降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

当事者研究in鈴鹿

鈴鹿当事者研究をやってみようという話しになった。

 

当事者研究とは

当事者研究」は、北海道浦河町における「べてるの家」をはじめとする起業をベースとした統合失調症などをかかえた当事者活動や暮らしの中から生まれ育ってきたエンパワメント・アプローチであり、当事者の生活経験の蓄積から生まれた自助-自分を助け、励まし、活かす-と自治(自己治療・自己統治)のツールである。
当事者研究では、当事者がかかえる固有の生きづらさ-見極めや対処が難しいさまざまな圧迫感(幻覚や妄想を含む)、不快なできごとや感覚(臭いや味、まわりの発する音や声など)、その他の身体の不調や症状、薬との付き合い方などの他、家族・仲間・職場における人間関係にかかわる苦労、日常生活とかかわりの深い制度やサービスの活用レベルまで、そこから生じるジレンマや葛藤を、自分の”大切な苦労”と捉えるところに特徴がある。そして、その中から生きやすさに向けた「研究テーマ」を見出し、その出来事や経験の背景にある前向きな意味や可能性、パターン等を見極め、仲間や関係者の経験も取り入れながら、自分らしいユニークな発想で、その人に合った“自助-自分の助け方”や理解を創造していくプロセスを重んじる。 当事者研究ネットワーク | 当事者研究とは-当事者研究の理念と構成- (向谷地生良)

 

当事者研究浦河べてるの家ではじめられたものだが、精神障害に限らず様々な「苦労」を自分たちで取り組み、状況をひらく可能性をもっている。最近では熊谷晋一郎さんらが発達障害の人や薬物依存の人たちと共に当事者研究の裾野を広げているようだ。

 

当事者研究的なことは数年前にもやっていたのだけれど、あまり掘り下げることができなかったのだが、鈴鹿アズワン・コミュニティのスクールに何度か行くなかで、焦点をもってやれるかなという感じになった。アズワンのスクールでは、自分の認知のあり方を観察できるようになっていく体系ができており、観察によって自分(たち)で自分の感情的な自動反応を取り除いていく実践が行われ、その効果が目に見えるかたちで現れてきている。

 

自分の当事者研究のテーマとして、「言い出さない」ということから始めてみたいと思っている。僕は、人が話していたらまずそれをきく。色々思うことがあっても言い出さない。自分の気持ちや感じていることなど話すのには引け目がある。一方で無用だと思う話しとか、話しをお互いのキャッチボールではなくて自分がピッチャーで相手はキャッチャーだと思っているかのような一方的な話しをする人にイライラする。また話し出せないことによって気が鬱屈する。これがまた話し出さないサイクルを生む。

模造紙を使い、これら一つ一つの要素をマインドマップのようにつなげたり、そこから新しく発見したことを書いていった。

https://www.instagram.com/p/BImUKzfBw2z/

当事者研究の試行


そもそも言い出さないところには、否定的な自己観がある。自分の気持や感情など言い出すことには価値がないと認知していること、また他人と軋轢や緊張を生むことを回避する。否定的な自己観があり、それを隠したり、表に出さないために意識的な努力をする。だがその努力に終わりはなく、また状況や人を自分がコントロールすることはできないので不毛であり、疲れや自己否定が募る。

自己観には、子どものころ、親が居ない間にやってきて無理やり組み敷いてキスしていた親族の存在が大きく影響しているようだ。その親族の気持ち悪さ、無神経さ、人の心や自身のあり方を客観視できない鈍感さ、自己中心性などを心の底から軽蔑したが、その親族の「ようではない」ことが自分が自分たる価値であり、自分のアイデンティティになっていた。すると結局、隠れた自己イメージはその親族になってしまっているのだ。アンチとしてしか自分の価値が存在しないのと同時に、いつでも自分の振る舞いによってその親族の性質と自分は同一化してしまう。

・あるべき自己観(自分=親族と逆の存在)→気持ち悪くない、無神経でない、暗愚でない、自分をわきまえる
・隠れた自己観(自分=親族)→気持ち悪い、無神経、暗愚、自分をわきまえない

 

