事例から推測すると必ずしもそうとも思えない。

 

「何か」に照らして劣っている、よくないということがあり、この参照する「何か」の価値基準を無自覚に信じ、絶対化しているということがある。

 

文化人類学者の波平恵美子さんが紹介していた事例で、昔ミクロネシア(多分。)に拒食症はなかったが、ツィギーという針金のような細い足をしたモデルが映像で紹介されてからその症例が報告されるようになったというものがあったと思う。

 

ある価値基準が自分の今を超える大きなものとして自分のなかに設定されなければ、何も苦しまずそのままでいたのだと思う。一旦その価値基準が自分にはいると、あとはそれに支配される。

 

主体的な私が価値観をもっているのではなく、価値観が私を支配している。「そうでなければならない私」をつくり、強迫を続ける。

 

無自覚な価値基準や思い込みは、それがどのように成り立っているかが吟味され、見られていくと、価値基準の前提となる部分にまるで妥当性がないことが見えて瓦解する。必要なのはその成り立ちに意識の光をあて、曖昧であるがゆえに成り立っていたものを成り立たせなくすることであるように思う。

 

無自覚な思い込みや価値基準は、それが明らかに成り立たない状況を目の当たりにすれば変わる。必要なのは「目撃」体験だと思う。

 

沢木耕太郎の『深夜特急』で沢木は初めてあった人に屋台に連れて行かれ歓待される。その人は気がいいが家も持たない貧しい労働者で、宴の終盤には姿を消していた。沢木は彼の人間観で、その人は自分をいい気分にさせてくれた代わりに自分に食事代をおごらすつもりだったのだと解釈し、お代を払おうとしたが屋台主にお金は沢木の分も含めて支払われていると告げられる。家も持てない労働者に何もかもをプレゼントされたのだった。旅の初期に贈られたこの人間観の変容はその後の旅の体験をどのように変えただろうかと思う。

 

無自覚に信じていたものがそうではなかったということを「目撃」するには、上記のような状況に遭遇するだけでなく、シンプルに前提を問うていく哲学カフェのような場も有効だと思う。適切な問いが現れたとき、曖昧なゆえに暗闇で成り立っていたものは元の状態を保ち得ない。

 

難しいことをあらかじめ知らなくても、それぞれの自身に深く根ざしたリアリティから問いを投げかけるとき、その問いは他者となり、場にある無自覚なものを破綻させ塗り替えていく。

 

哲学カフェを含めた対話の試行を続けていきたいと思っている。今回の「自信」についてのやりとりも一回限りではなく、誰かが気になったポイントでもう一回会をもうけて、さらに吟味していくこともできるだろう。自分たちの周りで気になったことを話し合い、吟味できる場があればそこにあるものはより新しく、有機的で融通無碍になっていくと思う。

 

医療人類学入門 (朝日選書)

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深夜特急〈1〉香港・マカオ (新潮文庫)

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