そして、隠れた自己観からできるだけ離れるためにありとあらゆる努力をしようとするのだが、その具体的なやり方は「しない」ことだった。「する」ことには能力的な限界や難しさもあるが、「話さない」とか「嫌なことをしない」とかなどの「しない」ことはコントロールできる。「わきまえた」とは「しない」ことだった。だが、「しない」ことによって気持ちは鬱屈し、自己否定感は強まり、余計自分を表現しづらくなるという悪循環がおこる。


・否定的な自己観への慣習的対策と無限ループ

→「しない」こと、我慢することによって自己観を保つ

→「しない」ことによる鬱屈した気持ちが自己否定感を募らせる、自分の状態に鈍感になり、自己一致ができなくなる 

→適切な行動がとれない(人に譲る、自分で自分の状態をよくする責任を放棄する)

→混乱し、満足できず、自己否定感が募る

→低まった自己の価値を高めようとする反動がおきる

→「しない」ことによって高めようとする

 

「しない」ことは、多くのことにつながっていて興味深く、もう少し掘り下げていきたい。

 

自分のなかで人(とのやりとり、特に感情的やりとり、損得の入ったやりとりなど)を回避することが「安全だ」と認識されている。人とはいいところだけを見せてないと危ない存在だという態勢になっている。一方で人を避けていることは人に知られると、人はこちらへの態度を悪化させるから避けていることを知られてはならない。バレるのを恐れる。これはどうなっているか。

 

人を避けることによって、人に自分の「見栄え悪い」面を見せなくてすむ。他人の頭のなかの自己イメージを肯定的に保つために、関わることを避け、つきあいたくない「実際の自分」を見せてはならない。「見栄えが悪い」面を人に見せることにより、人と人との間のなかで生きていくのが困難になる恐怖がある。


・人が見える→ああ、どう対応すればいいのか(適切な振る舞いができなければ危機!)→不安・緊張→何がしかの判断→対応→あまりうまくいかない感じ(緊張や不安が相手に見える・知らないふりで行き過ぎてもその自分に何か後ろめたさや情けなさを感じる)→人にあうのを恐れる→うまくいかないサイクル

・そこにある自己イメージ →自分は失敗する うまく振る舞えない 必ず悪いイメージを与える 人といると緊張し、その緊張が相手に伝わって避けられる 関係が悪くなると自分で修復できない

・人→ 自分の振る舞い次第で敵になる(潜在的な脅威)自分の振る舞い次第では脅威でなくなる この人の頭のなかにある自分のイメージを自分でコントロールできる 

 

整理していくと見えてくるものがある。この場面において、「自分はできない」という否定的自己イメージに脅かされているのが前面に出ているが、同時に幻想の自己イメージがある。コントロールできる自分。うまくこなせる自分。そういう高みからみたときに「失敗」はあるわけだ。「失敗」がなければその幻想に浸れる。事実に直面しなければ甘美な幻想のなかに生きていられる。しかしその幻想はあまり意識化されていない。人を避けるというなかには、幻想の自己イメージを守るということがある。ではその幻想の自己イメージはなぜ要請されるのか。

続く。

 




リレー

命のリレーという言い方はよく聞くけれど、ふとリレーしているのは命だけだろうかと思う。

 

手渡さずにはいられない存在、影響させずにはいさせない存在としての人を考えてみる。

 

隣の人がどんな人だか知らなくて関係もなくても、個々人や個々の家族が孤立しても、誰かが自分と違った生き方をしていても、他人のことを全く関係ないと無視していても、影響されることから誰も逃がれることができない。

 

心理的影響だけでなく、時に生き死にですら影響される。

 

人は、そのあり方だけでこの瞬間に影響を与える。存在として手渡さずにはいられなものなのだと思う。

3万人の自殺。
鉄道に身を投げる人のメッセージ。

 

受け取ってほしいのに受け取られないものは、増幅されていく。受け取らないよと握った一本一本の指の骨を折ってこじあけてでも握らされる。

 

手渡さずにはいられないこと。
手渡されずにはいられないこと。

 

避けられないリレーのなかにいる。

屋根裏

家にいるネズミ、活発になってはまたいなくなるサイクルがある。

いなくなるのは、ネズミを獲る猫かイタチかが入ってくるからだ。

 

昨日の夜に天井で重みのあるものが動いている音がして、そんなにバタバタしなかったけれど、キューッというたぶん断末魔の声かと思われる鳴き声があがるのが間を置いて数回あった。

 

ネズミに収穫してきた米やら食べものを執拗に狙って来られたときが数年前にあって、容赦のない荒らしっぶりに今まで「寛容に」接してきたつもり気持ちを裏切られた気になったことがあった。

 

自分の「寛容な」態度など、ネズミのためなどではなく、接する自分に「優しさ」を見ようとし、幻想のなかで悦に入るための欺瞞でしかなかったなと思った。ネズミは生きるためだったら、それが可能ならこちらを殺しにでもくる気概だろう。その真剣さに対して自分の態度が誤っていたと思った。

 

ネズミがそこまで調子に乗るようになっていたのは、こちらの対応が原因だったと思った。ネズミのほうとしてももう当然となった餌場を、今更我慢して帰るとはいれらないようになっていたように感じた。罠をはっていても、なお強引にきて何匹も捕まっていった。

 

その時のような状態はその後なくなった。上で書いた通り、ネズミが活発になるとそれを獲る動物が来るようになったからというのもある。その動物はここにネズミがあらわれてくることに味をしめ、ある程度定期的に見回りに来ているような気がする。

 

4月に来たシェアハウスの新しい住人が台所でネズミを見つけ、しばらくすると屋根裏でもネズミの音がするようになった。食べものに被害がではじめたら罠をはろうと思っていたが、ネズミを獲りにくる動物を待っていた。1ヶ月ぐらい待っただろうか。そして昨日となった。

 

ようやく来たかと思った。ネズミに対して憎たらしさはあれど、可哀想だなどと全然思っておらず、はやく獲りに来いと思っていた。

 

だが屋根裏でその捕物がおこっているのを下でずっときいているのは思ったより不気味に感じた。イタチだか猫だか知らないその動物は、重みのある音としてしか現れない。餌場ができたら入ってくる見えないものの食欲。屋根裏とその下の自分の弛緩した日常とのギャップ。平らげられるネズミ。

 

その動物は、何も知らない新しいネズミがまたやってきて増えるのを待つのだろう。定期巡回を知らないネズミは、ひとときの居場所を謳歌する。

 

相模原では知的障害者が多数殺害される事件がおこった。自分にとって不気味なのは、その考えに同調するような言説をする人たちが普通に見られることだ。

 

社会的雰囲気の後押しがなければこの事件はおこっただろうか、と思う。自分の犯行の予告状を衆議院議長に送るという行為は国が自分と同じ考えであることを直観していたということではないだろうか。何かの兆しが彼にはそう受け取られていたのではなかったのか。

 

一目瞭然で見える世界のすぐ隣に、何かが生きうごめいている。それは人を乗っ取るように入り込み、動かす。獲物をえて食欲とエネルギーを満たし、力をためる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アズワン・コミュニティ 自分を見るためのコース

鈴鹿アズワン・コミュニティに月のうち10日ほど滞在している今年。

 

コミュニティの名前を変えようかという話しもあるらしい。鈴鹿コミュニティとか。シンプルでいい感じだと思う。鈴鹿はワンノブゼム、それらの一つみたいな感じで。

 

コミュニティにはスクールというのがあって、コミュニティの人はそこで自己観察のやり方を覚え、自分で自分をみていくことができるようになっていく仕組みで僕も去年から行っている。

 

今回は「自分を見るためのコース」というのに出た。自分におこる感情的な自動反応は、自分がとらえたことと、自分のなかにもともとある、往々にして無自覚な価値判断の基準が掛け算になっておこっている。だから自動反応は、そもそもの自分の捉え方がどうなっているかというのと、もう一つ無自覚で固定化した価値判断基準のどちらかが変われば変化する。

 

合宿形式のコースは7つあって、とりあえず一通りは出たけれど、コミュニティの人たちは繰り返し行っている。

 

 

だがいまだにコースにどのように臨んだらいいかがまだわかっていない。
どうやったらこの時間をより生かせるのか。今いるところから先にすすめていけるのか。

 

思っていることがあっても一旦その場の話しが止むまで待つので、そのままになってしまうことが多い。

 

人の話しをちゃんと最後まできくのも大事だが、場に対しての違和感があったり、「あれ、今どこ行ってるんだろうな」と思うときは間髪入れず表明するのも必要だと思った。

 

でないと、話しが話しをよび5分とか10分とかはすぐたってしまう。

 

もともと言い出すのに勢いや力がいるほうだ。他の人は自分に比べると、臨戦態勢にあるように誰かの言葉のつぎにすぐ話し始められるように感じる。間髪入れずに調整するときはこの臨戦態勢にある必要があるように思った。

 

うしおととら」にセリフがあった。
ーーー

そうすりゃどーなる?

時がただ流れていってどーなる?

乗りてえ風に遅れたヤツは間抜けってんだ

人間に化けてる間に覚えたコトバ…
『祈って待ってれば今にいいコトありマスヨ』…
人間…いいコト教えてやらあ。待ってたっていいコトなんざねえよ
[とら]
ーーー

 

 

http://art44.photozou.jp/pub/18/833018/photo/73389654_624.jpg

 

あらためてとらのセリフを見ても思うが、言い出せないという状態の中身が、べたべたしているなと思った。つまりは場や相手におもねっている。そして相手が自分の話しに終始して時間がなくなったりするとその人のせいでと思ったりする。投げやりさは辞めていかないとはじまらないなと思う。

 

しかし脱線するがマンガでとらの状況は、とらが信心深く騙されやすい老婆に化けていて、それを盗賊か何かが騙して襲うというもの。ストーリー上はとらが正体だから老婆はただの演技なわけだが、これをある状態のたとえとしてみることができる。老婆の抑圧のメカニズムは、過酷な状況の展開によって破綻する。その亀裂から出てくるものがとらという象徴によって現れている。ここで「祈り待つ」ことは、死んだままでいること、止まったままでいること、受け取ったことを歪めること、自己放棄、自己欺瞞にほかならない。

 

西原理恵子のマンガに娘がいる拝み屋がいて、毎日熱心に仏壇みたいなのに祈っているだが娘は家を出て行ってしまうんじゃなかったかな。「50年拝み続けたお返しがこれですか」と拝み屋は突き放され、虚しさのなかで我にかえる。

 

コースのなかで出した事例で、ある知り合いが相手に話しかけるとき、まず絶対わからないようなことを言い、相手がどういうことかききかえすと腰を据えて話しだすということを何回かしていた。僕は話したいんだったら最初からそのように相手にお願いして言い出せばいいのに、相手にきき返させて、訊かれたから話すんだけどというやり方に腹立ちをもっていた。

 

人をコントロールするな、と苛立つ。人はモノじゃないんだから、自分がしたいことをするために人を無理やりにひきずりこむな、と思う。自分がやられても腹が立つが、人にやっているのを見ても腹が立っていた。

 

だが、自分の言い出さない、言い出せないというのは、背景は結局コントロールしようという動機があるわけだ。そしてそのしょうもないコントロールが効かなかったらその人のせいにして被害者になるとは都合がいい。被害者になるように待ち受けているから被害者になる。

 

このからくりは、自己否定感とつながっていて、単に積極的にコントロールしようということではなくて、状況が(悪い方に)変化する恐れているということがある。自分が働きかけると状況が悪い方向にいってしまうという信じこみが奥にある。自分は状況や人の気持ちが把握できないから選択は間違うという恐れ、状況が動くと自分では対応できなくなるという恐れ、自分は自分のことをそのまま言う価値がないという自己観がある。

 

そこらへんを含めてどういうアプローチが有効なのか。単に言い出しはじめてそのメカニズムを破綻させればいいという話しか。いずれにせよ、そちらの方向ににじり寄っていかないと、言えない→不満・自己無価値観の増大という悪循環になる。

 

今回のコースで流れが何かあらぬ方向行ってるな(勝手な自己認識。)、という折々に戻してくれる方がいた。自分は自己放棄的でほとんどそういうことをしてなかった。自分を主語とした誠実で率直な、勇気あるあり方だなと思った。

 

自分を見るということで、自分の事例を見ていくことをすると思っていたが、見たのはその場の人への自分の関わり方だったように思う。細かくみれるようになるというより、まずは自分の人への向き合い方、人といる場でのあり方のほうが先であって、今回はそれを見たのかなと思う。

選挙 「防衛反応」に対するアプローチ

選挙があって、低投票率だった。投票しないのはなぜなのかと考えるときに、僕は一つは自治意識が疎外されているからだと思う。


自分の直接感じることにしか適切に反応できないというのは、普通の状態であると思う。国という抽象的なものに対して訓練もなしに適切にとらえることは誰もできないと思うが、そこに意識を通し働きかける主体になるためには、まず自分の周りのものを自分で直接働きかけて自分で自分の暮らしをつくっているという感覚をもつ必要があると考える。


自分が考えなくても働きかけなくても、お金さえあれば暮らしの基盤をつくるのは誰かがやってくれるという状態がそもそも疎外状況なのだ。考えなくてもいいということは、無関心になるということであり、無責任になるということ。


国家というのはそもそも権力者が自分たちのためにつくったもので、王政などの権力の一部を力で奪いとった市民がその力のつなひきをやめればいつでも初期状態に近づき戻っていく。

 

自治意識が人を健全にすると考える。歯車の一部でしかない存在にされたときに、自治意識は放棄されている。そのとき無責任無関心は当然の帰結だ。

 

そういう意味では、国の規模が大きければ大きいほど人は自治意識を奪われやすいだろう。小さな単位が独立し自立しているとき、人は世界全てに対峙し、責任をもっているもともとの状態だ。ところが大きいシステムはそれを奪う。

 

大きいことの合理性というのは、つまるところ力やエネルギーを集中させること以外に何かあるのだろうか? 僕は知らない。そして力を集中させて実質得をしているのは、力をもっている者、支配する側のほうだ。

 


まずは小さく自立すること。別にストイックに今あるものの使用を否定することはない。二重にすればいい。大きなシステムがありながら、同時に自分たちの小さな自立圏をつくり重ねる。ちょっと経済が変になれば連鎖的に全員困窮するという状態から脱する。その状態を完全に達成しきらなくても、自分たちの力でできることを増していくということ自体が生の充実と人の健全さを派生させていくことが感じられるだろう。世界を自分たちのほうに取り戻しているその状態、その感覚が人に自信と充実を与える。

 

遠いのはわかっているが、遠いかどうかを問題にするときは、それが苦痛だということが前提にある。充実していく道をいく。ただそれだけでいい。そして充実は世界から生きる主導権を自分たちのほうに取り戻していくところにある。完成したときに初めて得られるようなものは相手にせずに過程からして充実するものをやっていく。その時々のゴールは過程を充実させるために設定する。

 

社会がここまで来ている状況を鑑みれば、たとえば今回の選挙だけ野党が大勝したとしても、それが持続的に社会を良く変えていけるだろうか。個々人が自治意識を取り戻し、必要なものは自分たちの関係性のなかでつくりだすというところに戻らなければ、圧力に怯え、自分が世界に対峙するということを奪われた無責任で無関心で考えない個人がその潜在的不安とルサンチマンを利用され、いいように扇動されて自己破滅的方向に雪崩打つだけなのではないか。

 

ところで僕はいつもあるドッグトレーナーの言葉を思い出すのだけれど、そのドッグトレーナーはこう言っていた。

 

「犬はしっかりとしたリーダーを求めている。もしリーダーが頼りないと犬は不安のあまり自分がリーダーになろうとする。」

 

犬にとってリーダーになろうとすることは、不安に対する防衛反応だというわけだ。
この防衛反応という視点から現在の状況を見ることはできないだろうか。健全な状態の個々人の自由意志であるよりも、個々人の防衛反応が社会のこの状況をつくっていると。その場合だと、単純に多くの人に理性的な判断を求め続けることの効果はあまり高くない。理性的な選択とは、防衛反応に走らなくてもよい状態の個人が自然にとるものであるのかもしれない。防衛反応のなかにいる個人にいくら理性的な判断を求めても防衛反応を強めるだけになってしまう。それは北風アブローチなのだ。旅人はより重装備になる。

 

僕は、個々人が防衛反応に走らなくてもいい状態を先につくるということがこの状況に対する根本的な向き合いであると思う。

 

集団のなかにいなければ不安、同じでなければ不都合な目を受ける、自分の意見や気持ちを言いだせない等という、周りでごく当たり前に見受けられる反応は、既に防衛反応だと考える。どんなに多くそういう人がいたとしても、それは「普通」なのではなく疎外状況にいると僕は考える。言ってみれば疎外状況が多すぎてそれがニュートラルだと錯覚されているのが現代ではないか。

 

そこに向き合うことが必要なのだと思う。上記にあげたような防衛反応をしなくてもいい状態をつくり上げていく。同質集団でまとまるということが既に防衛反応だと感じられるようになるぐらいに。もし個々人がそれぞれを個として尊重している環境があれば、さらに同質性にすがる必要があるだろうか? 同質性にすがるのは揺り動かされ自分を失ってしまう強い不安がどこかにあるからではないだろうか。

 

人はそれぞれ違う。だがそれがなかなか認められない。好きで一緒になり、多くの時間を過ごしたパートナーとでさえお互いを自分とは全く別の文化や前提をもつ個であるとして尊重することができない。

 

ここが足元ではないだろうか。周りの人との関係性を成熟させていく力をそれぞれの人がもつ。そのことによって、ようやく個人というものは尊重され、大切にされる。これは個々人が、精神的に自立していくということでもあるが、関係性を成熟させていくということでもある。

 

個人が同質集団の一人ではなく、その人として大切されるという環境が作られる必要がある。選挙のときだけ一斉に投票してと周りに呼びかけるのは仕方がなくても、場当たりのものであって対症療法であると思う。呼びかけ方も「Aしてください。でなければBになります。」的なかたちにどうしてもなってしまう。そういう言われ方は、人は本来抵抗があると思う。

 

人に言われたから行くとか、ある人が頑張ったから行くとかは、直接的な働きかけやプレッシャーがかかっているからいってるわけで、それが一番いい状態なわけでは全くない。問題とすべきは、自分で世界を調整しようとする感覚や自信を失っていることだ。そこを回復しなければいけない。

 

どうやって回復していくのか。それはすぐ横の人、すぐ周りの人の関係性を質的に成熟させていくことだと思う。個々の人がそれぞれの意見や気持ちを表現することができるようになっていくことだと思う。

 

関係性を成熟させていくためには、対話ができる個々人になりあっていくことが必要になる。対話とはまず、同じ前提を共有しない他者と他者の間でおこるもの。そしてそれはどちらかが一方的に相手を変えるようなことではなく、互いを変えるもの。対話がおこったあとには何かが破綻していてもう後戻りはしない。

 

「どうして私はこうしているのにあなたはこうしないの!」となるのは、相手が自分と同じであることが前提になっている。もし相手と自分が全く違うなら自分がそうだからといって相手に怒りをもつことがない。

 

対話は実はすぐやろうとしてもできない。オープン・マインドでやろうとか言っても小手先の態度ではできない。上の例であれば、相手を認めようとしていても「こうすべき」という自分の前提が相手に押しつけられると頭のなかでなっているため、自動的に怒りが生まれ、それに大きく影響されるからだ。

 

対話ができるお互いになっていくということは、この無意識の前提や決めつけ、押しつけに気づいていくというプロセスを抜きには成り立たない。世間でも対話をすればいいとよくいわれているように感じるのだが、こうしようとかいう一時的な態度では対話は成り立たない。継続的な自分自身の思い込みに気づいていく過程が含まれていて初めて対話なのだと思う。

 

対話をスローガンのように受け取らず、思い込みを破綻させていくという実際の過程を含むものと捉え直す必要がある。そして対話がどのようにしたらおこりうるのか、それを発見し、蓄積していく必要がある。

 

僕が鈴鹿アズワンコミュニティに行っているのは、ここでは一度起きてしまった対立の危機を乗り越え、対話できるお互い、話しあいのできるお互いになる仕組みをつくりあげ、それが功を奏している実態があるためだ。対話しようとしても出来ないのがよくあるパターンだが、ある程度の規模がある単位で対話ができるようになる事例を僕は他に知らなかった。

 

対話とは何か。そしてどのようにしたら実際に対話ができるようになるお互いになるのか。スローガンではなく、本当にこれをやって進めていくことがこの状況に対する向き合いであると僕は思う。

 

対話については、斎藤環さんが書いた「オープン・ダイアローグとは何か」で興味深い事例が紹介されている。オープン・ダイアローグを実践している病院では、対話の研修をスタッフ全員が受けている。そして全員が対話できる状態になっているその派生的な効果として、役割による上下関係が薄れていき、誰かが仕事を抜けると一声いえば全員が有機的に動きそれを補える即興性が生まれているという。これは、対話の持つ関係性の正常化の力の例だ。

 

対話ができる関係性になるには、対話とは何かを実際に学び理解する過程が必要だ。対話は妥協点をみつけることが目的でもなく、相手を説得することが目的でもなくて、お互いのなかの思い込みを破綻させ、互いが実際に変化していくのが目的だ。対話ができるお互いになっていくことは、相手と自分を尊重するとはどういことなのかということを学んでいくことでもある。

 

互いを全く違った文化をもった個として尊重できあうようになっていくとき、そこには安心や信頼が生まれてくる。それが人と人との関係性や協働をさらに柔軟に自由にしていく。そのとき、同質性にすがる防衛反応は薄れていき、世界を自分で調整していく態度が生まれてくる。

 

それは終着点ではなく、プロセスだ。お互いがだんだんと対話できる関係性になっていくプロセスに入ること。「終着点」にたどり着くことであるよりも、過程を自分のものとして手に入れること。これが本当に社会が変わることを求めるときに必要な向き合いなのだと僕は思っている。

死の話しをシェアする場は優しい

シーカヤックで海上散骨の仕事をされている方のお話しを聞かせてもらう機会があった。


死の話しをシェアする場は優しい。本当はこんなふうに思っていたんだ、感じていたんだということが自然と話される。それは聞いている人もまきこんでこわばり、停止まっていた心の律動を蘇らせるように感じる。

 

死ということを生きているものの間に置くとき、生は相対化される。生は、生の絶対化によって疎外されている。生きるという責任を人間は本当には負いきれない。生を背負うことは人間の身に余る。死はそのことを認める契機をくれるものだ。

 

生は自分のものではなく通りすぎていくエネルギー。生の主体はエネルギーの流れであって、自意識ではない。もののけ姫のシシ神が触れたものが生を得て、そして枯れていくように、エネルギーそれ自体が一時的に媒体をまとうのだ。

 

自意識というのは幽霊のようなものだと思っている。だから弔いが必要なのだ。死者に対して弔いをしているのではなく、死者にむけているようで生きていることを弔っている。死者の弔いによって救われていくのはここで生きているものたちだ。

 

死を大切にすることは、この生をとむらうことだ。この生のとむらいこそを心は必要としている。一生をかけて人はその生を弔おうとする。それがいわゆるその人の「やりたいこと」なのだと僕は考えている。

セラピーでも、自己啓発でも、信仰でもなく。

内観に行くというと、何で行くのと聞かれることがある。今日もきかれた。

 

内観は、内観療法とも呼ばれ浄土真宗の修行方に着想を得て、吉本伊信が確立した観察法。身近な人について、してもらったこと、して返したこと、迷惑をかけたことの三点からみることをきっかけに幼年期から現在までを見直す。幼年期や青年期の体験を現在の大人の視点から見直すことにより自動的な感情の反応を引き起こしているような出来事の見方や感じ方が変わる。

 

内観療法 - Wikipedia

 

何でと訊かれるのも全くわからないこともない。「普通の人」は問題がない限りそういう自分を振り返るとか見つめるとかいうことはしないというのが一般の感覚なのだろう。

 

自分に問題がないといわないけれど、「普通の人」は小さいころから生きてきて自分がピンボール台の内部みたいに自動的反応や反射のかたまりになっていることには気づかないだろうか、と思う。

 

自然状態で生きていたら人は30歳とか40歳が寿命なのだとしたら、デフォルトの状態では人は「一旦身につけた反応の仕方は変わらないまま生を終える」感じなのではと推測する。一度身につけたものを解きほぐす仕組みは自然状態ではほぼカバーされていないのではないか。

 

それが自然状態じゃなくなって長寿になるとき、想定されていない事態がおこる。一度身につけたことが長く生きる際には不都合になっていったり、高コストになってくるのだ。その対応には、文化的にその状態に介入することが必要になってくると思う。デフォルトではたぶん想定外だから放っておいても変わらない。

 

こどもが大人をみたら、いっつも同じ反応だな、それぞれ違うことを退屈な感じでまとめてしまうなと感じるのではないかと思うのだけれど、ある程度きたら人はパターン化した反応の体系としてできあがってしまう。そこからは身体化したことを解きほぐし、そのパターンから脱していくということが質の違う開けを生んでいくと思う。

 

ところで僕はあんまり心というものを特別視することに興味がない。自意識が働きかけてできることなどそんな大したことじゃないと思うし、無意識とは、自意識が直接的には全く関与できないから無意識なのであって、そこを自意識で直接コントロールしようとか、感じようとかすることに意味がないと考えている。

 

無意識はそもそも相手にできないのだから、相手にするのはどこかというと、やはり自意識のほうだ。自意識のあり方が問題や何らかの阻害をおこす。自然でニュートラルな状態、自律的に整うプロセスを強制的に止め、邪魔し干渉するのは自意識だ。その邪魔のあり方、干渉のあり方を理解し害を相殺するということはできると考える。

 

もともとの自然ではなく、生後に構造化された心というのは、パソコンみたいなものだと思う。オペレーションシステム(OS)があって、アプリケーションがインストールされている。OS(=自意識)は同じことの繰り返しであってすぐ古くなる。生まれてからランダムにいれられたアプリケーションはメモリを余計に食って動作を遅くさせ、またアプリケーション間で不和をおこす。問題をおこしているのに気づけば整理したり、取り除く。

 

人とコンピュータが大きく違うのは、OSがアップデートするときだと思う。OSのほうは人が一から十まで考えて全部つくらないといけない。ところが、人のほうはOSが健全に破綻していくと自律的に次が生まれてくる。健康的に今あるOS(=閉じた思考とそれに紐付けられた反応の体系)を破綻させることが生産的であり、面白い。

 

このように、ある意味自分で自分を破綻させていくという倒錯のようなことをするのは、この自意識が文化的に構成されているものだからだと思う。文化的に作られたものは文化的なケアが必要であり、ほっとくと詰まりと滞りを派生させていく。一度人間が手を入れた人工林は継続的に人間がケアしないと荒れていく。心についてもまた同じだろうというのが僕の見方だ。

 

エネルギーが循環していることが生きていることだとする。その循環は自律的だ。何も考えなくても負担があればそれを避けるという動きが生きものには備わっている。より循環がいい状態になることを体は求める。循環は自律的にいい方向に向かう傾向をもっている。

 

体も心も大きくはこの自律的循環に従う。だから僕は自意識ではなく、循環が生きる主体であると思っている。自意識は過去を使ってしか考えられないし、過去を通してしかものを見ることができない。だが循環は自意識がそのような状態でも変化させていく力がある。

 

循環をできるだけ最適な状態にすることで、心にどれだけの恩恵がくるだろうか。生きているだけで自動的にインストールされ、心のなかで勝手に常駐して働いている余計なアプリだらけなのが普通の人の状態だと僕は思う。だからデフラグとか、アプリの削除とか、OSの更新が普通に必要だと思う。

 

それは掃除のようなケアだ。心は一時的な大きい快を求めているように錯覚されているが、実際は整うことを求めていると思う。大きい快は感じていることの麻痺に使われるだけだ。感じていることは麻痺によってではなく、そもそもの不快を取り除くだけで満足はやってくる。

 

セラピーとしてではなく、自己啓発としてでもなく、信仰によるものでもなく、自意識の掃除作業が普通の概念として位置づけられたらいいなと思う。


 

内観への招待―愛情の再発見と自己洞察のすすめ

内観への招待―愛情の再発見と自己洞察のすすめ